帰り道

 ずっとずっと同じ相手を観察しつづけていた人間にしかわからない変化というものがある。たとえば、授業中はノートの虫で通っていた気になるあいつがある日気が抜けたみたいに授業中携帯を取り出して、教科書の下に隠したそれをじっと見つめていたりすること。昨日自分がメールした時には怒ったくせに、何があったのだろうと蟹は思った。
 斜め後ろから覗く乙女の横顔(蟹はこの角度が好きだ)は携帯を見つめてぼんやりと、うっとりとしていた。表現は微妙だがうっかりしていたという言い方でもいい。色気なんかしらなかったモヤシみたいな顔が桜色に色づいてほのかな熱を帯びている。まばたきの数が少なくなって、視線で手元の液晶に映っているものを抱いているみたいに見えた。
 ──何だよ。
 ──何でそんな顔するんだ。何が映ってるのか知らないけど、お前にそんな顔させるものが映ってるなら僕が見てみたいよ。
「蟹ー。四十六ページの問二、答え板書してみろ」
 山羊先生の声にぎりぎり自分の名前で気づいた蟹は、「ああ、はい」と頭を跳ね上げて慌てて教科書のページをめくった。授業開始直前に解いておいた問題だ。助かった。彼は席を立って黒板に板書をして戻ってくるまでの束の間乙女のことを忘れる。席に戻ったあとに携帯を覗き込むチャンスだったと気づいたが遅かった。うっかりしていたのはお互い様だったらしい。
 好きになった相手をずっと観察し続けてしまうのはもう仕方のないことだ。と、蟹は思う。乙女が視線に気づいてか気づかずかこちらのほうを向くたびに胸が焼け付いて目をそらす。彼はとうとう今日まで乙女の観察をやめられないままここまできてしまった。
 目線が吸い寄せられるのだ。ときどき、やめたくて机の上にうつぶせたけど自分の心臓の鼓動が聴こえるばかりでどうしようもなかった。中学三年のみそらで女子じゃなく男子相手にそんなことになってしまって自分は死ぬことも考えた。だけど心臓がきついし、死んだら乙女に会えないからあっさり諦めた。多分自分は卒業までに乙女に告白して玉砕する。せめて玉砕して終わりたい。好きな気持ちを不完全燃焼のまま高校まで引きずりたくない。
 蟹は静かに深くため息をつく。それから思う。
 だいすきだ!……!!……!!! と学校の屋上から乙女に向かって絶叫してしまいたい。
 下からこちらを見上げる乙女の華奢な体格や、メタルフレームの眼鏡や、その先にある澄んだ切れ長の目が大きく開かれて戸惑う様まで想像できる。予想だけどたぶん、乙女は自分よりも臆病で、シャイで、そういう大げさともとれる行動は嫌うんだろう。だからこれは自分一人のわがままだ。自分は彼を捕まえて何がしたいんだろう? ただ一緒に居られればそれでいいのに。手をつなぐ空想だけでもその光量はかなり高くて、その先に待つキスはまるで光の壁が立ちはだかっているみたいにまばゆくて全然見えなかった。ましてカップルがするはずの性的なあれやこれやには実感がない。それは蟹自身の臆病な心臓のために分けて考えなくてはならない行為だと思っていたのかもしれない。
 悶々と考えているうちに授業時間は過ぎた。チャイムが鳴り響き、起立気をつけ礼から無軌道に散らばりだした生徒たちの中で、蟹は胸の鼓動を押さえながらまっすぐに斜め前の友人の席へと向かっていった。
「よ。さっきのヤギセンの指名はびびったよ」
 リアクションを求めて乙女の席の側面にしゃがみこむ。机にもたれた姿勢から友人の姿を見上げてみると、乙女はこちらと視線を合わせず体を硬くしていた。いつもならあるはずの馴れ合った返事もなく口元を引き結んでいる。崩れたリズムに蟹が動悸を感じながら眉をひそめる。
「乙女。……どうした?」
 なぜだろう。好きな相手が「閉ざした」とき、この年頃の少年は一瞬にしてそれを感じ取ってしまう。剥き出しになった胸の神経を抱えて蟹が息をつめていると、黙っていた乙女の頬はみるみる赤くなり、目が神経質にゆがみ、薄くあでやかな唇の端が痙攣して揺れた声を発した。
「コクられた」
 蟹の喉も凍りついた。大きく見開かれた目が、何度も瞬きを繰り返す。
「けさ、女子に。学校来る途中で」



 いつから好きになったかなんて、覚えていなかった。ただ気がついたら乙女がずっと近くにいただけで。出会ったのは高校に入ってからだし、毎日べたべたしていたわけでもないけれど、ずっとを信じるには半年あれば足りる。
 ものすごい量の雨雲が帰り道の空を翔けて遠くの土地へ雨を降らせにいこうとしている。雨を吸って濡れた土を踏みしめながら蟹は口を閉ざして暗い顔をしていた。空気が湿気をいっぱいに含み、吹く風が黒髪や開襟シャツまでもしっとりとくたびれさせて彼を憂鬱にさせた。
 乙女は何をうしろめたく思ったか、告白された経緯を一から十まで全部蟹にうちあけた挙句「でも断ったんだよ。他に好きな奴がいるから」と締めた。蟹が好きな奴の名前を聞き出そうとすると顔を真っ赤にして口をもごつかせ、急に怒りだして次の授業開始までつれなくそっぽを向いていた。次の休み時間も昼休みも。蟹は自分がこんなに意地悪く執拗に誰かをなじれる人間だとは思っていなかった。一瞬で理性のタガが外れたことにそのときは気づいてすらいなかった。
『僕にも言えないんだ。ふーん。僕ってお前の何なのさ?』
 馬鹿馬鹿しさと自分の愚かさに歯噛みしてしまうような問いかけ。もう嫌だ。それにはっきり答えもせず煙たがって手を振った乙女の態度にも怒りがつのって、下校時には口もきかなかった。帰り道で蟹は独りだった。
 ほしいものが、いつも手に入るわけじゃない。
 心の中は引き潮だった。質量を増した空洞に奥歯を食いしばり、「好きな奴って誰だよ」と渦巻く闇へ問いかける。ずっと側で見つめ続けてきたはずなのに、自分は乙女が好きだという奴の存在を知らなかった。手に入らないものがどうしても欲しかったらどうすればいい? 想いのこみあげるまま押し迫り続ければいいのか? 乙女は、それでも、あのメタルフレームの奥の目を細めて自分の腕をするりと抜けていく。今からそれが手に取るようにわかった。
(落ち着こう。僕は頭がおかしくなっているんだ)
 道端で制服姿のまま顔に手を押し当てる。目を隠して深呼吸する。
(そうだよ気のせいだったんだ。僕は恋を知らないから勘違いしているだけで、これは恋じゃないんだ)
 胸がざわめき続けるだけの何か。気のせい。心臓の仮病みたいなもの。……自分を戒めた言葉の直後にはもうまぶたの裏に乙女の顔が浮かんでいて愕然とする。乙女の顔の振り払い方がわからない。
 だれか、乙女の心を奪っている奴がいる。
「好きな奴って誰だよ……」
 ひとり生産性のない場所をぐるぐる巡る自分がいやで、蟹は自爆すると分かりきっているのに乙女に告白しようという気になっていた。不安なまま留まっていることができない。こんな時少なくとも自分で何か動いていれば気がまぎれる。自分の感情に素直になることは、この場合正義だと彼は思う。
 道端の歩道橋に駆け上って携帯を取り出す。電話にするかメールにするかとためらって、迷ったあとに乙女のナンバーをダイヤルした。側に誰かいたらこんな自分を止めてくれるのだろうかと思いながら突っ走ってしまう自分が滑稽だった。何回目かの呼び出し音のあとに、相手が通話に切り替えて声を発するまでの無音が横たわる。
『もしもし。乙女だけど、なに』
 乙女の声は不機嫌そうな調子を発していた。
 何だかもうそれだけで蟹は携帯を耳に押し当てて泣きそうだった。好きなんだから何でも言えばいいのに、乙女の言葉は無条件で蟹の心の奥深くへ切り込んでくる。感じすぎて何がなんだか自分でもわからなくなってしまう。
「乙女、いま暇? 大事な話があるんだけどさ、歩道橋の前まで来られる?」
『電話でできる話じゃないのか』
「電話じゃ伝えきれないと思う」
『……わかった。こっちもちょうど大事な話があったんだ』
 大事な話って?
 歩道橋の下を高速で通り過ぎていく車列の先を見通しながら蟹は顔をゆがめて微笑んだ。やっぱり例の女子とやらと付き合うことにしたのかな。だから僕とはあまり遊べなくなるって? そうだよな。学校じゃ切り出しづらい話だろうよ。
「わかった。待ってる」
 なるべくやわらかく通話を切ることを伝えて、電源ボタンを押した。そのまま歩道橋の端で階段に腰を下ろして待っていた。住み慣れた町の空をまるで初めて出会うもののように新鮮な気持ちで見上げながら。

 この世界で、昔から今まで、いくつの初恋が生まれては泡のように消えていったんだろう。誰も最初から失恋を覚悟して恋を始めたわけじゃない。大人たちは、こんなにつらい洗礼の儀式をいったいどうやって超えていったんだろう。
(恋じゃないなら泣く必要もないのに)
 授業中に携帯をうっとり見つめていた乙女の横顔が自分の知らない女の影と結びついて、そこに自分の踏み入れる隙間がないのを痛感した。視界がにじんだ。乙女が自分を見ていないからってどうしてそこで自分が泣くのか。そこまで理不尽に彼を求める自分は、一体なんなのか。
 もうすぐ乙女がここにきてつらい話をする。待ちながら澄んだ空気に動悸が重なっていくのを感じた。

 乙女がきたら好きだって言ってしまおう。

 十五分ほどして、乙女はやってきた。歩道橋の下に自転車のベルを鳴らして。蟹が気づくなり緊張で喉をすくませていると、彼は歩道橋の下に自転車を停めて制服姿のまま階段を上ってきた。
「話ってなんだ。蟹」
「……」
 蟹はしばらくまともに乙女の顔を見られなかった。今に始まったことじゃない。意識して自分を抑えていないと、見つめてしまう時間の長さで乙女に自分の気持ちがバレると思っていたからだ。乙女を見つめるときの自分の瞳孔の開き具合まで自覚できた。そんなだから、歩道橋の上で乙女と二人きりになるそんなささいな瞬間でさえも、蟹にとっては忘れがたい特別な時間だった。泣き出しそうに曇った空の色も下を走る車の音も乙女の着ている開襟シャツや学生ズボンの湿り具合も何から何まで脳みそに刻み込んでしまう。
「僕の話は、あとでいい」
「呼び出しといてなんだよそれは」
「そ、そっちの話が先に聞きたいんだよ。大事な話なんだろ」
 ようやくちらりと見上げた乙女の顔に結局視線が吸いつけられて、蟹は乙女の顔を見ながら息をとめた。思考回路にアイロンのスチームがあたっているようだ。乙女がまた困ったような顔で頬から鼻までを真っ赤に染める。なんでそんな恥ずかしそうな顔をするんだ。こっちが泣きたい。
「お、お前俺の好きな奴が誰か知りたいんだろ!?
「は!? ああ知りたいね。それはずっと気になってた」
「何言っても馬鹿にしないって誓うか!?
「馬鹿にするわけないじゃん。どう馬鹿にしろと?」
 言った先から涙声になりそうになるのをこらえようと、両手を腹の前で結ぶ。握り締めたシャツの布地にうっすらと冷や汗がしみている。大事な秘密を自分だけに聞かせてくれるのか。なんて光栄な身分だ。どんなにシュールな女が相手でもそれが乙女の選んだ相手なら自分は笑わない。ただ悲しい。
「俺はお前が」
 先走った言葉のあとに、耳が詰まったように風の音がする。蟹は乙女が風の音の向こうで一生懸命に発した唇の形を、コマ送りにするようにして必死に読んでいた。
 ──すき、なんだ。

 最初は実感がなかった。それが確率に直せば奇跡に近いような数字だということを、わかっていたつもりだったから。乙女が自分の気持ちをうちあけたあと、身を護るようにしてつんと視線をそらす。二人とも気分が浮ついていて言葉が頭からつるつる滑る。
「おま、あの女の子の話はどうなったんだよ!」
「だからそれは振ったって言ったじゃないか」
「そんなの納得いかないよ。授業中に携帯見てたじゃん」
「け、携帯?」
「僕がヤギセンにあてられてた時!」
「あれは……」
 赤い顔で口元をとがらせる乙女を見てようやく気づいた。世の中には好きな人間に逆につれなく当たってしまう人種というものが、本当にいることに。内心そんなものは都市伝説だとばかり思っていた。だけど実際には本当にいるのだ。そのようにして不器用に生きるしかない、無様な、滑稽な、愛すべき人種が。
 皆そうなのだ。自分たちは何もかも初めてで、恋がうまくいったとしてもうまい軟着陸のしかたをまだ知らない。
「あれはお前が昨日送ってきたメール」
 尻すぼみになった言葉に口をつぐんでうつむく。蟹はそんな乙女の顔を見ながら、やがて可笑しくなって首をかしげた。
「たいしたこと書いてなかったじゃん」
「うん。……おかしいか!? そんなの見てニヤニヤしてたら!?
 思わず首を横にふりながら笑いを止められなかった。おかしいやら嬉しいやらで。笑っているうちに涙が出てくる。いろいろな肩の荷が下りて、脳みそじゃないところから無性に涙がこみあげた。
「……蟹?」
 笑い続けながら蟹は顔を手で覆って泣いた。乙女が心配そうに近寄ってきて、そこで自分の気持ちをようやくうちあけた。掠れ声になってしまった。乙女は蟹の告白を聞くと舞い上がったのか挙動不審な顔できょろきょろと周囲を見回し、人気がないのを確認してやっとこわごわと蟹の体を抱きとめた。
「なに泣いてんだよ。泣くなよ。そんな」
 ふと乙女と蟹とで目が合う。二人の目がうっとりと夢見がちになって呼吸のリズムが揃う。気がつくと乙女は蟹の唇に自らの唇を重ねていた。蟹がびっくりしてそれを受け止めたかと思うと、遅まきに目を閉じる。かそかな、花びらのような繊細なやりとりだった。
 泣き出しそうだった雲は足早に通り過ぎる。歩道橋の上にいる二人は大きな街の中でちっぽけだった。泣き止んだ蟹が乙女と一緒に遠くを見つめると、そこには白んできた雲の切れ目から夕暮れ前の金色の空がのぞいていた。



 生まれて初めて人を好きになった。それだけの、ありふれたおはなし。


 - fin -

作品データ

初出:2009/7/7
オンラインアンソロジー企画「星座アンソロジー」参加作
同人誌『僕は水の中へは行けない/blue』収録(※同人誌はR18)
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