風にたなびく者たち

 水平線に朝日が昇る少し前、空の明るみはじめたころから神官たちの朝は始まる。手入れされた庭を抱え込む白亜の神殿にうっすらと乳香フランキンセンスが焚きこめられ、朝の参拝のさなかに海を走った暁光が神殿と居並ぶ神像を照らし出すのだ。儀式を終えた神官たちはそこから整然と表へ出る。神殿の外には祝福を求めて参拝した民らが集い、神官たちからの祝福を待っている。
 神々のしもべを意味する純白の衣をまとい、肩から金色の帯をかけて少年はその場に居た。ここは祈りの国だ。今も自分の手をとおして神々の祝福を受けている民らが、生活のすべてを通して信仰を深め、その純化された想いは毎朝こうして香の煙のように天へとたなびいてゆく。
「神々の祝福がありますように」
 朝の礼拝から人々へと祝福を授けるこの時間のあいだ、齢十三歳の少年の瞳は天上の意識が乗り移ったかのように水色に澄みとおって微かなゆらめきを見せるのだった。人々は彼を「魚殿下」と呼んで崇めたが、少年は自分の非力さを知ってか知らずかそっと微笑むだけで大きな声をたてない。何十年も静けさが約束されてきたこの場所で、世界の人々のために祈り続けること──それがこの少年に課せられた義務である。



 大陸を震撼させた人馬国滅亡の報せから一ヶ月。
 魚は朝の礼拝を終えると衣服をこれも白い私服へと着替え、神学の勉強のために数冊の本を抱えて司祭の待つ部屋へと足を進めた。神殿の廊下を歩いていると鐘楼から鐘の音が聞こえてくる。見習い神官たちの朝の作業の始まりだ。自分も同じことを幼いころやらされて、飛び級の速さで作業のいらない地位へと格上げさせられたけれども。
 遠くの空に鐘楼から飛び立った鳥が舞っている。静かで争いのないことはよいことだ。ただ、齢にしては自由のないことが、この若い王子にとっては小さな引っ掛かりとなって残っていた。
「ふう……」
 ──隣国からの便りもとんと来なくなってしまった。
 双魚国の隣人は三人いて、魚はそれらの隣人を王家の面々の顔で覚えている。四季おりおりの挨拶を欠かさずにしてくれるのが天秤国、季節の折り目は不規則だがいつも楽しい贈り物をしてくれるのが双児国。獅子国は年ごとの挨拶は豪奢だが、特に個人的な付き合いは得られていない。魚がこのところ手紙の不通を惜しんで待ちのびているのは双児国の王子からの手紙だった。
「双子王子、どうされたんだろう。お忙しいのかな。それとも僕がいつも神様の話しかしないから飽きてしまわれたのかなあ」
 四つ年上の双児国王子が魚王子を弟分のように可愛がっていたことは双魚国の司祭者層の間でも有名な話だった。単なる国際交流で済めばほほえましい話だったのだがこの異国の王子は双魚国の宗教関係者にとってまさに悪さをなす妖精のような存在で、純粋培養されるはずだった魚王子が双子王子から過去にどれだけの「邪でどうでもいい事柄」を吹き込まれたか、考えるだけで頭痛の種が増える。魚王子は双子王子から手紙のたびに届く双児国の書物(いつも表紙はまともなのだが中身は検閲の目を逃れた抜け穴的な娯楽作品だった)を大切に保管して何度も読み返している。最近ではそれが司祭たちにとってタブーであるらしいことも理解していて、書物を守るためには王子の権限でも何でも容赦なく使った。そういうちょっとした立ち回りの仕方もいちいち双子王子に教えてもらっていた。
 ──いいかな魚王子。俗なことを覚えるってのは悪いことじゃない。むしろ思い上がった人間にならないようにするために大事なことさ。自分のことを神様だと思うような奴にかぎってデカい間違いをやらかすんだからな
 神殿の白く厚い雲の中に隠された、人間の黒い意識を見るたびに魚王子は双子王子の存在を思い出す。司祭たちが断固として拒絶するもの。拒絶することでより神へと近づけると信じているもの。
 だけどもそれは徳の最も高い司祭たちからさえ完全に拭い去ることができない。数こそ少ないがこの目で確実に見てきているのだ。繰り返される白い神の教えの中で、若い魚王子はどうにかその現実を忘れないようにしようと必死につとめていた。
 また一方で、自分には果たして聖職者としての資格があるのだろうかとも感じている。何せ本当は暇な時間に邪な書物をむさぼり読むような少年だ。民衆がこちらを見上げるときの、生き神を見るまなざしに対して、自分は偽りの儀式を行っているのだけなのではないだろうか?
「双子王子ならきっと教えてくれる気がするのになあ」
 もやもやする。生まれてからずっと、大人たちの希望を感じ取って流されてしまって。
 書物を抱えながら廊下の只中で地団駄を踏んだ。
「あー、そーとーにでーたーいーっ!!



 同じ頃。
 巨大な白亜の神殿の南に位置する小さな荘園で、僧侶とは似ても似つかぬ傭兵姿の男が白いヴェールの層の前に跪いていた。何十にも重ねられた半透明の絹の向こう側でぬめっと白い脚を晒した婦人が籐椅子に座っている。衣が作り出すゆるやかなカーブからかろうじて女性と判断はできるものの、顔にかぶせられた黒い布地のせいで婦人の年齢までは解りかねた。
 両者の間で、大理石の床に置かれた手紙が薔薇の残り香を放ちながら風に端をひらつかせる。
 婦人はこれも白い手を膝の上で重ね、細い背筋を籐椅子に預けて傭兵の男を見下ろしていた。
「何度こられても返事は同じだと、前にいらしたときにも申し上げたはずです。わたくしの国妃としての立場を、前回、先方には伝えていただけなかったのですか」
 ともすれば消えてしまいそうな憂いを含んだ声に傭兵の男は下唇を噛みながら踏みとどまる。男自身は傭兵の姿を借りた密使にすぎなかったが、眼前にたたずむ女の愛の化身とも呼べる姿を目にすれば彼の主人が前後を忘れて惚れ狂うのもわからないではなかった。いい年をした男がしどろもどろになりながら話した。これが男相手なら誰にも侮られはしなかったものを。
「わが主君は貴女様のお立場を補って余りある環境で貴女様を遇すると申しております。南の魚様。
 たしかにこの国での国妃の地位は、失われますが、貴女様自身の栄華は変わらない。貴女様がわが主君に応えてくださることによって、お子様の魚殿下もろとも新しい国での王家の地位が約束されましょう」
「わたくしは王家の地位を望んでいるわけではありません。ただ、争いのない愛に満ちた場所で日々を過ごしたいのです」
「僭越ながら……。この国の平和も、もはや永遠のものではありません。獅子の咆哮は今や天を衝く勢い。早晩この国にも戦火が押し寄せましょう」
「ご冗談はおよしになって」
「いいえ。わが主君は貴女様を后として迎える暁に、まず一国を花束として用意するでしょう。もし貴女様が望むのでしたらさらに一つ、さらにもう一つ」
「わたくしはそんなものは欲しくありません」
「残念ながらわが国は太陽の国です。女性を娶るに他の愛し方を知りません」
「そのような流血の事態は好みません。最もあってはならないこと……!」
 荘園の部屋に風が吹き乱れ、白幕が大きく波をつくってなびく下で手紙が何枚かの便箋に別れた。
 便箋の端には残らず獅子の紋章が印刷されていた。大きく躍る獅子のたてがみに光る星の刻印がかの国の第一王子を象徴する。人馬国を滅ぼした第二王子ではなくその兄のほうだ。傭兵の男は獅子の国から現れた。荘園を守る傭兵たちの目をかいくぐり、まるでこの国の軍事力の脆さをあざ笑うようにして。
「わが主君アルギエバは、一度求婚した女性をそう簡単にあきらめる方ではありません。今日は引き下がりますが、次に来るときは双児国の領土を手土産にして参りましょう。どうかその時までにお心をお決めください。
 これは双魚国を滅ぼさないために貴女ができる、唯一の選択だと思っていただきたい。
 双児国を奪い取り、双魚国の貴女様を手に入れることでわが主君の輝きはより強固なものになるのです。さらにお世継ぎができれば王位継承権で対立候補のレグルスを凌駕することもたやすい。それを思えば魚殿下を未来の獅子国王子として迎えることもさしたる障害ではありません」
「……わたくしには法王猊下がおられます」
「存じております。しかしこの国の最高位に達せられた法王猊下にとって、一個人への限られた愛はすでに不要でしょう。
 男の身で女性のおくそこには想像が至りませんが、この国で彫像として崇められ余生を送るのと、わが国で主君の太陽の愛を受けて暮らすのと、どちらが幸福か。ご一考いただきたいものですな」
 跪いた状態からうやうやしく礼を落とし、立ち上がり、流れ消える。
 傭兵の男がいなくなった後も婦人は籐椅子に座った状態からしばらく動けなかった。涼しい建物の陰の中に、久しく嗅いだこともない火薬の爆ぜた匂いが一筋紛れ込んだ気がした。



 魚王子にとって隣人の一人である獅子国の王子、第一王子のアルギエバは年一度豪奢な贈り物をしてくる遠い隣人でしかなかった。一回り以上も歳の離れた、自分より母に歳が近い男には普遍的な畏怖と敬意の念しか抱けない。
 魚王子はまだ何も知らない。獅子国が新たな戦乱の火種を起こそうとしていることも、その矛先が双児国に向かっていることも。母が第三者に奪われかかっていることも。大事な世界情勢に関する情報は祭事者としての王子には必要ない──司祭らのそんな判断のために、少年は今まで幾度肝心な物語から遠ざけられてきたことか。
(胸がそわそわする。もう一度双子王子に手紙を出してみよう。今度は頑張って神様以外のお話を書かなくちゃ。もらった本の感想がいいかな。それと、何か面白いことを見つけて)
 神学の授業を終えて、窓辺でミルクを口にしていると窓際に鳩がとまる。魚は幼い顔に慈しみの表情を浮かべて小さな来客を迎えた。鳩は胸をふくらませて二・三度鳴くと魚を見つめ、その外郭からとても大きい比率の翼を広げて飛び去ってゆく。
 魚は鳩の行く先を目で追った。飛び去った先の、静かなる双魚国の街並み。家々からたちのぼる煙が曇り空の中へ灰色の暴竜を編み、やがてぼんやりと四散して広大な大気に消えていく。

 凶兆。
 魚はその場から無心に祈った。平和のために。


 - fin -

作品データ

初出:2009/6/3
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同人誌『偽典・12国王子(1)』収録
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