無知の涙

 大学時代の友人だった魚が、もうのっぴきならぬところまで追い込まれて僕に助けを求めてきたのが先週のことだった。事件からすでに五年が経過していた。その間、魚が一人抱えこんだ状況に気がついた人間がいても、手を差し伸べ引き上げた人間は皆無であるらしかった。
 魚のところで居候している蠍という青年が、二十三歳という年齢になってもなお魚の家に引きこもって社会に出ようとしない。
 二人の関係が理解不能である。単なるご近所同士の関係らしい。魚一人の能力でどうにかできる話ではないんだから追い出せばいいと僕が忠告すると、魚は苦く微笑んで首を横に振るばかりだった。
「今すぐに困るっていう話でもないから。僕もちゃんと仕事してて収入があるし」
「でも、いつまで飼っておくんだ? そいつを」
「うん」
 それは回答につながらない苦痛の嗚咽につながってしまった。わからないならわからないとだけ言えばいいのに。
「それを誰にも訊かれたくなかったんだ」
「そんなこと言われてもなあ。考えるんだろう?」
「うん。でもやっぱり、水瓶ひどいよ。ひどい」
 泣きだした。大の男がよよとばかりに。僕は、精一杯この合理的な頭脳を彼の問題の解決のためにささげるつもりだったがしょっぱなから頓挫しかけた。人間の前にはいつも無能と無知とエゴが連帯をなして立ちはだかる。この愚かしい泣き虫が僕の友人である。最大限の敬愛をこめてそう言っているつもりだ。
「そんなに難しい話じゃない気がするのになあ。出たくないって、何かあったの?」
「今出ていくとみんなが喜ぶから嫌だって」
「困らせたいの? みんなを」
「たぶん。構ってもらいたいんだと思う」
 二十三でそれじゃガキだろ……と言おうとして、思考の上をよぎる冷たい風に胸をすくめる。つまり、脊髄反射で考えたあとから悲しいとか小憎たらしいとかいう感情がやってくる。十八歳から外で社会生活を送っていない人間が二十三歳で年相応の精神年齢になるはずがない。



 毎日最後の晩餐をやっているような、イノセントな生活がどうにか魚と蠍とを繋ぎとめていた。外部から手が入らない限り蠍は外へ巣立っていかない。五年前の事件に縛られて、一歩も動けないだろう。思春期の貴重な時間を彼は食い潰した。内面はともかく、社会的な思春期は彼の場合狭い一室か、せいぜいがご近所百メートルの範囲で既に終わってしまったのだろうと僕は考える。
 吹雪の八甲田山で起きた遭難のように、何度も同じ所を堂々めぐり……蠍はどこかでその作業の繰り返しに気づかなかったのだろうか。「これは何度もA点を通過しているループだ」と絶望しなかったのか。それともどこかでループに気づいて絶望したのだろうか。視野が極端に狭くなって、箱に入れられたハツカネズミのようにうずくまった?
 ハツカネズミと僕との差異は純粋に知能指数の違いだけと定義することもできる。実験用のハツカネズミに僕と同じだけの知能があればハツカネズミは生きて箱の外の土を踏めただろうから。蠍とハツカネズミの違いも、やはりそこだ。
 僕はついに宇宙に出るにまで至った人間の知能を、思考力を信じたい。



 八月の暑い日だった。直射日光に弱い三人が集まったせいかコンセンサスがすぐにとれ、近所の礼拝堂で僕たちはおちあった。別段宗教もないのだが、比較的静かで過ごしやすく何より蠍が場所に興味を示した。午後の礼拝堂は観光客向けに公開され重厚なルネサンス調の天使画で僕らを迎え入れた。
 蠍は僕の出現に警戒している。長い髪をすだれのように垂らしてうつむき、座った膝の上に乗せた手を落ち着きなくいじっていた。
「蠍君だっけ。五年前の事件のこと、聞いたよ。あれから君の調子はどうだい」
 二十三歳というには幼い顔が僕の顔を見上げた。圧力を帯びるほどじっと僕を見つめる挙動の不器用さが、大学でずっと研究をやってる連中に似ている。
 涼しかった。
「ずっと、君と話をする人間がいなかったんだろう。君が何を怒り何を怖がってきたか僕にはわからない。だから僕は感情以外のもう一つの力で君に触れてみることにした」
 蠍は僕に言葉を返す前に五秒ほど体を揺らして口の中に言葉を逡巡させた。はじめての言葉は掠れて高校生みたいだった。
「なんですか、それ」
「思考力。純粋にものを思考しているとき、僕と君はただ一点の点。ゼロかイチかのイチになるんだ。思考で掴んだ結果は感情を超えていけるだけの力を持つ。人類がこの世界で初めて持ちえた、唯一の突出した力だ」
 返事の言葉はすぐにはこない。蠍は僕の顔を見詰めたまま生真面目にこくこくうなずいて、「ぼく、馬鹿だけどいいんですか」と初めて自嘲気味な笑みをこぼした。
「君はハツカネズミじゃないだろう。……何かの例えじゃなくて、物理的にそうではないよな」
「はい」
「じゃあ、そういうことだ。ここにきて僕と話ができているだけで君はそれ相応の知能がある。余計な感情を挟むと混乱してしまう。それは力の使い方としてはよろしくない。
 君なりの思考の観点から、いまの状態を聞かせてほしい」



 神様。
 と、最初から丸投げする人間に神は視えない。神は僕たちを創造したあと、経典をDNAの塩基列の中に残して居なくなってしまった。感情、直観、感覚、思考。僕らは自らの能力を駆使していくつもあるルートの一つから神を掘り返す。

「この五年間、両親や、遠くの親戚や、友人たちを呪ってきました。事件っていうのは、クラスで飼ってたハムスターがいじめっ子に投げ飛ばされて頭ぶつけて、死んでしまったんです。それだけです。どうして引きこもったのかといわれてもそれは僕の精神的な弱さだったり、複合的な要因があったりで一つにはまとめられないと思う。ただ発端は間違いなくハムスターのことで、僕の精神は穴だらけのジェンガが重要なブロックを抜かれたときみたいに一気にバラバラになりました。
 学校はその年に卒業して、それから先生と友達には会っていません。僕は先生と友達のことをずっと恨んでました。助けてくれなかったって。五年間、思い出すたびに。親戚はみんな遠くに住んでました。年に一回電話はするけどみんな幸せそうで。僕は親戚たちのこともずっと恨んでました。助けてくれなかったって。そうしているうちに親も僕を魚さんに預けて離れていきました。僕は親もずっと恨んでました。助けてくれなかったって。年月がつのればつのるほど。

 でも、それはたぶん、水瓶さんの言う力を借りれば、僕の認識違いだったんだと思います。
 彼らは助けられるのに助けなかったんじゃない。物理的に僕のそばに存在しなかった。
 僕は五年間独りぼっちだった。

 彼らを憎んだのは、心だけでも彼らと自分は繋がっているという幻想に僕がすがったのです」

 蠍の抑揚の効いた声は僕の耳にも通りよく聞こえた。本来それなりの思考力を持つ彼が何度も激しい感情の罠に身をよじ切られ、思考が困難になるループの中で悶えてきたであろう様子が容易に想像された。
 蠍から少し離れた席で、魚が目を真っ赤にして呻きながら泣いていた。
「魚。すこし席を外してくれ」
「え? 水瓶、でも」
「君の涙もろいところも問題だ。彼は君が泣くと引きずられてしまうんじゃないのか」
 魚が目を丸くして蠍を見ると、蠍は困惑しながら僕の意見を認めるように軽くうなずいた。ごめんという言葉を飲み込んですぐに魚を守ろうとした。
「でも、魚さんは悪くないから」
「もちろん君の優しさも大事な要素さ。でも、それだけじゃ彼をまるまる抱き込んで駄目にしてしまう。僕はそれはよくないことだと思う」
 もうすこし、思考で蠍の内側をつらぬく。僕が穏やかに外への出口へ魚をいざなうと、魚は最後まで蠍のことを心配しながら礼拝堂の外へと出ていった。
 夕日にかわろうとしている高窓を見上げて蠍はゆっくりと深呼吸をした。
「どうだい。話してみて」
「はい。……本当に僕自身がただの点ひとつだったら、外に出て暮らす方法をさがすのがいいんでしょうね」
「うん。まあ、そうだね」
「水瓶さん。僕、人と話すの苦手で……。すごい、つかれました」


 - fin -

作品データ

初出:2009/8/10
同人誌『僕は水の中へは行けない/blue』収録(※同人誌はR18)
pixiv未収録