二人旅、風の馬の国

 本格的な長旅などしたことが無かったから、新品のバックパックに荷物を詰め、パスポートと現時点で引っ張り出せるだけの有り金を財布に詰め、家族には友人と学生旅行に行くと言って射手は家を出た。暇さえあれば外でふらふら遊び歩いている放蕩息子──などと囁くものは今の時代いなかったけれど、なにより、自分をこの歳まで養ってきてくれた家族のそれなりに堅い生き様が陰のように心の裏にまとわりついて、強い光のない場所では否定することがためらわれた。
 空港までのモノレールの窓でくるくる変わる景色を眺めて、空港に着くと、国際線の待合ベンチに使い込まれたバックパックを置いて一回り以上年上の男が悠然と待っていた。獅子という通名だった。彫りの深い顔が青年の姿をみとがめてにやりと笑った。
「おー、ルーキー」
 射手は一瞬ぎゅっと固めた眼差しをほどくと「よろしくおねがいします」と声を張り上げ、強い笑顔をつくって獅子と握手を交わした。



 とある密教の国へ行きたい行きたいとネットに何度も書き込んでいるうちに、ネット上の名前しか知らない相手から「じゃあ行くか」と声がかかったのだった。他人から声をかけられやすい質をしているのは射手も自覚していて、ほいほいと空港まで来たら獅子がいたわけだ。
「獅子さんなんで俺を連れてってくれるんですか」
 国際線の座席で大雑把に機内食のハンバーグを頬張りながら射手は横の獅子に訊いた。獅子はそれなりにがつがつと白身魚に箸をつけながら、機内にまでもれてくるジェット音を背景に大きな口を動かして落ち着いたトーンで答える。
「一人で旅をしてもつまらんし、前途有望そうな若者にはいろいろ教えてやりたくなるんだ」
「あぁ〜お説教が好きなタイプ…」
「おーい! デリカシーないって言われるだろ、射手くん」
「や、獅子さんのこと尊敬はしてます! 一人で密教の地へ旅行できる人は俺マジで最上のリスペクト捧げてるんで!」
 傍からは教師と生徒のようにも、あるいは叔父と甥のようにも見える組み合わせだった。年上相手に物怖じすることなく喋っていく射手のキャラのせいなのか、獅子が何歳になっても子供から好かれやすい性格だからなのか、それとも相乗作用なのか年齢差のわりに二人は喋っていて相性がよかった。
 目的の国までは直行便で八時間半ほど。その間食事をしたり眠ったり、たまに会話を交わしたりなどして過ごす。

 現地は日本よりも湿度が高く、青空の青が濃く見えた。射手は空港に降りた最初こそはしゃいでいたが、やがてその心象は緊張と困惑にかわっていった。彼の国の言語は他国の言語とは相互理解不可能な成り立ちをしており、空港の英語併記が無くなった時点でもう既にあらゆるものの言語が読めなかった。人々の口語を片言すら理解できない。獅子が「はぐれるなよ」と言ったきり大きなストライドで歩いていくのに付いていけなかったら、そこで終わりだった。
 獅子の一歩後ろに同行する形で空港駅から鉄道へと乗り換える。古い木製の座席に二人座れたものの周囲には現地の人々や旅行者がひしめいていた。それまで獅子の姿を見落とさないように必死だった射手が、列車の座席ではようやく一息ついた反動で魂の抜けた様子を晒した。風が独特の匂いをはらむ車窓から遠くの原野を眺めている射手に、獅子は駅標識の現地文字を目で追いながらこの先の予定を伝える。
「今晩はC市のゲストハウスに一泊して、明日は鉄道を乗り継いで現地入り。ここでガイドさん雇ってるから合流して祭りを見に行く。年に一度の祭りでめちゃめちゃ派手だから楽しもう」
 射手は、茫漠とした目で獅子の手元のガイドブックを見ながら「はい…」と気の抜けた返事をした。獅子から見て、漂う、といったニュアンスが一番近く感じた。
「疲れたか?」
「いや、疲れてないスけど、今の俺、獅子さんが居なかったら周りとまともに意思疎通すらできない、と思ったらショックといいますか……」
 ──ひとりでどんな土地でも旅できる人間になることが夢だったのに。
 もし獅子がいなければ、今の自分は旅をするどころか迷子になるだけ。知らない場所で誰かに付いていくしかない心許なさ、無力さが、今の自分。射手はじっさい無言だったが、その足元の覚束なさは獅子の居場所を問わないどっしりした存在感とは対照的であった。獅子はそんな射手の様子を見ながら温かく先輩風を大げさに吹かせるのだ。
「行きたい場所へ行くっていうのは、自分で自分自身のことをきっちり引き受けられるようになって初めて成り立つ話だからな。射手くんの歳だったら、まだ本当の自由ってものは味わったことも無いかもしれないな」
 それを知っただけ前進だ、と獅子は言った。射手からの反撥とも憧れともつかぬ視線をその身に受けながら。



 日常からめりめりと引き剥がされて、その晩泊まったゲストハウスは四人相部屋でプライバシーなんてものは無かったし、射手は獅子以外の同部屋の宿泊者とはろくに会話もできなかった。現地語が理解できなかったからだ。獅子もどうやら現地語が堪能とまではいかないらしいが、挨拶ぐらいの片言は堂々とした調子で押し通している。獅子に紹介されたときだけ、獅子から習った挨拶とハイテンションなジェスチャーでその場を乗り切った。インターネットも出来ないことはないが高くつくため実質無駄遣いは一切できないもので、暇つぶしもままならない。諦めて眠ろうと潜り込んだシーツからは仄かにお香の燻された匂いがした。
 獅子はといえば、それまでかけていなかった眼鏡をかけて、ベッドライトの橙色の明かりで本を読んでいた。自分の呼吸音が聞こえそうな静かな夜だった。
「……獅子さあん」
「んー?」
「獅子さんはなんで現地のお祭りへ行こうと思ったんスか?」
「んー、ちょっと持病があってな。お祭りでやる儀式が病気快癒にご利益があるんだそうだ」
「持病って?」
「内臓系のな。まあ、歳くったらそれなりいろいろあるんだよ」
 あまり訊くなと本人が態度に表していることを無理に追いかけるほどの執着もなかった。射手は、ゲストハウスの静寂を透かして見るように部屋の天井をながめた。
「俺、そのうちどっかの部族のとこに旅して、イニシエーション的なやつを受けたいんですよね」
「成人の儀式みたいなやつか」
「そう。アフリカの部族とかは、厳しい儀式を乗り越えて一人前の大人として認められるようになってるじゃないですか。あれがすげーうらやましくて」
 一応射手自身も酒は飲める年齢だったが、自分で大人になったと自覚できる決定的な区切りはまだない。自由が欲しかった。今日獅子が見せてくれたようなもの。この一回り年上の同行者が既に手に入れているような、誰にも脅かされることのない揺るがぬ自由というものが。

 翌日は終日鉄道を乗り継いでの移動となり、とりとめのない話題が尽きてくるまで話をした。生徒が大好きな先生を見出して懐くのに似ていた。射手は獅子との会話から獅子の持つ自由を吸収しようとしていたし、熱心な生徒のように話を傾聴してくれる射手の態度が獅子は嫌いではなかったので、喋れるだけのことを喋って射手を楽しませた。
 祭りのある街までたどり着き、現地で取ったホテルは簡素なこしらえのツインルームだった。流石に一日移動詰めで疲れたのか獅子がベッドに倒れ込んだ時のことだ。射手も同じベッドに厚かましく、ごろりと転がり込んできた。
「獅子さん。俺は大人になるってことが自由になるってことなんだったら、大人になりたいです」
「なれるとも」
「ちょっと、大人になるってどういうことか教えてもらえませんかね」
 横向きに寝そべっている獅子の背中に、射手が自分も寝そべりながら頭をこすりつける。湿度を帯びた衣擦れの音がした。獅子は眠たげな半目を猫科のように細め、表向きは先輩風を吹かせたゆったり調子で後ろの青年の熱を、あしらった。
「射手くん、付き合ってる相手はいないのか」
「いないッスね。付き合いとかちゃんとやるには自分はガキ過ぎて、相手に悪いかなって」
「みんな最初はガキなんだから当たって砕けたらいい」
「そうですね。でも、相手は選びたいです」
 背中にこすりつけられた頭の重みに加えて、射手の掌が獅子の背中に添えられた。
「いろいろ、教えてもらえないですか」
 祈るような声色だった。
 異国の地で、後ろの青年は自分が振り落とせば縋るよすがもない。しかし逆に言えば、だからこそ獅子という人は自分をこの場面では振り落とせないと読んでいる動きでもあった。そういった読みがなければ狩りに移れないあたりは、内面の臆病さの現れでもある。
 獅子は疲れていた体をおもむろに起こしてベッドの上に座ると、こちらを真っ直ぐに見てくる一回り年下の青年の顔へと手を伸ばし、でこぴんを作って青年の額にバチンと叩きつけた。それまで真剣そうに見えた射手の表情がもろにでこぴんを喰らって「痛って」と崩れた。
「おまえな。それ先輩にあからさまに甘えてる後輩しぐさだろうが。ダメ」
「えぇー!?
「大人にしてくれたら誰でもいいみたいな風吹かしてるんじゃねえぞっ」
 大きな手で乱暴に射手の頭をかき回す。射手が情けない声をあげて獅子の手を外そうと転がりまわるのを、さらに追い回して射手がベッドを離れるまでわしゃわしゃにかき回し続けた。射手は若者特有のナイーブさで泣きそうになりつつも、獅子が決定的な拒絶や嫌悪までは見せず射手をある程度までは許容していることに安堵しているようでもあった。


 射手は獅子に追い払われて自分のベッドに戻っても、自分が獅子に嫌われていないことを確かめるように誘い言葉を絡めてきた。
「獅子さん年下構うの好きなんでしょ? ここにピチピチの年下がいるけど、ダメっすか」
 獅子はもう構わずに射手へ背を向け、自分のベッドに頬杖をついてごろごろしている。一度こうなったらてこでも動かないなという雰囲気があり、射手も途中で諦めて粉をかけるのをやめた。自分のベッドに潜り込むとまもなく昼間の疲れからか寝落ちしてしまう。

 静かな夜が過ぎる。獅子もひとり思うところはあったものの、それを射手に伝えても仕方がないので思い出すだけにとどめていた。年下に構ったことも関係を迫られたことも初めてではなかったが、迫られたのはそれこそ大分昔のことだった気がする。あの時の相手の年齢も今の射手と同じぐらいで、やり方は射手とは大分違っていた。
 射手をあしらった今だからこそ目を閉じればあざやかに甦ってくる。
 低温体質で淡々とした物言いで、しかし軸のぶれないやつだった。あちらは自分の年齢を言い訳にしたことは一度もなく、むしろこちらが年上年下の括りに持ち込もうとして躍起になっていた気がする。その度に、涼やかな目でこちらを見て、震えるようなことを言ってきた。
 ──僕と、あなたという存在が近づこうとするときに、年齢とか立場の違いとか、そういうものをむやみに強調する必要なんて無いんじゃないだろうか。ただ人としてお互い対等に敬いあえばいいんだと思う。
 水瓶という名前だった。
 今まで生きてきた中でたったひとり、本当に自分に並び立とうとしてきた年下の青年。獅子に一瞬自分の立場の全てを忘れさせた。
 この旅を決めた時に、敢えて日頃の取り巻きでなく全然自分を知らない人間を連れて行こうと思ったのも「いつもと違う自分を見つけたい」という願望が、すこしは、あったかも知れない。



 翌日の現地の天気は晴天だった。この国に根付いているとある宗教の最大のお祭りが行なわれる日といわれ、観光客と巡礼者でホテルやゲストハウスはどこも満室、射手と獅子が朝方に荷物をまとめて外に出ると、降り注ぐ強い日差しの下に五色の小さな旗が無数に連なって宙へ掲げられ、群衆のはるか上を彩った。巡礼者のなかには同じ五色の紙片を空に撒きながら歩いていくものもいれば、光沢豊かに鮮やかな色の聖なるスカーフを掲げて風に舞わせるものたちもいる。
 射手が頭上の旗を見上げてぽかんと口をあけていると、獅子が横で同じ旗を仰いだ。
「色と並び順が決まってるんだ。青、白、赤、緑、黄。青が天を表し、それから順に風・火・水・地を表す」
 どの旗の中央にも馬の絵が描かれている。これらが風に乗ることで、各地に教えを広め願いを疾く成就させるという意味があるのだという。そうして徒歩でいける総本山の寺院まで足を運ぶと、急坂ともいえる丘に巨大な極彩色の大仏画が飾られている。丘の上には遠く五色旗が飾られている他には何の建造物もなく、原野と人々の上にのしかかるような巨大な空が広がっていた。
 射手は「おぉ」と嘆息とともに晴れ晴れしい色とりどりの丘を見ていたが、やがて、丘の上を目指して歩き出した。獅子がそれを見守りながらゆっくり後ろからついていく。
「俺はほんとうになんにも知らない。なんにも知らなかったんだなあ」
 独語とともに丘を登りながら、射手の顔に切なさとも焦燥ともつかぬ表情がうかんだ。ただ遠くまで、遠くの果てまで行きさえすれば自分らしい何かになれると思っていた。もっと強い存在になって、勝手に背中から白い大きな翼が生えて翔べるようになると思っていた。まだ見たことのないあの場所へ行けば、行きさえすれば!
 狂ったように人混みを掻き分けて丘を登っていく射手の姿を、獅子は後ろから少し距離を置いて、後輩をみるように観察する。射手は一足先に丘の上まで上がり、そこから周囲に広がる鮮やかな五色の旗と、鮮やかな人々と、祭りの景色を、まだ下がる様子もない太陽の灼くような光を見たはずだ。高山の厳しい風土をとおった風が冷たく体を撫でるのを、なびく髪とともに感じて、まだ呆然と遠くを見つめていた。
 獅子は何分かおくれて、じっくりと地面を踏みしめながら丘を登りきり、射手に追いついた。丘の上から周りを見回して、大陸の鮮やかさを「いやあ、美しいな」と懐広く礼賛する。射手はといえば、ややおくれてから獅子に返事するように「ええ、すごいっす。美しいです」といいつつも、獅子に返した視線はすがりつくようなものだった。
「全部すごい、何もかもすごいけど、ゴールじゃなかった、感じです。大体俺この場所に全然馴染めてないし」

 丘を降りてからの道でも、路上でかき鳴らされるギターと、四弦の何かと、不思議な形状の鈴の旋律が現地人と観光客の雑踏を賑わせていた。自分自身が異物扱いになる環境に身をおかなければ見えない自分らしさというものがある。射手は日本で着ていた自分の衣服がこの土地で浮いているのを感じながら横の獅子につぶやいた。
自分らしさって、他人から見たら異物の塊でしかないんスね」
 獅子はといえば、射手と違って現地人に馴染もうとすることは最初から諦めている。念頭にないと言ったほうが正しいかもしれない。そしてそれは観光客という立場でのはっきりした存在感をもっていた。射手はそんな獅子の姿を見て自虐的な笑いを浮かべた。
「もうね、俺、周りのいろんな人に流されるっつーか、染まりやすいというか。染まりやすいキャラだと思ってたんだけどここに来たら浮きまくってるし、何なんだろ、本当に俺何になりたいんだろうって迷いが深刻になってきました」
「本当に自分のやりたいことをやったらいいだろう」
「えー。だったら、せめて空回りしないようになりたいかな。ハハハ…」
「その答えも俺の影響かもしれんってことだな。次は本当に一人で全部引き受けて歩いてみることだ」
 獅子はそれ以上深追いせず、空気のように待っていたガイドに声をかけて寺院への道を歩いていく。射手は忸怩たる表情のままその背中を追いかけていくしかなかった。
 祭りの本拠地である大寺院では本尊に参拝し、極彩色の砂で地面に描かれた曼荼羅図に上から色付きの砂を足す儀式に参加することができる。それまで居るだけでやかましい存在感を放っていた獅子が、この儀式では粛々と僧侶に礼をとり、砂を受け取って曼荼羅に振り足す所作をこなしていた。たくさんの蝋燭がゆらめてその場に熱気を足しているのが見えた。

 高山の日が急速に西へと傾いていく暮れ時に、寺院の側にある食堂で地元メニューの軽食を摂りながら獅子は自らの体調のことを話してくれた。
「癌だ。今は取るだけ取って落ち着いてるが、何度か転移再発しててな」
 射手がオーバーに「えっ」と顔に出したのを、今度は獅子がしたり顔でたしなめる。
「ほら、そうやって気を遣うだろ? 俺が気にした感じを出してるとみんなそういう顔になるんだよ。俺だって長生きしたいから手を尽くしているが、何かするたびに周りがそういう顔だの気遣いだのしてくるのが本当に辛気臭くてたまらんのだ」
「……ほぇ〜、そうすか」
 射手が、目をぱちくりさせながらも飲み込み早く軽い口調で返してきたので、獅子はここぞとばかりに苦労の数々をぶちまけた。標準の医療はもちろん健康食品や温泉や様々な治療を試したが、再発のたびに心くじかれそうになったこと。不安を抱えたまま昔のように終始攻め調子では走りきれなくなってきたこと。云々。
「誰か側で支えてくれる人はいないんすか」
 何も考えていない調子で射手があっけらかんと訊くと、獅子はわかりやすく眉間にしわを寄せて回答をためらった。
「今はいない。喧嘩別れした」
「ありゃりゃ。なんでまた」
「病気が寛解したのに俺がいろいろやってるのが非科学的だとかやりすぎだとか鬱陶しかったもんでな」
「別れたのいつですか」
「先々月」
 食事の後に出されたヨーグルトを口に運びながら射手はしらけた視線を獅子に見せた。だから自分を誘ったのかと言わんばかりに。獅子は射手のそのリアクションに躍起になって、自分もヨーグルトを食べながらあれやこれやと口を尽くして自分の正当性を主張したが、射手は残念そうに眉毛を八の字にして年上の同行者の言い分を聞き流すばかりだった。
「獅子さんさ、それ悪いこと言わないから、日本に帰ったら空港ですぐ電話してゴメンナサイしたほうがいいっすよ。相方さん心配してくれてるんじゃん。修復するなら早いほうがいいって」
「俺はべつに悪くない」
「いや、だからさ、向こうだって万が一言い過ぎたごめんってすげー凹んでるかもしれないじゃないですか。それに獅子さんだってそんだけ向こうが獅子さんを気にかけてるってところは多少汲んでやらないと。なんなら国際電話で今電話した方がいいんじゃないですか」
 俺のことはもういいですから。次は自分ひとりでちゃんと立って、歩かなきゃいけないと思っていますから。
 ──そんなふうに伝えながら、異国での夜が暮れてゆく。



 現地でのお祭りから周辺を観光して数日後、日本の空港には帰国便の到着ゲートをくぐる射手と獅子二人の姿があった。二人共現地の日差しで日焼けし、バックパックは出国時より充分に役目を果たして無事薄汚れている。
 手荷物受け取り場のベルトコンベアからそれぞれのバックパックを回収し、二人はそこで別れることになった。ハグを交わし、熱い手のひら同士で挨拶を交わし、肩をぽんと叩き、出国前より少し逞しくなったお互いの存在を讃え合う。
「獅子さん。密教の国へ連れてってくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ、同行に心から感謝する。何かあったらまた旅でもするか」
「いいッスよ。またぜひ色々教えてください」
 空港の出口には、──駐車場に至る経路の待合には、獅子が話していた涼やかな目つきの相方がいた。迎えに来てくれたようだ。獅子が内心緊張で心臓を高鳴らせながらそこへ歩いていく。射手は群衆の中から見送っていたが、視線の先で獅子はひとたび立ち止まって、こちらへと振り返った。そして全身から陽気を滲ませて大声をあげた。
「がんばれよ! お前は見込みがある。絶対にいい男になれるからな」
 周りを顧みない豪快なスタイルでかけてくれた言葉に、射手は屈託なく笑って「しゃーす!」と大声で返す。それから、獅子が出入り口で相方に無事迎えられたのを見届けた。

 独り立ちして、本当の自由を手に入れて、その先の人生に何が待ち受けているかは解らない。
 まずはその解らないところを見に行かなければならなかった。射手はバックパックを背負って一人帰途につきながら、早くも次の旅行計画を頭の中で立てていた。今度こそ一人で全てを引き受けて旅立つのだ。前よりも凛とした歩様で進むそのバックパックに、馬の絵が描かれた赤い小さな旗が一枚、土産にくくりつけられていた。



-fin-

作品データ

初出:2022/1/5
同人誌『二人旅、風の馬の国/攻める奴ほどよく喘ぐ』収録(※同人誌はR18)
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