僕は水の中へは行けない

 誰も居ない海岸線に灯す照明なんて、そんな贅沢なものは五十メートルおきぐらいにしかない。俺は堤防の内側を自転車で飛ばしながら夜空を嘗める薄雲を見上げる。急に寒くなって、ここ数日で長袖なしでは外出もためらわれるようになった。勉強道具を押し込んだナップザックが背中で体温を溜めてくれるのが頼りだ。
 村が豊作で平和を迎えている中、俺は冬に受験を控えて高校最後の年を過ごしていた。村の面子は全然変わっていない。若干名出入りはあったが、それらはいつもこの村の雰囲気を変えるには至らないのだ。変化に対して怨念に近い拒絶があると思う。多くの年寄りがあまりにも長く同じ場所に居すぎて、彼らの保守的な無意識が集まった結果そうなる。自転車は人のない道をきっていく。薄暗い道が道路灯で何度も新しく照らし出されて、何度目かのときに遠くに人影が見えた。

 海際の石碑の横に座っている。ただひとり、凪の海を眺めている。近づくにつれそれが若い男のもので、しかもその場所にゆかりのある人物なのがわかってきた。〝”とその名を呼んでもよかったが俺はぎりぎりまでためらった。いつも万人に開かれているはずの彼の雰囲気が、今日に限っては海にしか開かれていない。
 かける言葉に迷いながら無視もできずに近くに自転車を停めると、水瓶さんは俺の姿に気付いてやや戸惑った表情を見せた。
「蠍くんか。こんな夜中にどうした」
「塾の帰りです。受験なんで」
「ああ、そうか。そういえばそんな歳だったね。本土の大学に行くの?」
「いや、まだちゃんと決めてないけど。いいじゃないですか今はそんなこと。そっちこそどうしたんですか」
「どうしたって……なんでもないよ」
 水瓶さんは一年前の儀式で友人だった人に先立たれていた。
 彼自身もともと他人から感傷的に見られることを拒む人だったと思う。儀式で友人が死んだ後も、彼は制度の無意味さを酷評こそすれ感情論を振りかざしたりはしなかった。この地方では飢饉や災害のたびに誰かが殉教して海に入水祈願するという儀式がいまだに続いているのだ。そこに水瓶さんが立てた批判も今年の豊作がはっきりしていくにつれ、村人たちのなかで訴求力をなくした。
 いまや、水瓶さんの友人──射手さんは、日常の中に死んだということで皆に処理されていた。
「射手さんを悼んでいるのかと思っていました」
「……」
「この前、一周忌だったから」
 石碑前に座ったまま俺を見上げる水瓶さんの沈黙は、俺という存在を試しているように見えた。俺は水瓶さんの論理を聞き入れられるぎりぎりの年齢だった。海風が石碑と俺たちの横を通りすがり、辺りの松林にまで吹き荒れていた。やがて水瓶さんの口が動く。
「さっきまで泣いていた。……そう言ったら、多分君らは大喜びなんだろう」
 拗ねている口調。彼らしいなと思った。すぐに立ち上がって俺から海へと視線をそらす。その後も静かな声色で喋る水瓶さんの風貌は、実年齢よりも数段老けていた。
「この村を出ていこうと思う。準備ができたらすぐにだ。遅くても一週間以内に。僕は口だけでなく実際に行動するべきだった。自分では散々動いたつもりだったのに、実際には口だけの男だった」
「出ていくってどこに行くんですか」
「決めてないよ。でも本土だ。この辺には二度と戻らない」
 石碑の前から堤防のブロックを降りる水瓶さんを俺はまだ堤防の上から見下ろしていた。灰色の砂を何度もさざ波が混ぜ返すような海辺だ。広大な暗い砂浜にところどころ埋もれたビンやゴミが街灯の光を浴びて点々と鈍く光る中を、水瓶さんは一人歩いていった。
 彼は感情論が嫌いな人だった。俺と違って、何でも一度は言葉にしようと試みた。
「射手は彼の宗教のために死んだ。いまやそれは明白なことだ。僕の説得の言葉は彼の宗教からくる絶望の深みにまで届かなかった。彼が生きている間に一度でも僕が泣いたら彼は踏みとどまったかな? 無理だな。何度も考えてきたが、僕は自分の感情が他人に与える影響力に自信がない。第一彼は、他人に救いを求められなかった。だから宗教に走ったんだ。宗教に走るのは隣人を誰一人心から信用できない奴のすることだ。あれは最下層の人間を救うために作られたシステムなんだから。
 僕は彼を理解できるか? 否だ。僕は神仏を信じることができない」
 海風を、細い身体で真正面から受けて切り分ける。水瓶さんはゆっくりと砂を踏みしめて海へと歩いていった。いつしかスニーカーに砂と海水がしみ込み、さざ波が何度も彼の足首をすくうようになる。俺は堤防の上から水瓶さんが暗い海に足を浸けるのを見届ける。水面に向けられた顔。もう彼が何を喋っているのかもよく聞き取れなかった。

「僕は水の中へは行けない。
 死んでも射手とは違う世界に行ってしまう。……愛していると、あいつは、ぼくに、言った。僕が無神論者だったのは知っていたはずだ。解き放たれたみたいに水の下へ沈んでいった……。僕の返事もきかずに。
 今でも自信をもって言える。この村の制度は完全な時代錯誤、間違いだ。だけど射手に関して、あいつが選んだ死について、僕は間違っていると断言することができるのか」



 薄い三日月が何度も雲の隙間を出入りしていた。
 遠くから見て水瓶さんの背中は、射手さんへの愛以外に何も表していないように見えたけれど、彼自身はみずからの言葉にこだわってしまって多分何も見えていない。水瓶さんは海に足首をつけたまま苦しそうに胸を押さえ込む。俺には背中しか見せず、人前で泣く術すら知らないでじっとそこに立ち尽くしていた。
 射手さんが海に入る直前に水瓶さんを見た時の、あの不思議な微笑みは俺もよく憶えている。愛してるよという言葉は友人へのそれだったのだろうか。それとも、性別を超えた愛みたいなものが射手さんにはあったんだろうか。水瓶さんなら最後にはそれに応えることができたんじゃないだろうか。実際には二人の間にそんな関係はなく、水瓶さんは射手さんの本当の気持ちを知らなかったらしいということがその場に居た俺にもよくわかったのだが。
 長いこと夜の海風にあおられて、体が冷えてきていた。このままだと俺も水瓶さんも風邪をひく。俺が一旦靴を脱いで裸足になり、堤防から砂浜まで降りて水瓶さんに帰るよううながしに行くと水瓶さんは俺の前で不恰好なつぶれた顔を晒した。
「こんなときなんて言ったらいいかわからないんだ。射手に。僕は馬鹿だ」
「愛してるって言ったらいいんじゃないんですか。それと」
 水瓶さんは俺を見つめて無防備に息を止めた。
「さよならって」
 びっくりして、一瞬間抜けになった顔に涙が、うるんでくる。俺は多分残酷なことを言った。やってしまったと思って口をつぐんでいると、水瓶さんは俺から顔をそらして空を見上げ、涙をこらえてどうにか精一杯虚勢を張ろうとした。
「そうだね。そうだ。僕は死なないんだから一旦さよならだね。なにも永遠の別れってわけじゃないさ。……本当は射手の身体はもう小魚どもに食われて朽ちているんだろう。ずっと前に別れは終わっていたはずなんだ。蠍くん僕はね、オカルトなものは大体嫌いだ。ああ本気で嫌いだよ。あいつを死なせたんだからね。もしかしたら僕はあいつとキスしたことがあったかもしれない。あいつの家で遊んでいて僕が居眠りをした時だ。自分でも眠っててどうにもよくわからなかった。
 僕と射手はすごく仲がよかったつもりだけど、今振り返ってみると僕はひどくあの男に愛されて、許されていたような気がするんだ。どうしてこう疎いんだ。もっと早くあいつにうろたえた面を見せればよかったのか。同性だなんて構わずにキスでもセックスでもすればよかった?」
「水瓶さん」
「さよならなんて早すぎる。知りたいんだよ。いまさら。でももう射手と話をすることができないんだよ。……」
 口を押さえ、それ以上何も喋りたくないという風に強く目をつぶる。水瓶さんは二・三度、そのまま大きくしゃくりあげた。喋れないということがどれだけ彼にとって断絶を意味したか。
 射手さんは、今の水瓶さんの姿をどこかで見ていてくれるだろうか。俺は水瓶さんの背中をさすってやるとしゃがみこんだ彼の頭を抱きこんで、周りの海や夜空や松林の陰に射手さんの姿を探した。



 一週間がたったころ、水瓶さんはこの村からいなくなっていた。
 単位を取り終わった大学からふっつりと消え、実家に戻らなくなったあとは住居も皆目わからない。村では水瓶さんの失踪が風のように口から口へ伝わり、彼が射手さんの後を追って入水自殺しただの、精神病院へ入っただの、村を見限っただのと根も葉もない憶測が乱れ飛んだ。噂で傷ついたのは水瓶さん自身より残された家の人々だった。特に弟の魚くんは水瓶さんがいなくなった後も家の前で誰かを待っていたり、海辺で石碑周りをうろつく姿がよく見受けられた。
 最後に石碑の前で別れたあの夜、水瓶さんが夜道を歩き去っていった時の固い背中からして俺は彼が生きて村を出たものと思っている。愛のために死ぬこともできなかった弱い背中。だけどあの背中は、生きている限りずっと射手さんを背負っていく。それでいいんじゃないかと俺は思う。
 ただ、ずっと待っている魚くんにはそれでは不憫だったから、一度話しかけた。彼が一人で石碑に座って遊んでいた時に。
「お兄ちゃんがね、帰ってこないの。どこ行っちゃったか蠍兄ちゃんしってる?」
「水瓶さんのこと?」
「うん」
「水瓶さんはね、射手さんと一緒に暮らすために人魚になった。……でも魚くんが大きくなったらちゃんと様子を見にくるよ。だから、それまでちゃんと待ってような」

 そんな風に。


 - fin -

作品データ

初出:2008/10/2
同人誌『僕は水の中へは行けない/blue』収録(※同人誌はR18)
いいね・ブックマークはpixivでもどうぞ