青春の階段

 自分、おかしいのかな。
 そんな風に蠍が思ったのは、従兄弟の山羊が蠍の家にきて親戚から送られてきた野菜を置いて帰っていった直後だった。蠍は高校生で家には両親も居たが、山羊は何かの用事のついでとばかりにスーツ姿で顔を出して、母親に野菜を渡して、蠍には「よう」と軽く挨拶をして、そのまま玄関口から普通に出ていった。その、まさに玄関から出ようとするスーツの背中を見た時に好きかもしれんと唐突に思ったのだった。
 ──いくらなんでも近場過ぎじゃないか。
 九歳ほど年上の相手だ。男女の従兄弟なら結婚しても法律違反ではないが、それにしたって、いくら赤の他人で恋愛感情に至るほど信頼できる人間にまだ出会えていないからって、遠いなりに血が繋がっている身内にそういった感情を抱くのはなにかの誤謬とか故障のたぐいではないかと思う。この山羊という従兄弟に、傷つけられたこともない。従って何かを取り返そうと執着する愛ではない……ということも、蠍を内心戸惑わせた。
 山羊は蠍の幼少期からよく遊んでくれた覚えがある。家に来るのはだいたい親戚の物資をよこしたり貰っていったりするついでだったし、山羊が大学生で金欠気味だった四年ほどの間は両親が山羊に時たま夕食を食べさせたりしていた。蠍が小学校高学年から中学ぐらいまでの時期だ。山羊兄ちゃんが食後に蠍と遊んでくれたり勉強をみてくれたりしたので、半分家族のように懐いた。今でもそんな仲の良さで続いている。蠍だって、当時はそんな目線で山羊を見たことはなかったのだ。
 高校に入って、変声期になり、声が低くなって同級生らも自分も色気づき出したころ、憧れの異性というイメージで何故か山羊の姿が真っ先に脳裏に浮かんだ。だいたい山羊は異性でさえなかったのだけど。
 気の迷いかもしれないと思ってひっそり胸にしまっていた疑惑が、山羊の帰り際の背中を見るたびに胸の中で強く渦巻く。

 夜中にひとりベッドに横たわって悶々と考えた。相手も居ないのに早く誰かとそうなってみたくて堪らなかった。子どもの自分から脱したかった。さりとて、よく知りもしない相手に自分自身を放り棄てるようにしてことを致そうという気にもなれなかった。山羊兄ちゃんだったらそうなっても良いかな、と自然に思ってしまう自分が不道徳に思えた。
 ──山羊兄ちゃん、奇跡的に血迷って俺を見てくれないかな。俺は良いのに。
 自分自身にすらいや本当は良くはないと無意識のツッコミが入る。身内すぎる。そうなってしまったらこれまでの前提が根こそぎ崩れてしまうだろう。そうやって何かが壊れて、堕ちていくときに、本当の山羊の姿や、本当の愛が見える可能性もあるだろうか?
 非現実的な妄想だと思っても、それに縋らずに居られなかった。


 ある日、そんな風にいつもの流れで家に来た山羊は、世間話のついでに会社でチケットを貰ったイベントに行く話をして、蠍に「蠍くんも行くか? チケット余ってるし飯が美味いぞ」と気軽に話を振ってきたのだった。蠍に断る理由はなかった。湾岸近くのイベントで、ハワイアン音楽を聞きながらガーデンエリアの丘に腰掛けて山羊と一緒に屋台のハワイ料理を食べた。
「山羊兄ちゃんってホテル泊まったことあるの」
「そりゃあるよ。出張の時に泊りがけで行ったりするし」
 そうじゃなくて、誰かとそうなる目的でだよ。……と蠍は内心思ったが、黙って九歳年上の従兄弟が遠くの音楽ステージを見つめる姿を眺めていた。いつまでもこの落ち着いた佇まいに追いつくことができない。どれだけ蠍が成長しても、その何歩も先にいる。
 やがて山羊は、セットアップのジャケットを脱いだかと思うとボタンシャツ姿で丘の草絨毯の上にごろりと転がった。蠍は静かにそれを見ていたが、つい魔が差してジャケットを手にとった。山羊は気にもとめずにそれを放ったらかしてハワイアン音楽を聞き流している。きっと子どもが服をいじりたがっているように見えたのだろう。
 海風がガーデンエリアの雑草の上を吹いていた。汐の匂いと、草絨毯の青臭い匂い。遠くから流れてくる料理にあしらわれたパイナップルの熟れた甘酢っぱい匂い。蠍は緑に横たわる山羊の肢体を見つめて、それから手元のジャケットを手元に手繰り寄せて顔の下半分をうずめ、目を閉じて深くジャケットの匂いを吸い込んだ。温もりとともにほんの微かに山羊の体臭の残り香が鼻腔を通って、脳細胞をくすぐった。
 ──山羊兄ちゃんの匂いがする。俺はこの匂いと、一緒に過ごした汐風の匂いを、きっと、絶対、忘れないんだろうな。
 ジャケットを離したくない。帰りたくなかった。時間に止まってほしかった。すぐに消え去りそうな今この時が、あまりにもきらきらしていた。


 - fin -

作品データ

初出:2021/7/5
同人誌『二人旅、風の馬の国/攻める奴ほどよく喘ぐ』収録(※同人誌はR18)
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