記憶(ワンドロお題「海風」)

 大人は海風の匂いに切なさや楽しさや様々な感情を乗せるけれど、十代の蠍には、たまたま、そういった記憶はあまりなく、世間の歌のイメージを想像するばかりで、だからいざ実際に海辺のエリアを歩くとなるとソワソワするのだった。にがりっ気の混じった汐の匂いに乗せる記憶が、自分の中にほとんどないことに気づかされるからだ。
 気になる相手と二人で、湾岸エリアのフェスに足を運ぶことになった。ハワイアン系で正直出演アーティストの名前など一人もわからない状態だが、相手が誘ってくれたものを断る理由もなかったのだ。湾岸会場の最寄り駅の改札で待ち合わせて、薄曇りの空の下を会場まで歩いていく。
「ハワイアン系の音楽って全然知らないだろ。蠍くんは」
「……まあ、そうだね」
「俺も毎年聞き流してるんだけどね。チケットも会社で配ってるやつだし。ただ飯とコナビールは美味い。いい気分転換になる」
 連れ合いは、従兄弟の山羊は、吹き付ける海風に目を眇めて「このべたべたした風が、海に来たって感じがするなあ」とハスキーな声で呟いた。

 海を近くに臨む会場は、日頃よりも空の面積が大きいような気がする。会場はグリーンステージで、広い公園の芝生のどこにでも座っていい体裁のものだった。屋台エリアでロコモコやガーリックシュリンプなどを調達し、お供にはコナビールとココナッツウォーターとミネラルウォーター、という内容でメインステージから少し離れた丘の傾斜に座ると、蠍は山羊と二人で乾杯した。山羊から、「一口だけだぞ」とコナビールを舐めさせてもらった。風味の豊かさが鼻腔から入る汐の匂いと混ざった。
「汐風の記憶がコレになるなあ」
 なんともいえぬ顔で呟く蠍を、山羊はおかしそうに笑った。
「そんなに重い記憶になるのか。ははは」
「俺あんまり海の方来たことなくて。小学校の時の海水浴以来ぐらいじゃないかな。何かの拍子に海辺を通りすがることはあるけど、この匂いがした時にドラマっぽい記憶が何もなくて、いつも漠然と焦ってる」
 黒のパーカーにありふれたジーンズ姿の蠍は、学生ということもあってまだ顔立ちにあどけなさが僅かに残っている。山羊は年上の従兄弟で、住んでいる地域が近いことからちょくちょく会っていたが、蠍にとってはいつも大人びたものを感じさせる存在だった。今日こそカジュアルなセットアップ姿だが、最近ではスーツにネクタイ姿で蠍の前に現れることもしばしばだった。
「記憶なんて、そのうち何かしらできてくるだろ」
 紙コップにコナビールを注いで飲み干す山羊の手の骨ばったかたちを見ながら、蠍はロコモコの濃厚なソースがけハンバーグを口に運んだ。
「山羊兄ちゃんなら、ここからどうやって記憶を作る?」
 蠍が、妙に吸い込まれるような眼差しで言うので、山羊は逆に淡白な態度になって年下の従兄弟をあしらった。
「大人だったら、近くのホテルにもう部屋を借りてる」
 山羊は蠍をたしなめる。「お前は打算づくでそういうことしてるやつに舞い上がりそうだからなあ。気をつけろよ」。蠍は蠍で無性に顔が赤くなり、悟られまいと仏頂面になりながら心臓の鼓動を数えていた。


 - fin -

作品データ

初出:2021/7/3
Twitter企画#占星術創作ワンドロ参加作
同人誌『二人旅、風の馬の国/攻める奴ほどよく喘ぐ』収録(※同人誌はR18)
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