もうすぐ春ですね

  【一】

 万年筆という、一度筆を走らせ始めたら戻れないそれは、意外と牡羊の気性には合っていた。スチール製のペン先は彼の軽いジャブのような筆圧にもよく耐えたし、一旦肌身離さず使うようにしてしまえば、乾いて詰まるトラブルも思ったより無かった。
「せっかく上等なペンを買ったのだから、それで恋文でも書いてごらんよ」と言ってきたのは天秤で、牡羊はそういうものかと一瞬鵜呑みにしそうになったのだが、小一時間書いてみてからようやくそれが天秤のからかいだと気付いたのだった。
 ひとたび万年筆を握った手は、まるで直感を自動書記するが如くすらすらと動いて、牡羊を信頼させる。
一目見た時から君が気になっていました。
 文を書く脳裏には、最初に文をそそのかした天秤の姿があった。一目惚れ、あぁそうだなと、牡羊は文を見て納得した。



  【二】

 牡羊が万年筆を買ったと聞いた時、天秤はちょっと嬉しかったのだ。なんせこれまで身の回りにどれだけの万年筆ユーザーがいるかも分からず、牡羊が買ったという話になって急に我も我もと名乗り出てきてくれる人間が増えた。恋文を書いてみなよとからかってはみたものの、実際牡羊が誰宛に何を書いたかは気にしておらず、天秤が自分宛のラブレターを見る機会は特になかった。
「あのさぁ天秤、万年筆なんだけど」
「ん?」
「あれってインク取り替えるやつどうすんの」
 話題のイベントに遊びに行った帰り、カフェでコーヒーを啜りながら牡羊はそんなふうに聞いてきた。天秤が詳しく話を聞いてみると、カートリッジインクが切れかけているのだという。それだけで牡羊が訊いてくるわけはないだろうなと思っていると、どうも瓶インクを入れたいという。
「黒以外のインクも面白そうだなぁと思ってさ。赤ペンとか作ってみようかと」
「ずいぶん気に入ったんだね?」
「まあな。大人になった感じするじゃん」
 牡羊って、油性マジックや鉛筆の方が似合うと思われている節があるよな、と、天秤は内心でおかしく感じた。一旦その気になれば真面目にやるタイプだ。万年筆の中でも引っかかりなく書ける当たりのペン先を引いたのかもしれない。最初の一本がかすれていたらおそらくここまで来られなかっただろう。なんせせっかちだから。
「牡羊、結構書き物するんだね」
 天秤がカフェオレを口にしつつ微笑むと、牡羊は「そういやそうだな」と顎に自分の手をやった。
「あの後めちゃくちゃ手紙書いたからなあ……」
「手紙?」
 まさか、恋文? 一体誰に? そんな天秤の疑問は、カフェに流れるラウンジミュージックにかき消されて散じてしまう。
「万年筆とか、誰に話したらいいのかわかんなかったし。お前と話できるのありがたいよ。今度インク見に行こうぜ」
 牡羊は、そうやってやや強引に天秤と約束を取り付けてきたのだった。



  【三】

 牡羊が天秤のことを気取った奴だなぁとひときわ印象強く感じたのは、そういえば、やはり、天秤が万年筆で手帳に書き物をしているのを見た時だった。万年筆なんて映画の中で大人が使っている所でしか見たことがなかったし、牡羊の友人や同年代はみんなペンといえばシャープペンシルか、サインペンか、ボールペンかといった塩梅だったのだ。天秤は白金のペン先からブルーブラックのインク文字をするすると生み出していて、育ちの違いを感じた。
 もう何をどう話したか詳しくまでは覚えていないけれど、天秤は自分の万年筆を見つめながら、伏し目がちに微笑をたたえて呟いたのだった。
 ──みんなの中で平均ぽく見せるためにはね、実際には平均より少し良い位のところに居られるよう意識してないといけないんだよ。このペンも、少し良いペンに見えるでしょ」
 周りと比べて時にキザな位に見えるこいつが、実際には細かい努力を苦とも思わずに積み重ねているのかもしれないと、そう思った時に天秤を見る目が鮮やかにひっくり返った。今もよく憶えている。

 牡羊が天秤と待ち合わせて向かったのは都内にある大型文具店のビルだった。万年筆は愛用のものができたので、コンバーターとインクを物色しに行こうという試みだ。うっかり百貨店にでも連れていかれるかと思ったが、あてが外れた。
「百貨店にも外来ものとかいいインク扱ってる店が入ってるとこもあるけど、コンバーターは地味だからこういうところか通販の方が揃ってるんだよね」
 文具屋の密集した商品棚の匂いに囲まれ、天秤は慣れた様子で歩きながら「僕結構ここ来るんだ」と話した。
「デパートとか行ってんのかと思った」
「いやあ、普通の文房具って、ちゃんと揃えようとすると地元じゃ厳しいじゃない。ここにあるものだって贅沢品だよ」
 天秤は余裕を漂わせてふふっと笑みをこぼす。まるでどこにでも行ったことがあるみたいな風情だと、と、牡羊はその姿を評し、目的地に着く前から既に天秤との時間を楽しいと思っている。デート気分だ。一応。



  【四】

 牡羊が天秤とともに訪れた大型文房具店の万年筆コーナーは、ショーケースの中に幅広い金額層のペンを展示していた。いくらしかめっ面で眺めてみても一本のペンに何十万とかける理由はわからないのだが、生涯愛用するツール、という扱いなのかもしれない。これがアウトドア用品なら多少金額的に共感できるかもと思う牡羊である。
 天秤はといえば、牡羊から絶妙に付かず離れずの距離感を保って、横にいた。人に悟られないように振る舞っているが、人間観察が好きな奴なんだなと牡羊は野生の勘で思った。
「天秤さあ、一番高い万年筆ってどれぐらいの持ってんの?」
 牡羊の質問に、天秤はいかにも話したそうなうずうずしたそぶりで「そんなに高いのは持ってないけど」と前置きしつつ、五万円程のものがある、と言った。万年筆も使うシーンによって使い分けるという。目上の人と会うときにはその一番高い万年筆を持っていく。
「はー。ちゃんと使い分けるのマメだなぁ」
「そうでもないよ。いろいろわかっているのが楽しいって思うからさ。背伸びしてみるだけ」
 いつも遣いの万年筆は、インクが乾きにくい某メーカーの三千円程度のものが一番ラフに扱えるという。「あれはキャップもバランス型だし好きな形だね」と。
「バランス型?」
「キャップの先っぽが丸いやつをバランスって言うんだ。平べったいのがベストってやつ」
 牡羊は素直に「そんな分け方なのか」と天秤の言ったことを吸い込んでいく。
「どっちが有利とかあるの」
「ううん。好みの問題だと思う」
 ショーケースに並ぶ万年筆は確かにキャップが二種に大別できる。バランス型は上品だが、牡羊はベスト型の方が今時っぽくて好みだなと思い、それを天秤にも伝えた。天秤は、その差異もこなれた様子で楽しんでいるようだった。
「万年筆って、意外と人によって好みが分かれるから面白いよね」
 他人って面白いよね。
 そんな風に、天秤は純粋に楽しんでいるように見え、牡羊はそれも不思議に思う。
 コンバーターを買いに来ていたのだった。売り場の店員は若く気の抜けた雰囲気に見えたが、牡羊が声をかけると初手から店中の在庫を集めてあらゆる種類のコンバーターを紹介してくれた。いい店員だと思っていると横の天秤と目が合い、互いに何でもない同意のうなずきが交わされた。



  【五】

 文房具店ビルの某フロアで万年筆のコンバーターを買うと、牡羊は天秤とともにいよいよインクを見に行く。家に帰ってからコンバーターに吸い上げるインクを決めるのだ。天秤はこれも慣れた調子で、インクの陳列棚へと案内をしてくれた。硝子棚の中には色も形も異なる小さな瓶がいくつも並んだ。
「おーすげー」
 牡羊は無心になってインクの一つ一つを見てしまう。「宝石瓶みたいだ」と呟くと、横の天秤が嬉しそうに、また実際浮かれた様子で「宝石の名前がついてるシリーズもあるよ」と知らせてくれた。天秤の佇まいはどこが品がよく、硝子棚の硬質な見た目に合うなと牡羊は思った。
「ああ牡羊、あれ。言ってたやつ」
 天秤の指す先には50ミリリットルはあろうかという大きなインク瓶が、華奢なロゴフォントと蕩けるようなインクの色合いで構えていた。年ごとに限定モデルがあるようだ。今年の色はピンク味がかった赤。
「きれいだなぁ。ちょっと俺この量は使いきれないかもしれないけど」
「色好き?」
「うん。こいつは好きな方」
「限定モノは迷うよね」
「一発目だしなー。絶対赤系の入れようと思っててさ」
「いいねえ」
 さりげなく、試し書きコーナーに二人一緒に並ぶ。時にはかすれたペン先で紙をガリガリひっ掻く羽目になりながら、牡羊と天秤の会話はとめどもなく続いた。
「やっぱ一目惚れだったんだと思うよ。……この前勧めてもらって買ったペン先」
 牡羊の声が、照れに揺れた。天秤としては他意はなかったが、牡羊をそこまで持っていけたことに、自惚れのような嬉しさがあり、「そうか」と笑みをこぼした。
「じゃあさ、二人で協力してあのインク買うっていうのはどう」
「え」
「もう一つビン買ってシェアしたらいいよ」
 天秤の妙に光った眼は、さっきの限定モデルの赤を見ていた。牡羊には分け合うという意識がそもそも無かったが、それだけに天秤の提案には目からウロコが落ちる思いだった。
 ──本当に、俺とは違う奴なんだなあ。こんな奴が世の中にいるなんて。



  【六】

 結局さっきのインク売り場にとって返し、ルビーカラーの限定色を割り勘で購入する。牡羊はインク瓶の箱に天秤の目が輝くのを側からじっと眺めていた。どうも箱の装飾も好きらしい。嫌味なく何かを好きだと表現できるのは、それはそれで才能だと思う。会計のクレジットカードとか細かいところで天秤の趣味ってやつは、何から何まで違うなと思うけど。
(ある意味一番違和感がある奴かも知れん……)
 牡羊の思いをよそに、天秤は「家に詰め替え用のビンとシリンジもあるから、今度詰め替えて持ってくるよ。その前に牡羊のペンにインクを入れてみよう」と呟く。
「牡羊インクどこかで入れる?」
「ん? あーそうだな」
「どこかお店入ろうか。食べたいものある?」
 ──またかっこつけたカフェとか?
 牡羊の脳裏に、一瞬天秤の意外なリアクションが見たいという悪戯心がよぎった事は否めない。天秤が絶対行かなさそうなところ。
「牛丼でも食う?」
「うん?」
 天秤の顔が笑みを貼り付けたまま怪訝に揺れた。そこは自分なら不平を口にするとこだぞ、と牡羊は思った。
「そこの安いラーメン屋」
「……あ。ああ、えーと」
「居酒屋」
「え、昼から……?」
「マック」
 何とも言えぬ笑みを崩そうとしない天秤に、牡羊は(こいつ思ったより面倒な奴かもしれん)という感想を抱く。
「つか、行きたいとこあるなら対案を出せよ」
 挑発的に言うと天秤の目元がムッと不機嫌そうに歪んだ。
「百貨店の中のレストランとか、それなりいいとこあるけど。牡羊にはくつろげないんじゃない」
 趣味が合わね~! ……と牡羊は真っ先に思ったが、ギリギリ踏みとどまった。こいつを弾くと多分世界は狭くなる。その直観だけはある。



  【七】

 買い物を済ませ、食事の場所で噛み合わない様を見せた牡羊と天秤が折衷案に選んだのは百貨店ビルの中にあるステーキハウスだった。牡羊としては肉を前面に押し出したスタイルに満足である、が。
「天秤、お前ステーキとか大丈夫なの?」
「僕をなんだと思ってるの……。別に好きだって」
 牡羊がまだ訝しがっているのを、天秤は訂正しながら受け流す。牡羊が「お前こういう極端な肉!って感じの店、苦手かと思ってた」とこぼすと、「毎日食べるわけでもなし、気にしない。それより誰かに紹介できる美味しい店かどうかって方が気になるかな」と返す。
 全てが擦り合わせになる。
 牡羊は、この違和感をなんと表現したら良いのか、まだよく解らない。自分に全く無い価値観が何かの引力を帯びて急に惹きつけてくる。天秤は明るいけれど、獅子や射手みたいにガサツではない。一方で決めたらとっとと動く、というフットワークは意外と自分と似ているような気もする。
 鉄板に乗った分厚い肉がじゅうじゅうと音を立てて運ばれてくるのを見て、牡羊は元気よく「いただきます!」と声をあげるとナイフで肉をさばいて熱いまま口の中に放り込んだ。噛みしめて溢れる肉汁が旨い。
「うまっ」
 顔を上気させながら、せっかちな速さで食事を胃袋へ送り込んでいく。天秤はそんな牡羊の様を、自分も手早く肉をたいらげながら眺めていた。
「素直に食べるんだねえ……」
「ん?」
 二人掛けテーブルの正面同士、妙なタイミングで互いに目があった。生命力と若さでぎらついている牡羊の眼と、どこか複雑さを醸している天秤の眼と、互いに互いを見て一瞬よからぬ映像が、サブリミナルのように一コマだけ差し挟まったが、お互いそれを口にすることははばかられた。一瞬すぎて自覚もできなかったと言ったほうが正しいかもしれない。
 目の前の相手と一つになったらどうなるんだろう、というようなことが。
「正直ね、牡羊と二人だけでご飯食べてるっていうのが昨日まで想像もしてなかった」
 牡羊はそれを聞いて、肉を口に入れたまま、口を開けないでニヤッと笑みを作った。それから肉をゴックンと飲み込んだ。
「俺は楽しみにしてたよ」
 先に楽しみにしてた分、勝った! と言わんばかりに。周りの熱が少し上がっている気がした。



  【八】

 食事を終えた後、店を出ようとした牡羊を天秤は引き止めて、二人分のコーヒーを店員に注文した。がつがつせずに食後の一杯を、ということだったが牡羊は若干調子が狂う。
「さっきのインク、よかったら見せてよ」
 と天秤が言うので、牡羊はそっとパッケージを開けて、ルビーカラーの瓶を天秤の前にかざした。
「綺麗な色してるよなー」
 余計なてらいのない感想が、天秤には聞いていて快かった。店の光にインクをよく透かしてから天秤にも瓶を貸してくれる。牡羊はインクを扱う天秤の細い指を、まっすぐにじっと見ている。
「……あーやっぱすごい気になってきた。それさ、ここでインク入れたりできんの?」
 牡羊の問いに天秤は興味を掻き立てられたのか、「さっき買ったコンバーターと、それ付ける用の万年筆があればできるよ」と話す。牡羊は「一応ある」と言って、鞄から先程購入したコンバーターと、カートリッジのない空の万年筆をテーブルに並べた。天秤は静かに微笑みをたたえて、牡羊に手ずからインク瓶を渡す。
 牡羊は力強い手さばきで瓶の蓋を開け、ワインのように硝子の中で揺れる液面にうなずきながら瓶を仮置きした。用意したペンにコンバーターを仕込み、天秤のアナウンスに従ってペン先をそっと液面に沈める。コンバーターの軸を回転させると、液面が吸い上げられて中へと鮮やかな色が溜まった。
「おお……」
 さらに余分なインクを紙ナプキンで拭き取り、諸々を片付ける。持参したノートに一筆目をしたためると、内から光るようなルビーカラーの筆跡が無地の紙を彩った。「いいな!」と牡羊は筆先の感触に歓声をあげた。
 天秤も、その様子を見て嬉しそうだった。
「ねえ牡羊、せっかくだからサインしてよ」
 天秤は自分の手帳を取り出すと、後ろのほうの白紙を牡羊に向けて開いた。
「サイン? 芸能人みたいのとか、別にないけど」
「いいんだ、牡羊の名前だけで。筆跡を見てみたいんだ」
 そういうものかと、牡羊はこそばゆそうに笑う。迷いのない筆圧の強いペン字が手帳の上を走る。
「ハッキリした綺麗な字だね」
 手元に戻ってきた牡羊の字を、天秤は褒めた。



  【九】

 同じ一つのインクを分け合う、ということに共犯者じみた実感が湧いてきて、牡羊はインクを入れたばかりの万年筆を遊ばせる。天秤が目の前で、自分の手帳に刻まれた牡羊のサインをしみじみ眺めている。
「……天秤さ、俺にもサインくれよ」
「ん?」
「ノートしか持ってきてないけど。手帳も作っときゃよかったな……」
 今しがた使ったばかりの万年筆を、天秤に差し出す。天秤が「あ、僕自分のペンもあるよ?」と言ったが、「いや、このインクで欲しい」と告げた。これは自分と天秤とを繋ぐ良い話題になるはずだから。
 天秤は、一瞬ひんやりするような、悪意のないクリーンな目で牡羊を見た。口元の笑みを絶やさぬまま。そうして、そのまま牡羊の手から彼の万年筆を受け取った。ノートの左上に、横書きに大きく書かれたサインはバランスのとれた美しい字だった。
「サンキュー」と牡羊も笑った。
「これでインク半分こして、俺とお前で使ってくんだな」
「そうだね。25ミリリットル。昔ならいざ知らず、今はスマホとかパソコンで文字打ってるから、なかなか減らないと思うよ」
 一人の人間で使い切るのは大変だから、他の人にインクをシェアしてもいいよと天秤は言った。牡羊はそれには
「いや、これは俺一人で使い切る。何か使い方考えてみる」
 と言うのだった。
「天秤もさ、無理強いはしないけど、それ他の奴には分けないで」
「どうして」
「俺とお前と、二人で、どこまでできるか試してみたいんだ。きっと使い道とか全然違うんだろうしさ。一つの色であれやったとかこれやったとか、いろいろ思い出せたほうが楽しいだろ。多分」
 牡羊のストレートな言葉に対し、天秤はリアクションに優雅な含みを持たせた。無言で左右へ視線を飛ばしながら。
「そうは言っても、どんどん流行も新作の色も変わっていくからなぁ。……まぁこのブランドの色は三年ぐらい使っても大丈夫かなと思うけど」
 牡羊が真剣な顔をするのが楽しいだけなのだ。その裏表のない仕草が。
「試み自体は、面白いと思う。やってみようか。どこまでできるかな。僕と君と二人で」



  【十】

 何にせよ、一旦やると決めたら早い二人だった。走り出すまで気がつかなかったが、牡羊と天秤はその辺の行動ペースが想像以上にぴったりだった。
 牡羊との買い物を終えた天秤は、インクを預かって自宅に持ち帰り、自前のシリンジで空の小瓶にルビーカラーのインクをきっちり半分、25ミリリットル、移し替えた。牡羊から共犯者扱いをされながらの作業を勝手に楽しんでもいる。それから、普段遣いしている万年筆のコンバーターに残っていたインクを直ちに抜いて、洗浄し、牡羊のそれと同じようにルビーカラーのインクを入れた。
「他の待たせてるインクが劣化しちゃうんだけどねえ」
 妙に嬉しく浮わついた笑みを、見せながら。

 インクの瓶を牡羊に返しに行くと、牡羊は半分になったインクを瓶の中で波打たせ、その赤を眺めながら「あの後結局手帳買ったわ。悪いけどもう一回サインくれ」と、これまた真っ赤な表紙の手帳を差し出してきた。既にアドレス欄には牡羊の筆跡による文字がびっしりと、書き込まれている。
「染料インクだから水に弱いよ、これ。雨の中とか重要書類には使っちゃだめだよ」
「え、そうなのか!?
「まさか何かに使った?」
「あ、いや、色が赤いしそういうのには使ってないけど……俺濡らしそうだなぁ」
「濡れたらもう一回書くしかないね」
 さりげなく、自分の万年筆でサインを入れる。同じルビーカラーに牡羊はすぐに気がついた。顔に出た後、全身でテンションの上がりっぷりを表現してくるのだ。
「天秤もうそっちの色にしたんだ! 動き早いなー。へへっ」
「いえいえ、それほどでも」
 天秤は、今のところ万年筆は手帳や付け届けの一言便箋程度にしか使わない。インクを使うためにペン習字でもしようかと思ったが、一人での自習はずぼらで続かないたちだった。
「牡羊はインクを使うあてはあるの?」
 何気ない問いのつもりだった。インクを買った後、アイデアだけはばらばらと出てきていたから。
 一瞬目を放して、視線を戻したら牡羊の首から上が真っ赤になっていた。劇的な反応に、ははあ、と推察する。
「あ、わかった。ラブレターだろう。誰か好きな人いるんだ?」



  【十一】

 どうして牡羊が天秤の前でうかつにも赤面してしまったかと言えば、天秤の万年筆に自分のと同じ赤いインクが入っていたのを、予想外に、心臓が、嬉しくとりすぎてしまったから、とでも言うべきだろうか。
 まだ、今言うべきタイミングじゃないと思いながら、せっかちになってしまうのを牡羊を自覚したし、自覚したら抑えきれなかった。天秤がズバリと当ててしまったのが良くないのだ。
「ラ、ラブレターお前に書いてるんだけど! いいかなぁ!?
 それはやたら大きくうわずった声だったし、二人のいたキャンパスの廊下で大きく響いたような気がした。天秤は仰天して周囲に人がいないか思わず神経を張り巡らせた。幸いにも無人のようだ。
「……っ冗談よしなって。うわー思いっきりはぐらかしに来たね」
「いや、本気で。いいや、もうこの際だから言っちゃうけど、第一印象からずっと気になってて」
「いやいや。えぇーそんなに好きな子の名前言いたくないの? 純情だね」
「いや、だから言ってんじゃん。天秤! お前が、気になってた。だから。あくまで。ライクかラブかわかんねーけどさ、俺はとにかくお前のことめちゃくちゃ気になってて。だから俺はラブレターを書きお前はそれを読む」
「なんで僕の予定までそこに組み込んでいるのさ!?」
 あまりに牡羊の投げてきたボールが唐突だったので、何となく気持ち悪いなどと言う気にもなれず、天秤は困惑した顔で牡羊を落ち着かせようと手振りを交える。牡羊はさらに天秤の目前まで湯気を立てつつ詰め寄った。
「俺、正直こうやって押し問答してるのすら楽しいって思ってる。気になってたけど、全然接点なかったじゃん俺ら。俺は、またお前と遊びに行きたいしさ、話をしたいしさ、殴り合いでもいいし、とにかく天秤、お前がいなかったら俺は人生が物足りないんだよ! ……だから」
 今度、ちゃんと手紙渡すから。
 ──天秤は、牡羊の態度に押されて、「決闘状じゃないだろうね」と軽口を混ぜながら、それでも牡羊を切れなかった。
 牡羊の言い分に一分の理がある、と、思ってしまった。それを聞き入れてしまった。いっそ間違っていると言えたらよかった。頭ごなしに。牡羊の燃えるような瞳がそれを言わせなくて、天秤の胸にはあとあとまで燻る熱が残った。



  【十二】

 数日後、春一番が吹いた。強風に荒れた後、街では桜の開花が始まる。春休みシーズンに突入したある日、牡羊は天秤を呼び出して晴れ空の下で一通の手紙を手渡した。
「……まさか同性からもらうと思ってなかったけど」
 街の中で手紙を手にした天秤は、この期に及んでもなお人当たりの良い佇まいをしていて、それを見た差出人……牡羊は、頬を赤くしながらも「お前さ、本当にいい奴だけどもう少し言いたいこと言ってもいいんじゃねえの」とズケズケと言った。
 天秤はその牡羊の要所での飾らなさを、面白がって苦笑した。少し不細工なくらい崩した笑いぶりだった。
 牡羊は、まるで春風に触れるようにそれを見ている。
「そういう顔したほうがカワイイ」
「ええ? カワイイって久しぶりに言われた」
「なんだ、俺が最初じゃないのかよ」
「子供の頃は可愛かったんだよ。僕」
 この手紙は今開けた方がいいのか、後で開けた方がいいのかと天秤が尋ねる。「どっちでもいいけど、今かな」と牡羊は言った。「じゃあなるべく景色のいい所で開けよう」と天秤。スマホで公園の場所を調べ、二人で乾いた並木道を踏みしめていく。
「ねぇ、なんで僕にラブレター書こうって思ったの」
「ええーそこ訊くんか」
「言いたいこと言えって言ったじゃん」
 道端の桜は、陽当たりのいい一部だけ咲き始めている。残りの花は蕾のまま、内に春を溜めている。
 ラブレターにもいろいろあるから、牡羊は、あるいは天秤も……この手紙が天秤を口説き落とした果てに、二人で、何か新しいことが始まればいいな、と、思っていた。
「一目惚れした」
「ワーオ」
「お前が何か書き物してた時だったと思うけど、すげー頭良さそうにキラキラしてた」
 そう。その時に見たつもりはなかったけど、天秤の手にはちょうど万年筆があり、牡羊は後で無意識に万年筆を買う気に、なった。
「お前が話しかけてきたとき、恋文でも書いてみろって言っただろ。だから書いた」
 天秤はとっさに返す言葉をうしなった。
 牡羊の冴えたエネルギッシュな眼差しが、やけに焼き付いて、頬のあたりがかすかに脈打った。
 公園のベンチは陽にあたためられて空。牡羊と天秤はそこに隣り合って腰掛け、天秤の手紙の封を切る所作に二人してじっと想いを傾けた。真新しい桜の花びらが、ふんわりと、ルビーの筆跡の上に舞い降りてくる。


 - fin -

作品データ

初出:2019/6/15
同人誌『analog -万年筆小説-』収録(※同人誌はR18)
いいね・ブックマークはpixivでもどうぞ