魂還り

 寝て起きたら肉体が五十歳ほど若返っていたと牡牛は言った。
「まわりに言ってもだれも信じてくれんし、勝手が分かる両親と家内は歳で逝っちまったしでもうどうしようもなかったんだ。でも双ちゃんなら学校からの付き合いだし、俺だってわかってくれるだろ」
 ……こいつの前でさえなかったら自分は”私”とか”わし”という言葉で自分を語っていたところだが、現状に即してそうもいかぬ。俺は既に真っ黒になっている肺に煙草の煙を流し込みながら、その先に居る牡牛の顔をじっと見つめた。これ以上近寄って見定めるなら老眼鏡を持ってこなければならない。目の前にいる二十歳になるやならずの若者は、涙が出るほど懐かしい面を困惑にゆがめて俺にすがっている。
「ああ。牛ちゃんだ。赤べこ牡牛」
 一歩も動かずに首ばっかり縦に振るから赤べこ牡牛。俺がつけた数十年来のあだ名をきいて牡牛の顔がぱっと明るくなった。俺の孫が何歳だったか忘れたが、下手するとそれより若いんじゃないかと思う。つやつや芯のある黒髪がたっぷり、たまごみたいな張りのある肌、そして愛嬌のあるどんぐり眼だ。
「だろ!? 俺だろ!?」
「幸福と不幸が五十年分いっぺんに来たみたいな面してるなあ」
「いうなよ。体が軽いんだ。ここまでも普通に歩いてきた。血圧高かったのも嘘みたいだよ」
 その代わりここから生きるための人的なよすがはほとんど失って。不安がとけて一気に笑う牡牛から若い精気がみなぎってきているのが見える。七十になった俺にはその威力が、一メートルほど距離をとってもあまるくらいだった。
 省みるに俺の体は枯れ木みたいでしわくちゃだ。そのひきはだじみた皺だって老眼鏡がないとよく見えない。俺はテーブルの上においておいた老眼鏡をかけるとみずからの手の瘤のような節々を見やり、入口で待っているやつとの残酷な落差に苦笑する。こっちも二年前に奥さんが死んで、娘夫婦と暮らすのも面倒で一人暮らしだった。
「あがれよ。飯くってないんだろ牛ちゃん」
「いいのか」
「ああ。なんか作ってやる」
 まだ日も昇っていない早朝で、露をふくんだ空気がひんやり四肢にしみた。牡牛が若返ったのなら俺も同じように動きたい。いつのまにやら老醜を重ねてしまったこの体を奴に見られること、それすら耐えがたく恥ずかしかったが、牡牛はそんなことには構いもしないで軽々と家に上がりこむ。動作が油のいきわたった車みたいに軽そうに見える。
「なつかしいなあ。お前のその面。どういう秘訣で若くなったんだ?」
「うん。夕べの夜嫁さんが……あ、息子夫婦の嫁さんな。そっちが七穀米でご飯炊いてくれた」
「七穀米だけでそんな若返んねえだろ。それが本当なら俺だって毎日食ってるよ」
「俺も不思議だよ。気がついたらこうなっててなあ」
 米を圧力鍋で早炊きにする。アジを焼いてわかめの味噌汁と梅干。ガスコンロを目一杯回しながら、ふと昔を思い出して気が遠くなった。もう遥か昔。戦争が終わってまだそんなに経ってなかった、あのころのこと。
 俺が牡牛とおなじように二十代はじめだったころ。二人とも学生寮で暮らしていた。何かにつけて牡牛の部屋に溜まっては黄色い畳の上に転がって、煙草はまだ高くてあまり買えなくて、安い酒飲んで、若さのまかせるままで牛ちゃんと添い寝して……それ以上何もなかった。
 あの大きな体で、俺の前でだけは子供のように無防備に寝ていた牡牛の寝顔。俺はほろ酔い加減で横になりながら何時間もそれを見つめていたことがある。なぜそうなったのかよくわからないようなセンチメンタルな気分でぽろりと一筋泣いたことも。
 料理をつくる手先は老いても記憶の色彩は鮮やかだった。居間で待っている牡牛は、ものめずらしそうに俺の今の住まいをあちこち見回していた。
「双ちゃん。奥さんは」
「二年前に心筋梗塞で死んじゃったよ。今は一人暮らし」
「ああ、そうだったっけな」
「そうだよ。お前葬式にも来たじゃん」
「呆けかかってるのかなあ俺。変な感じだ」
「おいおい。せっかくこっちは久しぶりに楽しい飯が食えるのにそれはないでしょ」


 牡牛は居間で座っていたかと思うやいなや、のらりくらりと立ち上がり、その大きな体を揺らして料理をする俺の側まで寄ってくる。そんなにアジの焼ける匂いが恋しかったかと俺が笑って奴を見ると、牡牛は目を閉じて鼻をひくひくさせ、それから睫毛の濃い目を微かに開いて横目に俺を見つめた。
 若々しい姿の牡牛と、白髪姿の俺との間には、五十年もの時間が目に見えて横たわっていた。俺には背筋のまっすぐさと老班の浮いた痩身ぐらいしか見せてやれるものがない。
 牡牛はためらいがちに俺の肩に熱い掌を乗せ、俺がさからわないとわかるとそっと俺の後ろに回り込んで俺を背中から抱きこんだ。俺は牡牛に抱きこまれたまま冷静にコンロの火を一つ一つ全部切った。放っておくとまずいな、と漠然と思ったからだった。
「双ちゃん。……いまはようやく一人なのか」
「ああ」
「長かった。ようやく俺だけのものになった」
「そう思うなら牡牛、歳食ったまま来て欲しかったよ。俺は若いお前に若い姿で付き合うのも歳食ったお前に歳食った姿で付き合うのも平気だけど、若い時のお前にこの姿だけは見られたくなかった」
 俺はけっして後ろを振り向かなかった。今の年老いた顔を牡牛に見られたくなかったから。背中を包む牡牛の体温が切ないほど暖かかった。抱き込まれて初めて自分の体温の低さを痛感する。手先が冷えている気がして指をさすっていると、上から牡牛の滑らかな手が重なってきて俺の手を握る。身動きがとれなくなって心臓がたわむ自分自身の体に自嘲するしかない。
「双ちゃん。俺、もしこうして体が若返らなかったら双ちゃんのこときっと諦めてた。双ちゃんは随分細くなったなあ。体」
 瞬間的にかっとなって牡牛の腹に肘鉄を食らわせる。うっと牡牛がうめく声が聞こえた。牡牛は痛がりながら俺が機嫌を悪くしたのに気づくと「ごめん」と繰り返して、また俺の背中に寄り添った。
 俺にもプライドはあるのだった。二人ともそれは知っていたから特別言葉にはしなかったけれども。
「ごめん。でも双ちゃんが強いままで嬉しいや」
「それ以上ヘタな言葉使ったらウチから追い出すぞ」
「うん。うまく言えないんだけど、俺は強い双ちゃんも弱い双ちゃんも好きでね。口下手なのは、頑張るけど、勘弁してほしい。俺双ちゃんより口が上手くなれる自信ないもの」
 ──双ちゃん、覚えてる? 学生寮で暮らしてたころ、俺が酔いつぶれて寝てると双ちゃんがいつも薄手の綿布団をかけてくれたこと。双ちゃんはいつもカッコいいことに金使っちゃって、外じゃモテてたけど家じゃ塩おむすびばっかり食ってたな。俺んちにランニングとパンツ一枚で卵かけご飯たかりに来る双ちゃんの、喋る中身ばっかりカッコいいさじ加減が俺にはあこがれだった。
「何年かして双ちゃんが結婚したときに気づいたなあ。俺には道を踏みはずす勇気がなかったんだって」

 とても静かだった。俺を包む牡牛の体温のほかには。
「そんな勇気は俺にもなかったよ」
「うん」
「牡牛。お前俺の気持ちは知ってたのか」
「あの頃は分からなかった。何もかも初めてだったから。双ちゃんが結婚した日にめちゃくちゃ飲んで、胸が痛くて泣き寝入りして、ようやく自分の気持ちが恋だったんだとはっきりわかった」
 俺は牡牛らしいことの流れを鼻で笑った。
「遅すぎだよ」
「それぐらい鈍くなきゃ正気でいられなかった。俺も双ちゃんも生きてかなきゃならなかったんだもの」
 それだけのことを確認しあうのに五十年もの年月を経た。俺と牡牛は互いに、あのときの純粋な感情を空白の中へ置き去りにして生きてきてしまった。
「なあ双ちゃん。好きだよ。今でも。普通の好きじゃなくて、全部、どうかしちまいたいほど好きだ。
 ……言えてよかった」



 俺はコンロの火を消してからずっと考えていた。なぜ牡牛が五十歳も若返って俺のもとに現れたのか。どうしていつも大きく構えていた牡牛が、まるで明日がないみたいにことを急いて俺に想いを打ち明けてきたのか。どうして俺は今狂うほど安らかで幸せな気分なのか。
 皺だらけの口元に笑みをこぼしながら、俺はそっと目を閉じて背中の牡牛に体重をあずける。顎を上げて頭を牡牛の肩にもたせかけると牡牛は俺を支えながらあの純朴な面で俺の顔をみつめた。
「牡牛。俺を迎えにきたのか」
 牡牛は意味がわからないといった具合で首をかしげている。自分に何が起こっているのかいつも後から正確に理解するような奴だった。
「俺は会いたいから会いに来ただけだ」
「うん。そうだろうな。そうであってほしい」
 こうして通じ合えたからにはもう帰ってほしくないし、俺の前から消えてほしくない。心底そう思った。俺は今までいつも他の奴が逝ってしまうのを見送るばかりの立場だった。そうして牡牛まで失って、独りで余生を送るのはもう嫌だ。
「牡牛、俺と賭けをしよう」
「賭けって?」
「この皺だらけの爺に口づけしてくれ。それで俺がちょっとでも若返ったら、もうずっとお前の側にいてやる。もっと先のこともさせてやるよ。若返らなかったらその先はちょっと待ってくれ。とりあえず飯を作り直す」
「……わかった」
 体を横様にずらすと牡牛が顔を近づけてくる。俺はそっと目を閉じた。唇に牡牛の柔らかい唇が重なって、体中の力が抜ける。
 空白の中に置き去りにされてきた花がひっそりと古びかけた蕾を振りほどき、中から新鮮で無垢な花びらを咲き誇らせた。きっかり三秒で俺は牡牛から唇を離して目を開けた。視界がぼやけて痛む。老眼鏡のせいだと気づいて眼鏡をはずすと、全てが鮮明になった視界に驚く牡牛の顔が見えて事態を悟った。
 手元を見てみる。ひきはだじみていた皺がはっきりと伸びて染みも消えつつある。
「ああ。そうか。やっぱり」
「双ちゃん」
「俺はお前と出会ったころまで若返れるよ。よかった。もっと、キスしてくれ」
 牡牛の腕が激しく俺を抱いた刹那、全身がすっと軽くなって周りが明るくなった気がした。きっと髪も白髪から黒髪に変わっているだろう。みるみる若さを取り戻してゆく俺を牡牛は夢中で貪っていた。唇から、肌から、何から何まで。俺は牡牛の勢いの激しさに笑い、甦る官能の感触に我を忘れ、牡牛の体を抱きながらえもいえぬ幸福に包まれた。


 ◇


 梅雨が抜けようとしているある日のことだった。民生委員の乙女が双子という老人の家を訪ねると、家の鍵が開いていた。彼は台所のコンロの前で崩れ落ちるようにして一人静かに息を引き取っていた。その日まで誰の手も借りずに暮らしていた男の死に顔は、かすかに微笑んで美しかったという。


 - fin -

作品データ

初出:2009/7/10
同人誌『僕は水の中へは行けない/blue』収録(※同人誌はR18)
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