大地の蛇

 月光が振りそそぐ雲海に、巨大な積乱雲にまぎれていくつもの島が航行していた。下界から曇り空を見上げたときに地鳴りのような音を聞くことがあるだろう。それは雷の前兆であると同時に、この島のかたちをした永久機関がその土地の上空を通過していることを意味する。
 下界への分厚いカモフラージュに比べて島上部には天然の雲しかないが、それでも時折強風のラインにぶつかるとそこからたなびく雲の衣が瞬時に吹き消され、ラインを抜けた場所からまた穏やかに結びつきを取り戻す。
 島の表面にある庭には優れた技術を持つ人間と古の動物たちがともに暮らしていた。

 下界のそれとは比べ物にならない高高度技術で彼らがなぜ大地に別れを告げ、雲の上で暮らしているのか。疑問を抱いた青年がいた。島の住民たちの中でも「王子」と呼ばれている歳若い青年だった。まだ少年といってもいい境目の年頃かもしれぬ。
 青年がこの浮き島の成り立ちに疑問を抱く背景には、年頃の若者にはありがちな、自らの地位やルーツに対する知識欲があった。
(なぜだろう。もはや他の国と接触することもない今、この国に王族なんて階級はいらないんじゃないだろうか……みんなそんなものを必要としない賢い人たちばかりだ。もうこの国は権力層についてはすべて投票制にして、頭のいい人だけで政治をまとめあげるようにしたほうがいいのではないか)
 この浮き島から成り立つ国は、現在では民主主義を採用している。国名を宝瓶といった。この王子は将来的にこの国の議会の最上位に就いて議員らを任命する役目を担うはずだったが、……この国の老人たちはみな頭がいいくせに自分の脳が衰えたことだけは絶対に認めようとしない頑固者揃いで、従って若輩者の彼の出番はまだまだ何十年も先のことになりそうであった。
 培養土から生えた芝生の上に寝転がって月を仰ぐ。ここまで来れたのになぜあの星を目指さない? そうも考えたが彼からは肝心な歴史の知識がすっぽり抜け落ちていた。先端技術は日々進歩していくが人間それ自体の学習速度は昔とそれほど変わっていない。
(歴史なんてコンピュータに入ってるから要らないと思ったんだけどな)
 青年はズボンのポケットから掌大の金属の塊を取り出した。黒い表面が月光を受けてつるりと波をつくる。角が綺麗に加工されて持ち主を傷つけぬよう丸みを帯びた形。これ一つで何でもできるが、毎日光エネルギーを補充してやらないとすぐに力尽きる。
 水瓶王子は金属の塊を軽く一振りすると浮かび上がった文字群の中から一つを選んで指で押した。芝生に置いた金属が一枚の薄っぺらい板に変わり、王子の目の前に精細なホログラフィを映し出した。水瓶王子は薄っぺらい板に右手の指を走らせ、楽器を弾くようにしてホログラフィの中へ文字列を打ち込んでいく。

 太古、人類らは争った。
 宝瓶国の祖先たちは神になろうとした。言語を解さぬ猿が絶滅しても人類がなんとも思わないように、あまりに知識を重ねすぎた国の民はもはや文化の遅れた隣人らを自分たちと同等の存在だとは認識しなかったのだ。宝瓶の民は神々の力(おそらく雷や竜巻、悪質な病原菌、そして原子の火だと思われる)を自在に操り、猿たちを虐殺し、その脅威で大地全体を植民地化して一大帝国を築き上げようとしたのである。
 しかし当の宝瓶国の中にはそれを良しとせず自ら大地に下った者たちもいた。彼らは大地に数年かけて『蛇』を完成させ、それによって宝瓶国の浮き島の四分の一を消滅させた。そこに暮らしていた数万人の人命とともに。

『わたしたちは新しい星に到達するよりも先に、大地の蛇にすねを噛まれた。それ以上は毒が上ってくる前に足を切り落とすよりなかった。毒とは野蛮な猿どものことだ。わたしたちは、わたしたちの道具を使うことを覚えた猿たちの姿に生物としていいようのない恐怖をおぼえた。
 大地に下りた我が同士らも、もう無事に天へは戻れなかった。猿たちは手に入れた道具を結局自分らの略奪行為のために使おうとしたからだ。同士らの理想は打ち砕かれ、彼らは未来のために大地の蛇を誰にも使えぬよう眠らせて猿たちの中に消えていった。
 ──ガニュメデス記より抜粋』

 いくつもあがった検索結果のうち、上位にあがってきた資料のいくつかを照らし合わせて王子は嘆息した。どうやら王族とはずいぶん大昔からの名残りであるようだ。『大地の蛇』については、追加で調べていくといくつもその具体像が記された情報がでてきた。メカニズム的には完全に独立しており現代でも有効な代物と思われる。いたずらにその後の野蛮人たちによってが掘り起こされていなければ、の話だが。
(大地ではあれからどれだけ文明が進んだんだろうか。二千年経った。彼らも、さすがにそろそろを見つけるところまで育っているんじゃないか?)
 下はどうなっているんだろう。水瓶王子は身を起こして島の淵へと歩いていく。下の世界を見るためではなく厚い雲で下が見えないという確認のためだ。端に行けば行くほど全身に吹き付ける風が猛って体を攫われそうになる。宝瓶国の端には落下防止用の壁や柵やネットが隅々まで張り巡らされており、柵に乗り出すと気流に乱れた白い雲の流れを拝むことができる。
 荒ぶる風に目を細めながら青年はじっと黙って雲海の下を見つめる。
(祖先たちを恐怖させたものがこの下にある。……それは今の僕らの技術でも照らし出せないものだろうか? どうして僕らは下に干渉してはならないのだろうか?
 もう一度試すんじゃ駄目なのか? 両親や議会の老人どもはそれを許すだろうか……?)
 冷たい柵を握り締める手に力がこもる。青年は自分がこの手の好奇心に捕らわれると容易には自分を抑えられないことを知っていた。この島に生まれ落ちたときから、いつも何かを刷新せずには気がすまない気性を自分でも持て余していた。
 島の端にたたずむ青年の頭の中で猛烈な量の思考が回路を構築しはじめる。完全に管理された島の風景のほかには、下層に雷を含んだ雲とまばゆい月光がそれを見守るばかりだった。



 * * * * *



 テントの外は雷雨だった。乾季を前にした恵みの雨が穀倉地帯に降り注ぎ、密集した麦のうねる音が雨音と合わさって精霊の声のように聞くものの心を乱す。草原の民らは伝統的な低い円筒形のテントにこもり、端に煉瓦の重石をして嵐が過ぎ去るまで大人しく時を過ごしている。
 テントの中に、火をともした小さなランタンがある。牡牛王子はその側で厚手の寝巻きをまとい、膝の上にまだ齢四つの甥っ子をのせて村の長老の話に耳を傾けていた。老人のしわがれた喉から発される物語は幼子を引きつける発声法や語り口を心得ており、結果幼子は寝ることもできずにつぶらな眼をじっと老人へと向けることになるのだ。
「蛇遣いの話は聞いたことがあるかな」
「へびつかい?」
「おう。蛇遣いじゃ。この大陸には蛇遣いの操る大きな蛇が走っておる。大昔に神様がこの大陸で喧嘩をしとったとき、蛇遣いの男が一匹の大蛇をけしかけて神様を丸呑みさせてしまったんじゃ。喧嘩がうるさかったんじゃな。
 蛇は砂漠から飛び出すと大ーきく口をあけ、喧嘩しとった神様を両方とも飲み込んでまた砂の中へ消えた。おかげで蛇遣いは辺りが静かになってまた眠ることができるようになったという話じゃ」
「こわい」
「うん、怖いなあ」
 長老は微笑みながらうなずくだけで、決して結論は語らない。その寓話が「自然を畏れ敬う」という教訓のために存在するのだと牡牛が悟ったのは自分が成人してしばらく経ったあとのことだった。
 大切なことは口にしてはいけない。どれだけ時間を費やしても、聞き手にみずから悟らせるために。それが語り部の掟だった。
 夜話のあと長老に促され、甥っ子をベッドに寝かせつけてから、牡牛はランタンの光が消えていくのを見つめてしばらく考え事をしていた。今晩中はずっと嵐が続くだろう。明日には牛たちを放牧できるような天気になっていればいい。それに農民たちの作物も心配だ。
(俺も昔蛇遣いの話を聞いたなあ。野生の蛇を燻製にして食うまでは蛇が怖くてしょうがなかった。
 蛇遣いの名前がまたえらく長いんだ。あれは何だったか。ええと。人に言っちゃいけないやつ。言ったらすぐ縁切ったしてもらわないと夜のうちに蛇に見つかって食われる)
 牡牛王子は子供心に怖がりだったので蛇遣いの名前を誰にも教えなかったが、奇態なのは蛇遣いの名前に関する寓話を村の友人たちの誰も知らなかったことだった。
(どうして誰も知らなかったんだろう。珍しい話だったのかな。あれは)
 嵐の夜に懐かしい長い名前を思い出しながら牡牛王子は眠っていた。大陸に起ころうとしている戦乱については、できれば考えたくないなあと思いながら。



 * * * * *



 空が群青から醒めてゆく。これから陽がのぼり一気に温度が急上昇するであろう砂海の一角で、えらの張った黒蛇が静止した状態から鞭のように砂上を飛び砂鼠を捕らえた。
 雷雲が通過している金牛国から遠く離れ天蝎国の一日は厳かに始まろうとしていた。領土の外は全方位が砂。わずかなオアシスと乾いた土の上に築き上げられた都市群は熱線を防ぐために建物の外装をことごとく白く塗られ、地下は砂漠内の土地であろうと昼はひんやり、夜は穏やかな暖かさに保たれている。住民は男も女もみなすっぽりと袖口の広い布を被り、女はさらにヴェールで目元以外の全ての肌を隠す。
 支配者はオアシスに面する最も高い尖塔に雌伏する。土塗りで造られた長い回廊の先に玉座の間があり、今はそこに療養中の国王の代わりとして蛇の玉杖を携えた蠍王子が座っていた。漆黒の衣装に宝石の飾りをまとった王子は当時弱冠十八歳。母親が当代随一の美姫だったこともあり、その目元は異様に涼しく見るものに畏怖を感じさせた。
 王族関係者による謀殺を避けるため十歳まで女子として内密に育てられた落とし種だった。まだ彼の人生の中では女として生きてきた時間のほうが長い。蠍王子は目元こそ涼しいが時おり女のようにやわらかく微笑む。闇にいざなうその微笑と、感情が高ぶったときに黒目に映りこむ血の気の赤が妖しい色気を醸し出すのとでどれだけの人間が気をおかしくしたことか。
「それで、獅子と双児との間に動きは?」
「はい。獅子国第一王子の軍が各地から国境に向かって進軍を開始しております。双児国は出入国者が随分増えているようです。入国してきているのは処女、天秤、白羊、人馬の残党……」
「思ったよりも集まってきているな」
「人馬の残党以外は全て傭兵でございます。戦況が不利な方向に傾けば逃散するでしょう」
「ふむ」

 報告する家臣を前に、蠍王子は何かに物思うように玉杖を口へ当てた。金で装飾された蛇の頭が血のように真っ赤な玉を咥えている。
 これから城の外は急速に暑くなる。乾いた熱風が回廊の先から吹き込んでくるのを額に感じた。
「はた迷惑な一族だな。なぜ身内で噛みあわぬのか。……弟らのほうに送り込んだ密偵はどうなっている」
「潜伏中です。つつがなく定時報告がきております」
「現況を簡単に知りたい」
「はい。第二王子は現在西域の居城に戻り内政と兵の再編成に時間を割いているようです。第三王子のほうは特に今までと変わりません。政治に関しても地元出身の家臣らにまかせきりのようで」
「末っ子か。頭が肥え腐っているにしても寄生虫は入り込んでおるかもしれんな」
「……左様。第三王子に関しましては、本人よりも王子妃とその一族のほうが厄介ですな。ことに王子妃に関しましては倅が生まれてから出世に執着しているようです。人馬国は第二王子の手に落ち、容易に軍事侵攻できる国がもはや北方の地には残っておりません」
 蠍王子は沈黙のうちに目を細めて言葉を封じ固めた。獅子国第三王子デネボラが治める北域において、今や独断で侵攻できる他国は天蝎国一国に絞られたといってもいい。処女国もぎりぎり侵攻することができるがそのときは東域を統治する第一王子が黙っていまい。
 いかなる国の軍であれ、あの砂の海を犠牲なしに越えることは不可能である。しかしかの国によって砂の上に作られた自国の生命線が塞がれることも好ましくはない。
「今しばらく第三王子どのにはわが国の存在を忘れていていただく必要があるな」
「御意」
パイプを献上して夢を見せて差し上げるか。非公式にな。そなたはその間に密偵を追加して第三王子の政権を掌握せよ。手段は問わん」
「は」
 大国だからといって驕られては困る。大国は蛇の一噛み、蠍の一刺しであえなく倒れるみずからの呆気なさを自覚しなければならない。蠍王子は玉座に身をうずめながら、獅子国が瀕死の状態に達するまでみずから領土を広げようとは思わなかった。それは獅子が毒で死に絶えてからでも遅くはない。獅子が倒れれば残された国で領土を取り合う争いが起こるだろう。それを考えると、獅子には息も絶え絶えに生きていてもらうぐらいがちょうど良いのかもしれない。
 いずれにせよ、砂漠に取り囲まれたこの国が平和であればそれで良い。
(双児が多国間紛争に巻きこまれるとこちらも面倒なことになる。勝つにしろ滅ぶにしろ、うまくやってもらいたいものだな)

 はたして獅子と双児どちらが勝つか?
 蠍王子は玉杖の紅石を陽にかざす。暗く澄んだ血の輝きだ。同じ色の液体が大量に原野に流れるだろう。自由意志でそうするものはほとんどいないはずだ。彼らのそういった運命を、その死をも含め、権力でもって決めてしまうのが王族という立場の人間なのだ。
 十八歳という年齢に似つかわしくない重々しい沈黙がそこにあった。いつか彼自身にもそんな運命のときが来るだろう。蠍王子はいつでもその運命を請け負う覚悟でいる。砂漠をただ己の身一つで生き抜く蛇のように。


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作品データ

初出:2009/6/8
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同人誌『偽典・12国王子(1)』収録
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