僕と先生

 朝方の、もやが辺り一面を覆う芝生の上で彼は寝ころんでいた。素足で、朝露に濡れるのにも構わぬ様子だ。広い芝生地帯の端にはなめし革のサンダルが脱ぎ捨てられている。彼が身をうずめた草のすぐ側で丈の短い若草の端へと虫が登る。彼の眼はその虫の褐色を縫いとめ、その先に広がる朝焼けの空を映しこんでいた。
 虫は彼の眼の先で好きなほうへ羽ばたいていってしまった。僕は僕で、そんな彼の夜を吸い込んだみたいな髪の色を視界に認めて”綺麗だな”と思っていた。背の高いところも、骨ばったくるぶしも、粘りつくような腰のラインが湿った綿のシャツから透けて見えそうなところも。
 仮に、僕だけの先生と呼称することにして、先生はこのところ大分安定してしまっている様子だった。実際にはたかだか二十代中盤の若者なのだけど。実年齢は僕のほうが四歳ほど高くて、だから彼の世話役に選ばれた。朝方芝生に寝ている程度のことなど奇行と呼ぶに値しない。先生は思考と瞑想に耽るためなら何でもする人だ。
「水瓶先生」
 なるべく穏やかな声で彼を呼ぶと、彼ははっとしてようやく自分の周りにはりめぐらせた膜を破った。身を起こしながらこちらを見るまなざしがうろたえている。素直な様子に僕の胸もつい優しくなった。
「どうぞ。観察しててください。その程度で驚く僕じゃありませんよ」
「あ、いや……魚さん、すいません。原稿、まだ、できてなくて」
「うん。〆切だったら気にしなくていいですよ。いいものを書いてもらうことの方がよっぽど大事ですから」
 先生の表情が心苦しそうに変わる。
 ほんとうは、二人でずっと穏やかな世界に居たいと思うのに、どうして現実が絡まってきてしまうんだろうなあ。まだ車の音もなくて鳥や虫たちの声が聴こえる頃合いだった。幻想は、あくまで先ず現実ありきで、傷つけられる対象としてしか存在できないのだろうか。だから綺麗なのかな。僕と先生と二人、沈黙の中にひっそりと守るのが精いっぱいな代物。そういう領域。
 先生は僕と寄り添って気まずく体操座りをしたかと思うと白くなった素足を見つめたまま膝の間に頭をうずめていた。
「俺、もう、書けないかもしれません」
「……どうして?」
「なんか、魚さんが側にいてくれるようになってから、落ち着いちゃって、いいやって。……前に出した長編は売れたでしょう」
「うん。水瓶先生はすばらしい才能を持ってるって、僕にもわかりましたよ」
「いや……」
 目を伏せ、押し黙るすがたに生来の寡黙さが漂う。若者が元から持つ恥じらいの表出なのかもしれない。元々ものを話す前に口中で吟味する時間が必要な人だったのを忘れていた。
 先生の文脈が完結するまで待つつもりで、僕は呼吸する空気の温度を確かめていた。
「あれで、あの長編で売れるようなネタは最後だったと思う。僕は自分の切実さを全て叩きつけるつもりであの長編に向かっていました。何も伝わらない、自分の抱えてきた思いや、使命を、表出せずには生きられないという切実さがあったから俺はあれを書いたんです。
 書かないと生きられないと思っていた。だから書いたんです。そして死に物狂いでそれを出版できる場所を探して、魚さんのいる川田出版へと辿り着いたのです」
 結果として先生の本はそれなりに売れた。不況で縮小の一途を辿る出版業界の中でも恵まれた船出。編集者として携わった僕には誇らしかったが、最初のスタートが順行だったことが先生の創作性には逆によくなかったようだ。
 前作を書き終えてからというもの先生はすっかり憑き物が落ちて、新天地にきた人間のような顔つきで世界を見ている。
「変なんです。死ぬ前の人みたいに欲望が鎮まって穏やかになっていく。毎日そうなっていってる。不幸になりたくないんです。このままずっと、細い印税稼ぎを続けながら魚さんと穏やかな時間を過ごしたい。それが俺の精神にとって一番平和なんだって、思い始めて。とうとうそれが創作者としての情熱を越してしまった」
 若葉のような目で広く風景を見つめる。厚めの唇がふるえ、僕と同じ朝の空気を吸い込んでいる。みるみる空が明ける。僕が空を見上げて「きれいだね」とつぶやくと、先生はうなずきながら裸足のまま、僕の前に身を乗り出した。
「俺は、金を稼ぐためには、とことん書けない人間です。もう一度書くためにはたった二つしか手段がない」
 ああ、とても真摯な、まだ若い。
「二つ?」
「恋をすることです。もしくはもう一度不幸になることだ」
「誰を相手に?」
 尋ねる僕の眼の色は答えをもう知っていて、そのまま伸びてくる彼の手を難なく受け容れた。彼の手が僕の頬に触れた。瞼を下ろすと唇の上に熱いもう一つの唇が重なり、先生は僕を芝生の上へ押し倒して、決して軽くはない若い男の体重を重ねてきた。
 吐息が荒かった。先生は丁寧に僕の上唇を吸い、下唇を吸い、濡らしながらおそるおそる初めての舌を割りいれ、僕が口吸いを受けながら彼の湿った髪を撫でてやると安心したのか感動で露骨に下半身を熱くし始めた。
 年上の僕に必死に尽くそうとする、そのひたむきさ加減が好きだった。口づけの合間に唇を濡らしながら夢中でささやいてくる。
「必ず、幸せにしますから。魚さんを俺が、絶対。絶対……」
 呼気が熱い。彼自身が達するまで執拗にささやき続けてくれる。
 おそらく客観的に見て恐ろしく背徳的な恰好をしているなと思いながら、僕は彼の慌ただしい手でひとつひとつボタンを解かれた。わいせつなモノも見えていたが不潔には感じなかった。本当は僕の方が止めるべき立場だったのにな。彼の勢いがあんまりひたむきで、止めたらかわいそうだと思ってしまったのもよくなかった。
 抱かれたまま朝空の中に漂う。抱かれる側になると意識が剥がれて空を飛べるのだと初めて知った。傷つける外部の存在がない限り僕と先生の関係は夢のように良好だった。


 - fin -

作品データ

初出:2010/4/-
同人誌『Silent and Talkie/僕と先生』収録(※同人誌はR18)
いいね・ブックマークはpixivでもどうぞ