兄を探して

 あんたは俺を叱ってくれたから、と言って、懐いてきた。
 本格的な冬を前にしたある寒い日、俺は厚くマフラーを巻いて船上のシートに座っていた。射手の運転する小型船が水面を切り裂いて白い飛沫をあげ、一部が霧になって灰色の空へと立ち上ってゆく。船は島へと向かう。群島の果て、今はもう誰も住んでいない島に。

 ──兄貴の乗ってたセスナがこのへんで消えちゃったんですよ。行く前に届けを出してたからみんな探してくれたんだけど、十日間探しても見つからなくて。海に落ちたんじゃないかって言われた。でもたった一人の肉親としては諦め切れないじゃないですか。だから探してたんです。二年ぐらい、ずっと。
「山羊さん、船酔いしてないですか」
「ああ、平気だよ。しかし寒いな」
「あはは……もうちょっとで着きますんで魚でも数えてて」
「見えないよ、魚なんて」
 射手とは会社の先輩後輩という関係だった。年齢的には二つしか違わないが、射手は入社時期自体が遅くてまだまだ仕事の勝手もわかってない。失敗をやらかした後輩を教育するのなんてどこの会社でも当たり前にやってることなのに、彼付きの教育係になった俺に対する射手の怯えよう、そして打ち解けたあとのこちらを見つめる目の輝きにはおかしなほどのものがあった。俺はそのバランスを欠いたまなざしに同性ながら時たま不安を感じたものだ。

 射手は、俺が射手の兄に似ているとよく言った。よく射手を叱り、フォローは下手で酒を飲んだときにしか上手く砕けた話ができない。射手の兄は乙女という名前だったそうだが、射手が幼い頃に死んだ両親に代わって厳しく射手を育て上げたようだ。
 俺が「俺はセスナには乗れないよ」と言うと、射手は乾いた顔で苦い笑みを浮かべた。

 ──俺も知らなかったんです。兄貴が免許持ってたの。俺、それ知ったとき初めて兄貴のこと本当にカッコいいと思ったのに、まだ兄貴に会ってカッコいいって言えてないんです。



 浜とも呼べぬ小さな入り江に船をつけ、人間の背丈ほどもありそうな草が生い茂る丘を掻いて登ってゆく。羽虫や虫けらの類が野放しだ。射手は道なき道をまっすぐに突き進む。俺と手分けして島を探すことなどはなから考えていないといった具合で。ろくに運動もしていない社会人の身でどうにか射手の後をついていくと息が弾んだ。
「山羊さん。俺、あと少しなんです。人影とか、人が住めそうな場所が見えたら教えて」
「こっちから呼んだらどうだ。いちおう無人島なんだろ?」
「……あ、そうか」
 兄さん、兄さーん、と原っぱの中で声を張り上げる射手と一緒に俺は「射手君のお兄さん」と声をあげて周囲を探した。虫けらどもの鳴く声ばかり。ああ本当に人のいない島なんだと思って、田舎の婆さん家の裏手の崖を思い出した。うっそうと森がしげって本当の闇が奇妙な音をたて、人を呑んでいくあの感覚。マフラーにまとわりつく草もみやイガイガの実を剥がしながらさらに射手の背中を追いかけて歩く。
 かなり丘を登った先に、森の木をへし折って落ちたらしきセスナ機の残骸が見えた。斜めに突っ込んだ機体は翼が折れびっしりとツタに覆われている。
「あの中に兄貴はいなかったんです」と射手は言った。
 まだまだその先へと俺たちは歩いた。一日かけて、島をぐるりと一周回って。
「ほんとうは、俺あの飛行機を見たときに会社休んで最後まで探そうと思ったんです。
 でも怖くなったんだ。たった一人で兄貴を見つけて、俺帰れなくなったらどうしようって」
 声を張り上げる射手の背中に午後の陽が差し込むのを見て、俺はおぼろに射手の兄が既に死んでいるのかもしれないと思った。不謹慎なことだとは思う。だが射手がわざわざ会社の先輩でしかない俺を拝み倒してここまで連れてきた理由が他に考えられなかった。俺は射手が最悪の事態に直面した時、彼をもとの世界に引き戻すために連れてこられたのだ。
 射手は声を張り上げながらひっきりなしに俺に兄のことを語る。一気に壊れないように少しずつ自分の身体を壊して。
「高校卒業してから全然会ってなかったんです。俺、子どもの頃頭おかしくなって兄貴に病院連れて行かれたことあって、兄貴の躾が厳しすぎて突然ギャーとか叫ぶ餓鬼だったんです。俺。人間自由が一番じゃないですか。両親もいないし、綺麗な世界を一人で駆け回って野垂れ死ぬ生活に憧れてた。でも兄貴は俺の目の届くところにいてくれって……あれ以上近くにいたら頭がおかしくなりそうだった。兄貴にも家族は俺しかいないんだって知っていたから。側にいたら死ぬまで縛られるって思っちゃった。その兄貴の弱さが、話しててわかっちゃうから余計に。
 ねえ山羊さん。俺は、おかしいですか」
 途中で、ふりむいて、まるで十歳児のようによすがなく震える後輩に俺は息をついて近寄ってやった。両肩を掴み、それから頭を抱き寄せて額をぶつけてやる。
「射手。今おまえは兄さんを探そうとしてる。そうだな」
「はい」
「お前は確かに仕事でエリートみたくデキる奴じゃないよ。でも人として間違ったことをしたり、世の中には迷惑かけてないだろ?」
「……わからないっす。俺結婚もしてないし金も貯めてないし。もっと真面目にやってる人いっぱいいるし」
「そんなの人それぞれだろう。それは俺が言ってる内容とは関係ない。誰がそんなこと言ったんだ」
「だれも、そんなこといってないけど」
 マフラーを巻いてても、オーバーの中で寒そうに震えている。積み上げた積み木が途中であとかたもなく崩れ落ちて途方にくれてしまった五歳児のようだ。どうしてそんなに幼いんだ、という残酷な質問が浮かぶ。誰もいない島で俺は射手に震える時間を分けてやった。
 いつも会社で見ていたような、寒空を背負ったような明るい笑顔を見ているよりましだ。
「離れるって言ったって、まさか一生離れるつもりじゃなかったんだろ」
「それは……わからな……」
「……強くなったら帰るつもりだったんだろ? 外に出ていろんなことを学んで、落ち着いて、そしたら帰るつもりだったんだろう。死ぬまで帰らないって決め付けてたわけじゃないんだろ」
 言葉もなく何度もうなずく射手の背中をなで、元気付けてまた歩かせる。射手は原っぱを掻き分けながらまた声を張り上げる。兄さん、兄さん。

 ああ見つかってください。

 無人の島に吹く風と飛び立つ鳥の群れ、なびく草の匂い。灰色の雲の隙間から楽園のように降ってくる陽の光。俺はこんな世界の中で人が一人では生き抜けないことを知っているけれど、射手はできると信じていたのかもしれない。射手は会社人間なんかより冒険家になるのが多分向いていた。好きこそものの上手なれというやつだ。それにしたって、最後には社会に戻る必要があるわけだけど。
「山羊さん! あれ」
 先を行っていた射手が斜面の先に古い小屋のようなものを見つけ、大声をあげた。島に人が住んでいたときの名残りだろうかと思った。三十年以上前には住民がいたという話だったから。
 この島はどうしてこんなに静かで綺麗なのだろう。斜面から見下ろした先には海があり、遥か先にぽつぽつと他の群島が顔を出しているのが見える。野草だらけの丘に赤い南天の実がおびただしく艶めいてゆれ、白やオレンジや黄色の花が咲く。蜂が寒そうに花びらに止まって蜜を集め、また巣へと飛んでゆく。
 一足先に廃墟に入った射手が中で立ちすくみ、俺がおくれて中へ踏み込む。廃墟の天井が抜けていた。俺は薄黒く汚れたコンクリートの壁面へ陽の光がいっぱいに差し込み、外からコンクリートを割って進入してきた木の根が陽だまりの中に新しく若葉を芽吹かせるのを見た。

 ひといきして、慟哭が廃墟の中を満たしていくのを見た。

 射手はもはや立っていることもできずに地面に崩れ落ちる。顔を覆い、自分があげている慟哭を自分ではもうどうすることもできずに。
 ぼろきれのような服を着た白骨が廃墟の地面に落ちていた。すっかり色が変わって、周囲の地面の色も変え、陽射しを静かに浴びている。何年放置されていたのだろう。この場所にくるまで全く人影を見なかった俺には、その骨も、廃墟の中に風化して残っていた最低限以下の生活用品も、それらが埃と土と枯れ葉にまみれてしまった様も、さびしく映るだけだった。
 にいさん、ごめんなさい、と射手は叫んだ。白骨を抱き、何度も何度も空を引きちぎるようにして。



 白骨を見て立ち上がれなくなってしまった射手を抱きとめて、廃墟の壁に身を寄せて眠る。
 射手はまるで白骨に甘えるようにして俺の胸元ですがって眠った。途中何度も兄の思い出を口にした。射手が風邪を引いて寝込んだときに濡れたタオルを何度も絞ってのせてくれたこと。料理の本を何冊も持っていて何種類もの料理をレシピどおりに作ってくれたこと。まめに掃除をしないと気がすまない性格だったこと。授業参観や三者面談のときには仕事をやりくりして必ず顔を出してくれたこと。

「なんでセスナなんか乗ってたんだって兄貴の知り合いに尋ねたら、操縦の練習してたんだって。免許取ったんだって俺に自慢したかったんだって。馬鹿だよね。俺なんてもう何年も家に帰ってなかったのにさ」

 怖かったんじゃないのか、と尋ねると
「だいすきだった」
 と答えた。そう言ってまた俺の胸元に顔をうずめて泣いた。


 - fin -

作品データ

初出:2008/11/-
同人誌『僕は水の中へは行けない/blue』収録(※同人誌はR18)
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