世界は溶け合う色

  【一】

 牡羊の万年筆の赤インクを見て、まるで牛の血液みたいだと思ったのは牡牛だった。メーカーは多分オーソドックスな文房具メーカーのものだし、まだエントリーモデルなのかもしれない。牡羊はそこまで偏愛的に好きなメーカーを探したりはしないだろうから、まぁ今持ってるペンのブランドで落ち着くだろうなと思う。重厚で滑らかな老舗メーカーの高い万年筆の書き心地は、この上なく良いものだ。ブルーブラックのインクを何種類も試し、これぞという一つを使い続ける密かなこだわりと喜び。一番良いものを知っていてそれが手の中にあるという満足感はかえがたい。

 それはそうと、牡牛の万年筆を同じように所持している人間がひとりいる。
 蠍だ。彼は牡牛が手帳に走らせている老舗メーカーの万年筆を「良いな」と褒めたかと思うと、翌週には同じものを調達していた。牡牛が限定モデルを使っていなかったのが悪いといえば悪いのだが、インクのブランドまで訊いてきた時はさすがに辟易した。他人のものを見て欲しくなる心理かと思ったからだ。
「なんでも盗られたような気分になるから嫌だ。教えない」
 牡牛の返答に蠍は意表をつかれたようで、しばらく無言で落ち込んでいた。知ったことか。蠍は、牡牛の万年筆の筆跡を目に焼きつけて、ああでもないこうでもないと文房具店を回っているようだった。

 ──君の使っているものだから欲しかった。同じのになりたかったんだ。
 後日、蠍からそんな手紙をもらったのだけど、牡牛は最悪なことにそういった蠍の思想を一番理解できないタイプの人間で、手紙の内容もやはり不可解であった。それが許されるのは自分の手足だけだ。そこから、つまり、牡牛の蠍への印象は「普通の友人」から「この世で一番ゾッとする奴」になり、それは蠍が牡牛を籠絡するまで──つまり、肉体的に繋がり、牡牛に手足と見做されるまで、続いた。



  【二】

 それは友好的な表現をすれば翠玉(エメラルド)色、エメラルドグリーンだったが、もっと直感的な表現をすればネギ色だった。炒めたらおいしそうな色だな、と牡牛は思った。
 牡牛が新しい万年筆に入れたカラーインクの筆跡を、また蠍が横から舐めるように見てくるので、牡牛はむっとして文字をかくした。
「翡翠みたいな色だな」と蠍は言った。
「ひすい」
「うん。若い緑って感じがする」
 おそらく牡牛には似合ったとしても、蠍には全く似合わない色だろうなと牡牛は思った。蠍もそれを察したのか、ややこの緑には近寄り難そうだった。
「俺のだったら何でも欲しいってわけじゃないんだな」
 蠍は、仕方なく、といった素振りで「あー」とうなずいた。
「いや、時間を馴染んでいきたいとは思ってるよ。すぐに似合うとは思っていないけど」
 あんまりにも蠍が自分の好みを隠しすぎるので、素朴な疑問から「何色が好きなの」と聞いた。蠍は、「え」と洩らした後、なぜか鼻先まで顔を赤くした。
「赤か紫」
 牡牛はウーンとなった。特に好きでもなければ嫌いでもない色だった。
「トマトかぶどう色か」
「トマトと言うよりはルビーとかガーネットとか、ああいう」
 深みのある赤がすきだよと蠍は恥ずかしそうに言った。素朴な喋り方のペースが、牡牛には好ましい感じだった。
「もっと色が出たら塗り絵をしてもいいかもなあ」
 赤か、紫が出たらお前が買ったらいいよ。そしたらちょっと俺にもくれ。……蠍は牡牛にそんな風に言われて「牡牛が欲しいんだったら全部あげるよ」と恥じらっていたのだが、牡牛は「他人のものだから欲しくなるのにそれじゃあつまらないよ」とえらく傲岸不遜なことを言って蠍を慌てさせるのだった。
 結局牡牛の新しいインクは蠍がチラチラ見るだけで真似はされず、名前もネギ色になった。



  【三】

「涙の色だ」
 と真っ先に蠍は、言った。
 牡牛がまたコレクションに増やした新しいインクの色の話だった。それは一般的には水色で、牡牛にとってはブルーハワイのシロップみたいな色だという印象だった。
 蠍はいつも前髪がうっとうしそうな髪型をしていたが、この日はその下の目元に隈が浮いているように見えた。憂いを抱えながらぎらぎらしている眼差しは、しかし牡牛に言わせれば睡眠不足のそれだった。
「涙の色か。……でもこれ舐めたら甘そうな色してないか?」
 牡牛の意見は蠍のうっ血した脳から違うところに血をやるようで、蠍は急にきょとんとした顔になる。
「色に味までイメージするの?」
「しないの?」
「あ、いや、俺はしなかったです……」
 蠍は当たり前のように牡牛の隣にいながら、その日は姿勢も少しぐらついているように見えた。どうしてそんな眼をして、具合が悪いことを全く何も言わないのだろう。その沈黙の中に、あまりにも多くのものが圧しこめられているのではないか、と牡牛は漠然と思った。
「たとえ涙だとしても、甘いと思うよ。味。蠍はそうじゃない?」
 蠍は牡牛の問いに、首を横に振る。
「苦いか、塩の味だ」

「今日、何かあったの」
 牡牛の質問は朴訥で、蠍の沈黙の中にゆっくりと浮き輪のように漂っていった。蠍がこちらを見つめて、何かを話し出すまでに、とても長い時間が流れた気がした。
「別に今日どうって話じゃなくって」
 大きな哀しみを抱えた時に、それが誰にも届かない気がする。
 まっすぐに見つめてくる蠍の目元が、哀しそうに、幼く、ゆがみ、それが端から涙でふちを濡らした。
 ──ああ、水色だ。
 牡牛は物理的にそこに無い水色を拾った。そして哀しい程解らなかった。涙の理由を。ただ見えているものを美しいと思うだけだった。自分には解れない。蠍の抱える底知れぬ世界は。

 蠍が目に涙を溜めている様が、綺麗なのに前髪に隠れてよく見えない。牡牛は蠍の中で起こっていることがよく解らなかった。ただ、彼が初めて自分自身のことを、よくわからないなりに伝えようとしているのだなという事だけは肌で感じた。
 蠍の瞳のふちに映えた水色は、とても欲望を掻き立てた。それを口に含んだらどうなるのだろうと。
「前髪でよく見えない」
 言いながら牡牛は、手を伸ばして、掌で下から蠍の額を撫で上げるようにして艶やかな黒髪をどけた。蠍が「え」とあらわになった目元を瞬きさせていると、縁に溜まっていた雫がきらりと光った。
 顔をよせて、舌先で雫を舐めた。
 蠍はびっくりして息をとめているようだった。
 透明な雫はわずかながら鼻に抜けるようなミネラル感があり、それでいて生物の名残を感じる。味覚とは関係なく、胸元には甘やかな暖かさが広がった。
 テイスティングを終えて気がつくと、蠍の顔がとんでもなく近かった。なんとなくつまみ食いをしてしまった時の居直りが牡牛を逆にどんと構えさせた。
「物理的にはそんなに甘くないな」
「……あ、うん」
「もったいないと思ったから。つい」
 蠍は、曖昧にうなずくと、ほうっと大きく息をついてまた涙を目元にためた。牡牛はそれも片っ端から舐めた。もったいなかったので。蠍はされるがまま、やがて語りだした。
「俺、本当に欲しいものを欲しいと思う気持ちは、死ぬまで隠さなきゃいけないって思ってた。真似したいとかじゃなくて」
 安心したのか涙がどんどんこぼれそうに溢れてくるのを、牡牛は全て舐めとった。
「みんな、ついて来れない。俺が気持ちを出したら壊れてしまうって。俺それが嫌で、怖くて」
「……壊れない程度に出したらいいのでは」
「そんなのできない」
 好きなものが壊れてしまうのは悲しいな、と牡牛は少しだけ理解することができた。舐め続けるついでに蠍の背中をさすってやった。
「そんなに簡単に壊れないよ」
 涙は甘い。こんなに舐めても嫌がらず、素直に受け入れてくれる蠍の涙は。
 蠍は怖がっているけれど、欲望の量は自分と蠍とで同じぐらいなのではないかと思う。もっと他のところも、舐めていいのかなと思った時、牡牛は蠍のことを欲しがり始めている自分自身に気付いた。



  【四】

 蠍は牡牛の持つインクを一つ一つ手に入れては密かにコレクションしていたが、その一つである夜の色は特定に時間がかかった。万年筆インクの中でも実に細分化されるブルーブラックの一種で、牡牛は「豆腐のにがりっぽい色」などとまた特殊な例えをするものだから、いっそう手間取った。しかも面妖なことに、蠍が間違ったブルーブラックを使うと牡牛は「それ持ってないやつだ。欲しいなあ」と十割外さず言ってくる。彼の色彩判別能力が並外れているのを、蠍は予期せずして思い知らされた。
「ブルーブラックは、見てて綺麗だよな。いろんな差し色にも合うんだ」
 牡牛はあの日から、何だか距離が近くなり、蠍の髪や背中によく触れてくるようになった。本当に何も考えずに手癖で触ってくる。蠍がびっくりしつつも、おっとりそこで大人しくしているので、牡牛はずっとニコニコしている。
 多分、普通なら理由のひとつも尋ねるのだろうが。蠍は全て呑み込んでしまってそれをしなかった。牡牛の幼心のようなものが可愛いな、と思ってしまったからだ。涙を舐められたあたりからこの男の持つ少しのおかしさを、可愛いと思うようになっていた。

 人間としてのおかしさを持たない奴などこの世には居ない。むしろそこは、後で矯正もできないほど致命的な、逆に言えば弱点だからこそ愛せるような箇所であり、それを見せてもらえるというのは得がたいことなのだ。
 牡牛に涙を舐められた時、そのおかしさに驚くと同時にこの人の鍵を貰えたと妙な確信があったのを憶えている。
「蠍は髪の毛つやつやしてていいなぁ。それ絶対茶髪にしないでね。今のが一番触り心地いいから」
 最初の頃は表面だけ軽く撫でていた手指が、蠍の髪の中まで入って、そっと手櫛で指通りを確かめていた。蠍はされるがままになっていたが、ある時思い直して牡牛の方に向き直り、自分も手を伸ばして牡牛の髪に触れてみた。
「……髪の量多いんだな」
 牡牛のくりくりした黒目がちな瞳を見ながら。牡牛は、自分が対象になると思わなかったようで、おっとり混乱しているように見える。
「もっと、触っていいよ」
 許す声色で撒き餌のようなことを言った。牡牛が狂うのを見たかった。



  【五】

 ある日牡牛のコレクションに加わったやや蛍光よりのオレンジのインクについては、牡牛と蠍の間で認識が一致した。
「オレンジ色だ」
 それも果汁の濃厚なネーブルオレンジだな、ということで終いになった。蠍は後でカボチャとかハロウィンカラーと言っても良かったなと思い返したが、インクをボトルごと覗くと透明度が高かったので、結局カボチャ説は立ち消えになった。
「ネーブルが食いたいな」
 と言ったその日の夕方には、牡牛は袋いっぱいのネーブルを調達してきていた。蠍の立ち位置がよく解らない。友人なのか愛玩用の何かなのか。
 陽が落ちるのも遅い日陰のベンチで、牡牛は積み上げたネーブルに指を突っ込んではあっという間に厚い皮をひん剥いて、中の果汁が詰まった房を口の中に放り込んでいく。蠍は、百円払ってネーブルを一つ貰っては隣で食べた。
「うまい」
 牡牛がしみじみうなずいているのを見るだけで美味さが沁みてくるのだった。甘味とともに酸味が口の中ではじけるようだ。「牡牛は本当に食べ物は任せられるなあ」と蠍も言うほどだった。
 蠍は、自分の分のネーブルをじっくりと味わっていたが、食べきった後は果汁の余韻を楽しみながら、牡牛の食いっぷりを静かに眺めていた。素朴で喜びに満ちた姿を。長く共に居るなら、食い方の好い奴と居るにこした事はなかった。
 牡牛はネーブルの種を指で取り出そうとするので、その指は果汁で少し濡れていた。
 ──腹減った。美味しそうだなぁ。
 蠍は、横で物欲しげな目をしていたが、それまで牡牛がそういうことを繰り返していたようにして牡牛の手を横から掴んだ。そうして勝手に指を口に含んでちゅうと牡牛の指を舐めとった。視線を伏せて何気なく吸いきった。ふと見ると、牡牛がこちらを見て固まっていた。
「……何?」
 誘うような溜めた口の聞き方になってしまった。牡牛の喉仏が、ごくり、と動いたのが見えて、それも美味しそうだなと蠍は思った。蠍の眼を覗き込んでくる牡牛の眼は怖いほどだったが、黙っていると、牡牛はもう一度手を突き出して、蠍の唇を指でこじあけ、蠍の舌を指の腹で撫でた。蠍はされるがまま牡牛を見て黙っていた。



  【六】

 腹が減っているときに食い物が美味しそうであるということは、果たして罪か。
 ……と牡牛は考えた。新しくまた緑のインクを仕入れた。前回の緑より青みが少ない若ネギ色。色がわずかに違うだけなら要らない、なんて事は無い。それは色鉛筆を十二色で足りると言ってしまうような、愉しむ心を持ち合わせていない輩が言うこと。
 欲しいものを欲しいと思ってしまうのは罪か?
 先日、戯れに蠍の口の中を指で嬲った時に、濡れた熱とともに蠍の茫漠とした土留色の眼差しに呑み込まれるような気がした。あたたかい肉の熱。蠍自体は万人に目立つような風貌でもなければ胸や尻が目につくわけでもないのに。
 多分、あの「いいよ」という蠱惑的な声で、もっと卑猥なものを挿れても……。
 ひとたび執着してしまうと、どこまでもしつこくそればかりを考えてしまう自分の考え方の癖にも慣れている。だから頭の裏に、蠍の黒い艶めいた髪と、おそろしく白くぬめって心地よい肌の質感と、唇の血の赤みまでまざまざと浮かび上がっても、己が狂ったなどとは思わなかった。どうやったら蠍がそれを許してくれて、食べられるのかと思っていた。

 牡牛の瞳孔が強く瞠られて静かに圧力が高まっていたところへ、その日も蠍は無言で近寄ってきた。牡牛が手にしているインクの色を「この前の色?」と尋ねながら。
「これはネギ色じゃなくて若ネギ色」
「ふうん……」
 蠍は、以前とは少し距離感をおかしくして、ほとんど牡牛と密着するような近さで隣に座った。腰骨のあたりが擦れ、牡牛がピクリと体を硬くした。
 蠍は、奇妙にうつむいて何も言わない。
 早く攫ってくれ。と、都合の良いメッセージが頭の中にこだました。牡牛が動けなかったのは単に腰が重い性格だったからだ。
 言葉が浮かばなかったが、しばらくしてから獣がするように蠍の髪を撫でた。直毛の中の縮毛を探してみる。蠍はされるがままになっている。
「……お前は美味しそうだなあ」
 溶けるような低い甘やかな囁きだった。

 蠍は、それは喉から手が出るほど欲しい言葉だったはずなのに、いざ耳にすると急に醒めて、冷ややかな顔をした。



  【七】

 本当に欲しいものは、何だ。
 牡牛にそれとなく言い寄られた、と感じた時、蠍はそれまでは牡牛に執着していたのに、これは違うという思いで急ブレーキを踏んでしまった。牡牛の仕草が過去に蠍に言い寄ってきた変な輩のそれと被って見えてしまった、ということもあるかもしれない。この体と若さを使って食わせてやるのは簡単だ。でも、それで本当に自分の望むものは手に入るのか? 牡牛は自分を慰めてくれた恩人だ。だから堕とされたって別に構わない。……けど。
 蠍は冷ややかな目をしたまま、牡牛の横に擦りつけるようにして座っていた体を、30センチほど、座り直して遠ざけた。牡牛は無言で驚いたかと思うと、急におろおろした様相で蠍を見た。牡牛を見返す蠍の目が、嘘を決して許さない鋭さに尖っていた。

「牡牛。俺を食いたい?」

 牡牛が、うろたえながらもその場にどっしりと座っていたのは尊敬すべき点だと思う。浮わついたリアクションなら即座に切っていた。
 牡牛は蠍の問いに、素朴に、こくこくとうなずきを返した。蠍の鋭さはなおも止まない。
「お前は俺に何をくれる?」
「……え」
「……俺は、インクだったらお前に全部あげてもいいと言ったけど。俺を全部あげるならお前からはそれ相応のものが欲しい。何をくれますか?」
「……え。……あ……」
 言葉に詰まって、牡牛がうつむく。何も考えていなかったのだろう。蠍はそこも理解した。「えーと、えーと」と牡牛が一見のろまな返しで一生懸命考えているのを馬鹿だとは思わなかった。待つぶんには平気だった。自分の中でひととおり考えたであろう牡牛が、ようやく蠍を見て「わからない。蠍だったら何が欲しい?」と聞いてきた。
 本当に欲しいものは、何だ。
 蠍はそれを、口に出しては言えなかった。言葉にかえようとして、あまりにも重いものを求めようとしていると自分でも理解した。
「俺が教えたんじゃ、意味がないんだ」
 蠍は牡牛を見つめたまま、さらに身を引いた。それから後じさり、身を翻して、去った。牡牛は呆然とその姿を見送っていた。



  【八】

 新しいインクの色は、熟れたアケビの色。
 牡牛が新しいインクをコレクションに加えても、蠍はもうふっつりと、居ない。見えなくなったものは忘れるべきであるのに、牡牛はもう少しで手に入りそうだった蠍の面影を連日執拗に思い出していた。
 ──何をくれますか?
 蠍が向けてきた、この上なく鋭い瞳を牡牛は本物だと思ったのだった。ただ何を与えたら良いのか判らない。大金だろうかと思ったけれど、また自分が大切にしているコレクションたちを蠍が欲しているのかとも思ったけれど、いずれも頭の片隅で違うような気がすると警鐘が鳴る。そうこうしているうちに蠍の髪のやさしい触り心地や、厚めの唇に割り入った時の粘膜の、包まれるような温かいなまめかしさが思い出されて、欲しいなあという思いが募るのだった。
 蠍とつながるきっかけになった万年筆をぐるぐると遊ばせ、ノートに単語や図柄をばらまくうち、書きつけている内容がとりとめのないものへと逸れていった。
 ──俺は、本当に、人の心はわからんなぁ。
 視えない。衣食住のような基本的な欲求は理解できても、その先が解らない。解らないから何があってもいいように地盤を固めるしかない。例えば手元にあるこの万年筆、このノート……のように。
 蠍がこの数日、視界にも入ってこないのは、向こうに避けられているからだと牡牛はペンを走らせながら唐突に気付いた。
 ──安心できない奴だと思われたのかなあ。
 安心できたら、居てくれるだろうか。その考えに全神経を集中させた。蠍はそこまで身を捧げる価値のある宝物かどうか。でも、多分、そうでなければお前の所へは行かないと蠍は言っているような気もするのだ。十割とはいかなくても、半分以上は。

 ごろごろと、三日間、じっくり、考えて、そうは言っても同性だしなと時には現実的にもなりながら、それでもあの本物の瞳を欲しいと思ったので、欲しいものを諦めて人生を終わりたくないと思ったので、牡牛は蠍に手紙を書いた。アケビ色のインクで。もし蠍が来てくれたらこのインクの出元も教えようと思って。日時と場所だけ指定した手紙が蠍のもとに送られた。

 蠍は指定した場所・日時に、正確に現れた。



  【九】

 牡牛と蠍が待ち合わせたのは、いつだったかネーブルを食べた木陰のベンチだった。あの頃高かった陽は、再び出会ったときには暮れかけ、昼と夜とが溶け合った時間を空から地上一面に染み込ませていた。
 蠍は別れた時と同じように、真剣な眼差しをしていて、牡牛は心臓の震えとともにそれをきれいだなと思った。
「……牡牛。答えは出たの」
 もう、なし崩しで何かを与えてくれることはない。甘い言葉が通るようにも見えなかった。ただ、牡牛が喋るために時間がゆっくりかかってしまうことについては限りなく優しいように見えた。
 牡牛は「うん」とうなずきながら、懐から小さな塊を取り出して握り締める。
「多分、ものをあげるのは蠍は正解じゃないと思うんだけど」
 言いながら蠍の手に塊を持たせる。蠍はやや目を見開いて手のひらの中を見つめた。
「鍵?」
「うん。うちの鍵」
 それは、蠍が俺の宝物になるから、うちに収まっても良いし、俺が蠍を簡単に捨てたりしないという意思表明のつもりです。……と牡牛は言った。
「お金かなとか、物かなとか、俺が蠍を楽しませたりすることかなとか、いろいろ考えたけどね。きっとそれでは蠍は満足しないなと思った。たとえ他に何をあげても蠍は俺自身に執着するだろうなって。
 だから、変だけど、俺を半分あげる。
 俺が生きるために払う手間やコストを、蠍の安心のために半分割いてもいい。
 だから貴方を俺にください」

 答えはすぐに出るのだろうかと牡牛がのんびり黙っていると、蠍はうつむいて鍵を握りしめたまま黙っていた。耳まで、はっきりと真っ赤に染まっていた。あの、と小さくぼそぼそした呟きが蠍の口から漏れた。
「慣れてない。……だけ、です。その、大切にされる、ことに」
「? ……えーと、OKなのかダメなのか]
「あっはい。いい、けど、その、想定外だった」
「ちょっと違った?」
「いや。当てると、思ってなかった」
「当たったんだ。じゃあ、貰います」
 まるで巨大な宝物を抱えあげようとするように牡牛が丁重に抱きしめると、蠍の体がびくりと震えた。蠍は安心が欲しかったんだと牡牛は思った。牡牛が背中を撫でさすると蠍が涙目になったものだから、それは確信になった。



  【十】

 ──誠実と退屈とを、ずっと履き違えていた。危なかっしいことばかり言う奴の方が本音を見せてくれているものだと、勘違いしていたんだ。
 牡牛が蠍を自宅に持ち帰る道すがら、蠍は小声で打ち明けた。裸を見られるよりも恥ずかしいと言わんばかりの態度で。牡牛は正直、蠍を最初はぞんざいに扱っていた自覚があったので、蠍の告白にはやや遅れて赤面した。
「なんというか、あぶないよ。それは」
「……うん」
「そんなに本音を先に知りたかったの。蠍」
「うん。……どんな手を使ってでもその人の芯を掴みたい。その人自体が欲しいって思ってた。そのためだったら自分が多少食われても構わないって」
「他の奴に食わせたの?」
 牡牛が急に声色を荒らげて睨んできたので、蠍を首を横に振った。
「いや。……危ない目には何度か遭った」
「もうしないで」
 それは所有物に対する断固たる命令だった。蠍はその時は、頼りなくうなずいた。その反応が牡牛を余計に焦らせてしまい、
「本当にもう絶対危ないことしないでよ」
 と念押しを重ねさせるのだった。
 だって、自分の財産にすると決めたのだ。唾液の一滴、毛の一本でさえも他の奴に遣るつもりはない。

 欲望と、相手を安心させてやらねばという献身が焼け合わさった心境の中で牡牛は蠍を自宅へと連れ帰る。最後に家のドアの前で蠍に選ばせた。
「その鍵で、開けていいよ」
 と言って。蠍は「ここで俺に選ばせるのは、ずるいよ」とチクリと言って、牡牛がひるんだのを見てから自分の手でドアを開けた。
 漆黒だった。電気をつける前の夜の部屋の影。すぐに牡牛が電気をつける。玄関から上がってすぐの部屋に、インクのコレクションが机の上までずらりと並んでいる。蠍は吸い込まれるようにそれらを見つめている。
「後で全部見せてあげる」
 蠍は、それが牡牛の献身から出た言葉だと知っている。牡牛は財産を人に見せる趣味はない。ただ、自分の手元に収めて眺めているだけで満足なのだ。
 ──ああ。全部ください。
 それが、これから、何年もかかる願いになる。
 牡牛が暗い寝室から蠍を呼ぶ。蠍はゆるゆると歩き出し、牡牛の待つ暗がりへと紛れていった。



  【十一】

 人が人を食べ尽くすのは、どうやら一回や二回では難しいらしい、と二人が悟ったのは互いに何度か身体を重ねた後だった。どれだけ体力の続く限り求め合い、また与えても、朝になればまた相手の違う顔が見えてくる。二人とも夜の交歓に熱を上げすぎて少し痩せた。
 行為のあと、短くも死んだような眠りを味わって蠍は目を覚ました。まだ太陽が顔を出す直前。外から小鳥の囀りが聞こえてくる。自分も隣の牡牛も寝落ちする前にかろうじてパジャマを着た。
 心臓のあたりが安らかだ。喉が渇いて、牡牛を起こさないようにベッドを降りた。牡牛の家の食器棚から勝手にグラスを使ってよいことになった。これも、与えられた権利のひとつ。
 ──何もせずともこの家で添い寝できるようになりたい。今度はただ眠るということをしてみたい。
 グラスに浄水器からの水を溜める。一口ずつ喉に通しながら、蠍はどうやって荷物を持ってこようかとぼんやり考えていた。二人分のコレクションを置くにはこの家はやや狭い。牡牛の持ち物を減らさせるのは悪いと思うし。
 自分のものと、牡牛のものを一つに合わせて、溶かして固めて、共有財産にしてしまいたい。
 互いが互いの手足のようになったらいい。喜びも、痛みも、分かち合えたらいい。
 グラスを洗い棚に戻してから、牡牛の机に並んでいるインクを眺める。ひととおり全部見せてもらったが試し書きはまだだった。蠍は試し書きのために自分の万年筆からインクを抜いて、牡牛の机の上に置かせてもらっていた。早朝に一つビンを選んで、万年筆の先をつけペンのように浸して試してみる。少し緑がかった、凛とした青。サムシングブルーという単語が頭をよぎった。
「お早う」
 気付くと、牡牛がのっそりと起きてきていた。そのまま眠たげに蠍の横にしゃがみ込んで、インクを眺める。
「ゴーヤ色だよね、これ」
「……うん。俺はサムシングブルーだと思った」
 苦笑しながらも自分の思いを伝える。牡牛はそれを是とも否とも言わず「む」と、蠍の感性をそのまま受け止めてくれた。
 少しの筆遊びの中で、牡牛はペンを持つ蠍の手の上に自分の手を重ねて、紙にゆっくりと二人の名を書いた。蠍も牡牛にペンを持たせて、上から手を重ねて同じようにやり返した。
 幸せだなあ、と思った。



  【十二】

 季節がめぐり、冬の峠を越えて街に春の陽気が漂い始めた頃には、牡牛と蠍はいつも一緒に出かけるようになった。二人の佇まいにも少し変化が出て、それまで凡庸であった牡牛には深みのある色気が加わり、蠍は逆に安定したのか目が優しくなった。二人が馴染みの文房具店へと並んで歩いていく様は、人目にも仲睦まじかった。
「三年位で鮮度が落ちる染料インクもあれば、ずっと残ることを目的にした古典インクもある。それ用のペンを作ったけど、結局どんどん欲しくなってしまうんだよなぁ」
「まあまあ。厳選しようよ。選ぶまではタダなんだし」
 なんでも、無限ではないから、縁の賞味期限が過ぎてしまったらいくら自分たちであってもお別れになる。そうなるまでの時間を、いかに丁寧に手を入れて長くしていくかということを考える。
 牡牛と蠍は一緒になってから毎日、毎週、毎月とたくさんの色に触れては「〇〇の色」と名前をつけてきた。今日は収集しているシリーズの末っ子となる新色がいつもの店へと入荷される日だった。郊外の、白塗りの壁にポトスの深緑が垂れる穏やかなしつらえだ。窓辺から陽の差し込む店内に入り、顔見知りの店員から早速インクの試し書きを勧められる。上質な紙にペンを走らせる。澄み渡った光をふくむ青。
「「あおぞらだ」」
 声の重なりにびっくりして、牡牛と蠍はとっさに互いの顔を見合わせた。
「……ここまで一緒になるのかあ」
 新しく見つけた互いの表情を、少年のようだ、と感じた。一息置いて照れたような笑みがこぼれた。

 青空色のインクを持ち帰りながら、街路樹を見上げると固い蕾の中に薄柔らかい花びらがふくらみ始めていた。いい天気だ。物言わぬ陽射しも心地よい。
「貴方に出会うまで、世界は、生きている間に味わい尽くせるものだと思っていた」
 蠍がふと言った。牡牛が耳を傾ける。
「でも、違ったなぁ。終わらないんだなあ」
 ──牡牛はふっと微笑んで「そうとも」と返した。世界中の喜びを知り尽くす前に、命は尽きる。ありがたいことだ。
 それまで一緒にと願って、しっかりと手を繋いだ。


 - fin -

作品データ

初出:2019/6/15
同人誌『analog -万年筆小説-』収録(※同人誌はR18)
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