Silent and Talkie

 軍靴を履いた足が土ぼこりの巻き上がる地面を踏んだ。
 喘ぐ喉が渇いて焼け付くようだった。音は聞こえない。爆弾の衝撃波が鼓膜を破り、耳から垂れた血が首を伝ってコートの下の軍服に吸われる。
 男は歯を食いしばり、ぶるぶると人間の限界に近い力を振り絞って重いトランクを引きずる。中にはこの先の街でたった数名の負傷兵の命を繋ぐことしかできぬ、だが必要不可欠な医薬品類が入っていた。
 遠く街から上る噴煙の上に雪が降り始めていた。耳をやられ音を奪われても倒れるわけにはいかない。ここまで自分を組成してきた血肉と国家。この存在の誇りにかけて。

 倒れるな。倒れれば屍。もはや死体など道端の土嚢に過ぎない時代の塵と化すだけ。



 大陸をわたる数カ国間の大戦が続く中、ゾディアック国の西域にある都市・アスクレピオスでは連合軍の敷いた包囲網に対し過酷な防衛戦を強いられていた。今や連合軍の軍勢はアスクレピオスを三方から包囲し、唯一残された補給ルートも高射砲や空からの爆撃によって壟断されかかっている。
 大戦も末期、現場を統括する獅子中将に軍本部から通達された命令は「現地死守」。
 ──最後の一兵まで国家と国王のために戦い、一切の降伏を受け入れないとするものであった。



 拠点に使っている市庁舎の建物にはレンガの隅々にまで死臭が染み渡り、その上からさらに運び込まれてくる負傷兵たちの血の臭い・膿の臭い・汚物の臭いで鼻が麻痺するほどの悪臭を漂わせている。
 トランクを引きずった男はついにその拠点まで辿り着いた。音はやはり聞こえない。街の外周まで来たときに連合軍に見つかって撃たれかかり、ぎりぎりのところで仲間に助けられて命からがらの風体で運び込まれた始末だった。
『耳が聞こえないので筆談で失礼します。
 自分は第二後方支援連隊所属、水瓶軍曹です。医薬品をお持ちしました』
 筆談でそれだけ伝えた。野戦病院と化した軍事拠点の中を走ってきた眼鏡の男が水瓶に近づくと折り目正しい強烈な敬礼をし、重いトランクを持って奥へと走っていった。軍医の下で手伝いをしている乙女少尉だ。この拠点の面子とは補給の途上何度となく顔を合わせ、人によってはその死を伝え聞いてきた。
 耳を傷つけて鼓膜を破った程度では手当ての順番は後回しになる。この拠点の惨状を知っている水瓶はそれで顔色も変えない。彼が役目を終えて一旦弾薬の入った木箱の上へ腰を下ろすと、今度は大柄な男が廊下を走ってきて水瓶にくってかかった。物資管理担当の牡牛大佐だ。
「────」
 一旦首をかしげた後、筆談でようやく意志の疎通がなされる。『他の輸送車はどうなった。食糧は?』水瓶は牡牛の問いかけに対し、喪失しかけた記憶を振り起こして自分に残された仕事を思い出した。
『補給部隊は郊外二キロほどの地点で爆撃を受け壊滅しました。輸送車は横転もしくは炎上。横転した車体からは物資が回収できる可能性がありますが、危険です』
 牡牛は拳を腿に叩きつけて歯噛みした。拠点の外には雪がちらついている。牡牛は鉛筆を叩きつけるようにメモを書く。
『雪が染みたら残った物資も配給できなくなる。回収しに行かせるから案内してくれ。地図をくれるだけでもいい』
 メモを差し出す牡牛の手は粉塵に汚れ、あろうことか骨が浮き始めていた。干ばつの土地を耕す栄養失調の水牛を彷彿とさせる。この一ヶ月でなんと激変したことか。水瓶はメモの空いた箇所に地図を書いて爆撃に気をつけるよう再度申し送ると、走っていく牡牛の背中を見送って手当ての順番が回ってくるのを待った。

 砲撃の振動が地面を介してここまで伝わってくる。幾昼夜にもわたって続く砲撃や爆撃がたまに市庁舎の近くの建物を破壊し、硝煙の匂いが混じった噴煙が中へ入ってきて傷ついた大量の兵士たちの傷口を広範囲に汚す。医薬品、食糧、水、全て枯渇していた。動けないレベルまで負傷した兵士たちの三十パーセント以上がその後の感染症で為す術もなく死んでいった。
 音の無い世界で、兵士たちが何かの音に気づいて道をあける。水瓶が顔を上げると双子がほとんど絶望的な(頭部が削れていた)兵士を担架に乗せ、最小限の指示を飛ばしながら奥へと運んでいった。



 仕事は細分化されている。極限状態の中、兵士たちが混乱せぬようにだ。その中でも瞬間的な機転を必要とする衛生兵として双子は戦場と市庁舎とを往復していた。
 人間として生存が不可能に近い損壊した肉体を、できる限りの手際のよさでそれ以上壊さぬよう医者のもとへ運んでいく。何度も壊れた人間を運ぶうちに自らの感情もまた停止し、水面下で破壊された。今の双子にとって負傷兵の運搬作業は壮絶な喜劇の繰り返しだ。

 手術室からは阿鼻叫喚の叫びがいつも聞こえてきた。物資から麻酔が消えた時点で手術は原始的なレベルにまで落ちている。薄暗い部屋の中に限界まで光が集められ、その下で他の兵士たちに押さえつけられながら負傷した兵士が生きたまま腹をさばかれている。医師の手が溢れる血液で赤一色に濡れる。
「新規だ。爆撃による左前頭部損傷。意識混濁」
 双子が怒鳴ると、医師の蠍は目の前の患者を切り刻みながら振り返りもせずに「そこに置いとけ」と怒鳴り返す。双子は死体が搬出された台にかたっぱしから運んできた患者を置き、その死を見届けることなくまた外へと飛び出してゆく。
 一日中、生命活動以外の時間は半永久的に死にゆく生存者を運び続ける。繰り返し。

 出て行く間に通る市庁舎のホールには大量の怪我人と死体が床を埋め尽くしている。双子は人間の死ぬ瞬間を見る暇がない。いつも死にかけと死体ばかりだ。ホールの中では乙女が分配された医薬品を手にがさがさになったノートをめくり、できるかぎり効率的に薬を投与して回る。一日どころか三時間で全て無くなってしまう。ノートをめくる乙女の手はここ数日痙攣が止まらない。それでいて怪我人に添え木を当てるときは震えがぴたりと止まり、機械のように正確に動くのだ。

 喜劇だ。みな、なぜそこまで身体部分がえぐれて生きているのだ。足をもがれた蟻が地面で狂ったように暴れた挙句、気がつくと行方がわからなくなっているように。

 双子は負傷兵のために笑いながらジョークを口ずさむこともできる。笑っているうちに本当にえぐれた人間どもがおかしく感じられて、気がふれたように笑って、そんな状態を続けているうちに手が勝手に拳銃を自分の口へくわえさせたがる。歯止めのきかぬ精神に自分の手がとどめを刺す日もそう遠くはないだろう。
「すてろ。そいつはもう死んでる」
 手術室の中から蠍がしゃがれた声で怒鳴るのが聞こえた。双子が振り返ると、従軍神父の射手が首から下げたロザリオを血塗れにして他の兵士と共に死んだ兵士を搬出していくのが見えた。
 人間の死ぬ瞬間を見られる蠍や射手が、いっそうらやましかった。自分には死にかけの人間しか見つめることが許されないのだから。気が狂うほど延々とした頻度で。



 乙女の手で頭に包帯を巻かれながら、水瓶は双子が無表情でまた外へ出ていくのを見送った。本人は意識していないのだろうが双子の歯の根はがちがちと痙攣している。袖からのぞいた手首が軍人のものとは思えぬほど細かった。みな病的に痩せてきている。補給がことごとく絶たれ食糧の配給が滞っているせいだ。
 乙女は包帯を巻き終えると水瓶の肩をぽんと叩き、視線をあわせて水瓶にうなずくと休む間もなく次の負傷者の手当てをし始めた。手当てされる兵士たちは乙女の手の温もりに故郷を思い出し、ときに何かを喋るようだ。乙女はそれを黙って聞いている。なんという真摯な仕事だろう。邪魔をするのもためらわれ、水瓶は礼代わりに頭だけ下げるとその場を後にした。

 寒い。

 ──寒くないさ。やっこさんが毎日のように街を焼いてくれるからな──

 兵士たちの生きる力がスラングになってあちこちから飛び出しているのか。今の水瓶には何も聞こえない。兵士たちの叫び声や怒鳴り声、スラング交じりのやけっぱちの笑い声……何も聞こえなくなった今はただひたすら寒くてたまらない。
 雪が降り出すと市庁舎の中には凍りつくような湿気が溜まる。燃料になるものは町中の家屋から略奪され、取り残されたままの一般人たちが街の中や外や地下で夜毎凍えて死んでいった。

 ホールの中では射手が汚れた衣服を気にも介さないで病人の傍らにひざまづき、聖書を片手に何かを口にしている。長くない者たちばかりだった。水瓶の目からではもうそれが生きているのか死んでいるのかもわからない。包帯の下で傷口を膿み腐らせ、虫がたかり、苦痛に呻いているかもしれないもの。耳がまともなら自分は何を聞いていただろう。ホールにうずまく負の呻きの渦か、射手の祈りの言葉か。
 やがて射手は目を伏せたかと思うと病人の目をその掌で閉ざしてやり、深くうなだれて首から下げたロザリオを握りしめ、一時神へ祈ったあと、兵隊に声をかけて死体を外へ搬出してゆく。

 別の場所では右脚を失った男が別の病人の枕元に座り、薄暗いホールの中でひたすら手紙を書いている。こちらは蟹といって水瓶もたびたび顔を合わせる男だった。右脚を失って戦場に行けなくなり、かといって脱出もかなわなくなった彼はホールに残って代筆の仕事をしているのだ。腕が折れるまで手紙を書き続けるつもりらしかった。
 水瓶は彼の側に立ち寄ると紙を一枚借り、自分の耳が聞こえない旨を告げた。
『一晩休んだら補給のためにここを出ます。手紙があるなら下さい。僕の命ある限り、責任をもって運ぶ』
 蟹の心にまで寄り添ってくるような優しい目つきがやさぐれた戦場のなかで澄んで見えた。彼はやがて水瓶に書き溜めた手紙を託すと、残り少ない紙を惜しんで自分の甲にペンを走らせた。
『済まない。あなたも酷い怪我だ。どうか向こうに辿り着いたら休んでくれ』
 水瓶は微笑でもって蟹に応えた。戻っても内地に帰れるかどうか怪しい。水瓶自身もまた撤退を禁じられた最前線の兵士の一人で、それ以上の権限はない。

 人間は誇りだけでどこまで戦い抜くことができるのだろう。
 水瓶にはもう民を見棄てた国王のために戦う気など毛頭無い。ただ奪われそうになっているこの国を守りたくて、この国の人間としての誇りを持ち続けたい一心で戦っている。指令があれば何度でも補給物資と手紙を手に命がけで戦地を往復する。



 噴煙を巻き取った雪が街にうっすらと積もる。水瓶は怪我人たちのうずまくホールを出て今度は指令本部へと向かう。通信回路が確保されているかどうか確かめるためだ。行きは物資補給、帰りは伝令と水瓶には休む暇もない。

 指令本部は市庁舎のさらに地下、高級武官たちのための小さなサロンの、さらにその奥にあった。ここ数日は絶え間なく砲撃の地鳴りで砂が降っている。地下なのに部屋の中にビニールの天幕を張る始末だ。そうしなければ中にいる人間の健康が保てないのだった。

 水瓶は着るものも取り合わず警備の少年兵に案内され、天幕の中へと入る。天幕の中には豪奢なマホガニーのデスクに腰掛ける獅子中将と通信兵の天秤、そしてもう一人中央から派遣された監視のための親衛隊──山羊と呼ばれる男がいた。
 上官に敬礼するとすぐ、獅子の喋る内容を天秤がワープロで打ってよこした。
『応援部隊を要請しているが、隣の街の様子はどうだった。兵隊と名のつくものは来られそうなのか?』
 水瓶は怜悧に首を横へ振る。「だろうな」と獅子が漏らしたのが唇の動きから読み取れた。隣にいる山羊のお陰で言論は規制されている。獅子が一言でも国王を侮辱するような言論をとれば、この親衛隊の男は直ちに獅子を射殺するだろう。
 水瓶は獅子が天秤に文書を作らせる間その場に直立する。やがて獅子が彼に持たせた文書はこの拠点の困窮度を示していた。

 残存食糧、十日分。これ以上の現地徴収は不可能。
 医薬品は全てが不足。
 弾薬も底をつきかけている。
 石油・石炭の残存なし。現在は廃材を燃料にして辛うじて暖をとっている。
 このまま積雪の時期に入れば一般市民及び兵士から凍死者・餓死者が大量に出るのは避けられない。
 大至急応援か撤退命令を請う。

『同じ内容をモールス信号で本部にも伝えてあるが物資が来ない。貴官には夜半までの休憩のあと、この文書を持って直ちに出発してもらう。ご苦労だった』
 水瓶は機械的に獅子へ敬礼を返した。獅子の顔は無精ひげを剃りもせずやつれている。苦渋に漬かりきったその顔は脇の山羊が狂信的な穢れなき表情をしているのと対照的だった。
 天幕を出て地階へ上ろうとしたところに、今度は物資回収から戻ってきた牡牛が鼻息を荒げて飛び込んでくる。



 牡牛は護衛兵の制止もきかず天幕に飛び込む。中では獅子が何かを予感した顔で静かに待ち構えていた。
 牡牛の手が血塗れの軍服のタグをマホガニーの机に叩きつけた。
「撤退命令を出してください。もう限界です」
「上層部からは撤退不可の命令が出ている」
「このまま全滅しろということですか……!」
「……」
「食糧を回収する過程でまた兵が死んだッ!! このタグはね、牡羊っていう生意気な二等兵のやつですよ。何人もの仲間が死んでった中でここまで生き残っていた運のいい奴だった。それもとうとう死にましたよ。栄養失調で速く走れなかったせいでね。
 雪が染みちまった食糧は今晩オートミールにして全部食わせます。オイルまみれの食糧は燃料にしますよ。だがそれ以外はほとんど残らなかった!
 今撤退しなければ隣町に辿り着くまでに餓死する人間が出ます! もう一刻の猶予もならんのです!!
 骨の浮いた大柄な身体から命を燃やし尽くして大声をあげる牡牛を、獅子は静かに、天秤はひび割れそうな顔で見つめている。横から山羊の妄信的な声が飛ぶ。
「国王陛下の臣民なら国家のために命を投げうつのが当然だろう」
「……!!
「その二等兵には天国で恩寵と昇進が与えられる。貴官はむしろ部下の天国での昇進を喜ぶべきだ」
「喜べるかっ!!
 牡牛が山羊の身体に掴みかかる。親衛隊独自の清潔な制服に身を包んだ山羊は牡牛の猛攻にも顔色を変えなかった。



 水瓶は鬼気迫ったものを感じて地下から上へと立ち去れずにいる。ビニールの天幕の中で牡牛が山羊に掴みかかって何を叫んでいるのか、何も聞こえなかった。そこだけ歪んだ透明な像が水瓶に密室の中の不吉な世界を想像させた。

 ──その親衛隊の男に食って掛かっては駄目だ。親衛隊の連中はみな狂信者なのに。

 ビニールの中で牡牛が叫んだ何かに、山羊が顔色を変える。差別的な色合い。彼の懐から取り出された制式拳銃が牡牛の懐に潜り込むのに何の迷いもなかった。
 一瞬ビニールに大量の流血がへばりつく幻覚が見えた気がした。
 身動きが取れない。その場でたちすくんでいると、しばらくして拳を震わせた牡牛が真っ青になった天秤の手で、無事に、外へと追い出されてきたのが見えた。
 生唾を飲み下して大きく息をつく。同国人同士の射殺など見たくはなかった。獅子中将がうまく山羊を制したのだろう。水瓶は外に出てきた牡牛の顔を見ると、その悔しくてたまらなさそうな様子にやりきれぬ気持ちになった。



 水瓶は兵卒用のベッドルームをあてがわれ、夜半まで泥のように眠る。絶え間ない揺れにも構っていられないほど疲れ果てていた。日が落ちたらまた隣町に向けて出発しなければならない。なるべく爆撃を避けられるよう、夜闇の中を忍んで行くのだ。

 補給部隊の他の生き残りは無事にこちらの街か、引き返して元の街に辿り着いただろうか。多くの人間をあの野原に放置してきてしまった。倒れて地面を血に染め、今は降り積もる雪の下で静かに眠っているだろうか……。

 目を閉じてからあっという間に時間を削り取られる。水瓶はその時間がくると目を覚ました。体が鉛のように重い。心ばかりが行かなければと使命に燃えながら、体がついてくるまで若干の時間がかかる。
 包帯を巻かれた頭をゆっくりと横へ倒すと、同じ部屋の一角で寝ている男の手が激しく痙攣しているのが見えた。



 双子の手は静かな場所でひとりでに痙攣している。戦場の中で繰り返し怪我人を運び続ける業務に、手が限界を訴えていた。明日も起きてすぐ戦場に飛び出す。すぐに死にかけの人間と向き合う。明日運ぶ奴はどこがえぐれているかな? 意識がなくなりかけているあの目に、どんなジョークを言って励ましてやろうか?
 手ががたがたと震えて止まらない。逃げるわけにはいかない。蠍が不眠不休で一刻を争う患者を手術し続けているように。乙女や射手が不眠不休で他の病人や死人たちに向き合っているように。他の兵士たちが不眠不休で死地に赴いているように。自分だけ、逃げるわけには。

 部屋の中にランプを下げた蟹が松葉杖をついて歩いてくる。彼は手紙を書いて欲しい人間がいないか、兵士たちの部屋も回っているのだ。やがて彼は片隅で震えている双子の手に気づく。彼は重い松葉杖を動かすとそっと双子のベッドまで歩いていって、ベッド脇に座ってから何も言わずにその手を握り締めてやる。

 双子は驚くと静かに手を握る蟹の顔を見上げ、涙ぐむ。自制がきかなくなり、気がつくとたよりなく片脚のない男の懐にすがりついて身を震わせていた。蟹は何も言わなかった。黙って双子の頭を優しく撫で、彼が声を殺した悲鳴をあげるのをきいていた。
 もういやだ。もうあんなおそろしいものを見に行くのはいやだ。誰か聞いてくれ。俺がこの目で見続けてきたものを。もういやだ。もういやだ! もういやだ! もういやだ! うちにかえりたい。もういやだ。うちにかえりたい……。

 泣くと余計につらいからか、蟹の涙は枯れている。彼とて優しく囁いてやるのが精一杯だった。「あんたが助けてくれなきゃ俺は生きていなかったよ」。……蟹は幼子のようになってしまった双子にせがまれるがまま、ベッドの脇に松葉杖を置いて双子と同じベッドの中に入っていった。



 薄闇越しに一部始終を見ながら、水瓶は彼らを咎める気にはなれなかった。双子はあの最も過酷な仕事に従事するには、多分、本人も思っていないだろうが優しすぎたのだ。
 彼が自殺しないで良かった。
 そう思う。音の無い世界でも彼らのやりとりは水瓶の心を打った。

 やがて二人が同じベッドの中に隠れたころ、あどけない少年兵が水瓶を呼びにきた。水瓶は立ち上がって歩き出す。あくまで双子と蟹のことは他人に気取られないそぶりをしながら。

 市庁舎の外には雪が降っていた。音の無い雪は見ていて怖いぐらいだ。耳が聞こえない水瓶のために、牡牛は兵士の中から一番年下の魚という志願兵を引率につけてくれた。
『もうこの街は長くない。いずれ今よりも、もっとひどい地獄が広がるようになる。
 引率を一名つける。隣の街についたらこの少年に、軍を外れてもっと内地へ向かうよう説得してくれ』
 水瓶は牡牛の顔を見上げる。牡牛は全ての事情を知り尽くしている顔でじっと水瓶と少年の姿を見つめていた。牡牛自身はぎりぎりまでこの場所で戦う気でいるのだろう。獅子や、周囲を説得する役目が彼には残されている。
『わかった。少年を離脱させたら、必ず物資を持って戻る』
 水瓶の返答に牡牛は口の端を吊り上げて微笑んだ。戦場で余計な儀式は不要だ。彼は在庫の中からなけなしの食糧を彼に持たせると、市庁舎の裏まで二人を送り届けてくれた。
 水瓶は牡牛と最後の敬礼を交わすと魚に手をひかれ、雪の中へと踏み出す。息が暗闇の中に凍って消える。終末のような夜だった。草陰に隠れては地面を湿らせる粉雪を踏み、冷たい耳の痛みを感じながらひたすら歩いて街から離れてゆく。

 何百メートルか離れたところで雪がオレンジ色から赤へと光る。水瓶が音の無い世界で振り返ると、夜にまぎれた連合軍の爆撃機がアスクレピオスの街を爆撃していくのが見えた。
 自分の前を行く魚が呆然として空を見上げ、思わず来た道を戻ろうとする。水瓶は一瞬思考をとめかけ、はっと我に返って魚の手を掴んだ。止められた魚が自分に向かって喚いている。爆弾が市庁舎の辺りにも落ちたと言いたいのだろう。
『だめだ。それは僕らに託された使命じゃない。僕らは行かなければならないんだ。
 何としても生きて次の街まで辿り着いて、役目を果たせ』
 次に水瓶が物資を持ってくるまでに、何人が生き延びているだろう。彼らは望み薄い指令を待ってあの場所で戦い続けるだろう。最後まで、仲間の誰かが助けにくるという望みを胸に抱いて。

 ──必ず戻ってくる。
 水瓶は決意とともに遠く燃え上がるアスクレピオスの烽火を見上げた。そうして街の姿を瞼の裏に刻みつけると街に背を向け、魚を連れながら決して振り返らずにまっすぐ次の街へと歩いていった。


 - fin -

作品データ

初出:2007/10/27
同人誌『Silent and Talkie/僕と先生』収録(※同人誌はR18)
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