なんて深い空

 一匹だけ飼っていた猫が死んだ。
 カワタというキジトラの猫だった。たかがペットのことで……という人もいるかもしれないが、独身で七年ほど飼っていた。大切な友人を亡くしてかつてない悲嘆にくれていた俺はバーの飲み仲間たちの目にも憔悴しきって見えたらしい。彼らは俺に長年とっていなかった有給休暇をとり、今は山奥のログハウスに住む友人に会いに行くようすすめてきた。そいつも恋人と死別したことがあるというそれだけの理由で。
「蠍のやつ、こっちから声かけないとまるで街に下りてこないからさ。ちょっと様子を見てきてよ」
「うん、行ってきたらいいよ。乙女も山の空気を吸ったら少しは元気になるかもよ」
 阿呆かと思う。山の空気で心が癒えるならみんな病院じゃなく山のほうへ行くだろう。バーのカウンターで慰めてくれた天秤と魚の言葉に思慮がないと思いながら、同時に気遣いも感じられて息が詰まった。蠍が山にこもるようになったのはきっと人間に会いたくないと思ったからだ。長いこと可愛がってきたものを喪った時に味わうこの畜生のような無力感。そしてそれを埋められない膨大な他人の群れへの絶望。
 普通の人間に会うのがひたすら苦痛でならない。



 蠍の経営するログハウスまでは、電車を乗り継ぐ時間より駅を降りて車に乗ってからの時間のほうが長かった。4WDをまわして駅に俺を迎えに来た蠍は、がっしりした身体を群青のセーターに包んで、黒髪と日焼けの折り重なった褐色の肌に長い高山生活を匂わせていた。
 車を降りるなり血の気のない俺に向かって静かに笑った。そうだこういう笑い方をする奴だった。
「随分久しぶりだ」
「久しぶりだ、じゃない。暢気に笑いやがって。バーの連中のことを忘れたのか。いつ顔を出すんだ」
「乙女さんは変わらないなあ。そうやって挨拶代わりにダメ出しやってたほうがあんたらしい。……でも、なんかちょっと元気がないようだね」
 俺の背中からは喪失の空気でも滲み出ているのだろうか。ぼうっとして縁石にでも躓きそうな俺を、蠍はあまり物言わずに荷物を持つ形で迎えてくれた。昔からそうだが日常的に力仕事をこなすのに向いた腕の太さだった。俺が引きずっていたスーツケースを軽々と持ち上げてトランクに入れてしまう。
 駅からどんどん山道を登っていく車の中で、俺は窓ガラス越しに開けていく空を眺めていた。
「カワタが死んだ」
「魚から聞いた。あのキジトラな」
 写真を見せてもらってもいいか、と蠍が穏やかな口調できくので、俺は携帯を開けてすぐさま目に飛び込んできたカワタの待ち受け画像を蠍に見せた。
「可愛いな」
「ああ。可愛かったんだよ」
 俺も上で一匹猫を飼ってるとつぶやいたきり蠍は無言で運転に集中していた。ときどきカワタのことを聞かれた。好物が何だったとか、日中仕事に行ってるときはどうしていたかとか、一緒に他の猫は飼っていなかったのかとか、そんなことを。狭い部屋だったので一匹しか飼わなかった。その代わり猫専用扉で家の出入りは好きにさせて、たまに野良がきたら飯をやった。上につくまで猫のことしか話していなかった。蠍は世間一般の話にはあまり興味がない。昔から。

 ログハウスはしょっちゅう登山客を受け容れているだけあってしっかりと手入れされていた。毛足の長いカーペットが歳月を経てところどころ色褪せ、それでも暖かい空気で俺を迎える。コートと荷物を客室に置いて俺が小さなラウンジへと戻ってくると、猫の鳴き声がして一匹の黒猫が蠍の足元へ歩み寄っていくのが見えた。
 猫は苦しい。今は見ていて泣きたくなる。
「アンタレス。留守番ご苦労」
 すぐにキャットフードの缶詰をあけて床の皿に入れてやる仕草が手馴れていた。蠍はしゃがみこんで黒猫のビロードのような背中を一撫ですると、俺に気がついて「大丈夫か」と声をかけてきた。
 なんでそんなところにまで気がつくんだろう。こいつは。
「大丈夫。……あいつの遺影はあるか。あるなら挨拶したい」
 俺の言葉に蠍はふと無口になった。数秒の間そいつが死んだという現実の直前にまで巻き戻ってしまう。もう、それを受け容れられるほどには快復しているようだが、蠍の無言の意味が今の俺には嫌というほどよくわかった。
「牡牛の写真なら、俺の部屋の窓際にある」
 蠍は黒猫の背中をほどほどに撫でると立ち上がって俺をその部屋へと案内してくれた。蠍の部屋の窓際のサイドボードには大小合わせて三つほどの写真立てがあり、登山服の男たちが映っている。その中に蠍と並んで、登山用のステッキを片手に笑っている素朴な大男がいる。
 バーの仲間たちは彼を牡牛と呼んでいた。牡牛は蠍と一緒に各地の山に挑んではバーでその話をし、五年前に肝臓癌で死んだ。毎日太陽の光に包まれてすっかり褪せてしまった写真に俺が手を合わせて祈っていると、横で蠍が同じように手を合わせる気配がした。



 山の日はあっという間に暮れる。蠍がシチューの湯気をくゆらせて俺の前に座るころには、俺は部屋に黒猫がうろついていてもそれを受け容れられるようになっていた。ビールをあおり、俺が気を張っていつもより早口にバーの連中の近況を語っていると、蠍は急に苦笑して昔のことを喋り始めた。
「実はな。お前ら長いこと誤解してたようだからそのままにしてたけど、俺と牡牛がそういう……肉体での関係を持ったのは、一回だけなんだ」
 憮然とした俺は口に入っていたシチューのブイヨンを飲み下し、それから銀のさじを置いて咳払いをした。蠍と二人だけでそういう話をしたことがなく、照れもあったのだと思う。なかなかバーの連中とやらかす下世話ネタのようには頭が切り替わらない。
「一回だけっていつだ」
「あいつが墓に入る半年前。癌で入院した後だな」
「二人で山に登るたんびにヤってたんじゃなかったのか?」
「いや、だからそれが都市伝説だと俺はいいたい。第一高度何千メートルの空気の薄い場所でキャンプ張っててそんな無駄に体力使う作業はできないから」
「バーの連中が壮大な青姦とか極限でのセックスに挑戦とか言ってたあれは何だったんだ」
「いや、それは俺らが気づかないうちにそっちで勝手に言ってたんじゃないか。夫婦とかおたのしみでしたねとか。俺と牡牛も面白いから放っておけって話でまとまってたけど」
 下手につついて余計に話を広げさせるよりも、放っておいて自分たちは山の頂上で笑っていようという話だったらしい。二人は二人で山に登っている間そんなバーの連中のことを笑い話の種にしていた。
あいつらも実際に登ってみりゃいいんだ。上に着く前に息があがるにきまってるぜってさ。山の上に着くたびに牡牛とそんな話になってた」
 懐かしく牡牛のことを語る蠍の口元に誇らしげな微笑が浮かんでいた。
 蠍と牡牛はいつも山に入る前にバーで笑い話に加わっては、人間には厳しすぎる高山の自然に二人して挑んでいった。頑健な若い男二人の身体でも山の前にはあまりにもちっぽけだと蠍は言う。ザイルで互いの身体を結んで命綱にし、ピーカンの(雲一つなく晴れ渡った紺碧の)青空をひたすら人力で上へよじ登るためには二人の互いへの信頼が不可欠だった。
「岩壁にハーケン……鉄の楔な。ハーケンを打ち込む音が繰り返すにつれ結晶を叩いたみたいな澄んだ音になっていくんだ。何キロもある荷物を背負って絶壁を登るときに体中の筋肉の束が燃えて、重々しく伸び縮みして……だんだん何もない場所を登っていくのが楽しくてしょうがなくなるんだ。そうやって躁状態になると牡牛が声をかける。俺が気づくまでどこかから何度でも声をかけるんだ。
 舞い上がってる、クールになれ、頂上まではまだかかるって」
 ごく自然に、「あいつ以外の人間と組んで難所へアタックすることなんか考えられなかった」と蠍は洩らした。一緒に山を登れる相手をなくすぐらいならセックスなんてする必要はないと断じた。ゲイのくせに。さらに言うとあのバーに集う連中は、元々そういうお仲間であったわけだが。
「牡牛はあのバーがゲイの溜まり場だって知らなかったらしいぞ」
「は?」
「どこだったかなあ。多分北アルプスだと思うんだけど、どっかに登ったときに山頂で聞いた。ただ酒のつまみが美味い店だと思ってたらしい。俺やお前らがゲイだってわかったときには難しい面してたが、一晩明けたらいつもの顔になってた。山とうまいめしは捨てがたいとかあいつらしいことをのたまってた」
 牡牛自身はノーマルで、それも大学時代に童貞を捨ててからはすっかりご縁がないまま山にうつつを抜かしていた。「ノンケとゲイって普通の男同士よりよっぽど心理的に隔絶してると思うんだよ」とは蠍の言葉だ。そこを繋いだのが山だった。牡牛も牡牛で蠍を人間的に信頼していたのだろう。二人はその後も何事もなかったように組んで、山登りを続けた。
「随分あっちこっち登ったからな。岩壁の先を行ってた牡牛が足を滑らせてザイル一本で宙吊りになったこともあったし、逆に俺が雪山で滑落したこともあった。落ちるほうもそれをザイルで止める側もアドレナリンが頭に一気に流れ込んで、意識してそれをクールにしなきゃいけない。
 状況を把握してやらなきゃいけないことを確実にやる。シンプルなんだ。でも、相手を信頼してなきゃそれがえらい難しいことになる。山に登ってるといろんなことが視える」
「……それは登頂したら感動するんだろうな」
「まあな。でも上に着いたときには山の光とか自然とかいろいろ、凄すぎて逆に怖い。一息ついたら安全に下に降りることをすぐに考えるかな。俺は」
「牡牛は?」
「あいつはわりあい感動してばかりだった。「すごいな~」って牛が鳴くようなのんびりした口調で言うからな。あっちはあっちで俺がすぐぼーっとどっかに見とれるとか言ってた。自覚はないんだが」
 山を登りきれば折り返し。降りるのに適したルートを二人で下ってゆく。いつも二人とも五体満足で降りられたわけではない。どちらかが怪我をしたときは片方が肩を貸して助け合い、麓の山小屋か駅まで戻ってようやくゴールになるのだ。「大丈夫、絶対に降りられる」と怪我した相手に声をかけ続ける。一番シビアな展開だったのは雪山で蠍が滑落したときで、蠍は岩場で左足を強打して足首の骨を骨折した。雪山の八合目で。
「ぶら下がったままなんだ。真下にものすごく深いクレバスが広がっていて、呑まれたら終わりだと思った。ピーカンに雪の照り返しがあって明るかったんだ。でも雪の軋む音が聞こえるぐらい静かで、折れた足が横の岩壁にちゃんと踏ん張れないってわかった時かな。片足だと滑るんだよ。痛くはないんだけど息ができなくなって。心臓がバクバクして。あんなにデカい声が出るのかってぐらい大声で叫んでた。
 大声出しただけで雪崩が起きてもおかしくないような山だったんだ。パニックになってたんだな。……それからしばらく牡牛が、上でザイルを操作しながら口をぱくぱく言わせてたんだけど、何言ってたんだかまったく聞こえなかった」
 牡牛らしいいつもの落ち着いた口調だということだけ唇の動きから読み取れた。一瞬だったのか何時間もそうだったのかわからぬ無音の酩酊。命はたった一本のザイルだけで相手の体と繋がっている。
 やがて「蠍。大丈夫か。手をあげろ」という声が遠くから聞こえてきて手をあげた。
手をあげろ?
「意識がちゃんとしてたら意思表示しろってこと。ソロで登ってたら無事に生きて帰れたかどうかわからなかった。そこから片足とピッケル使ってどうにか岩壁にまで戻って、すぐ近くの平地に接地するまでが一番危なかった。意識が戻ってすぐ足が折れたって正直に言ったよ。牡牛も一瞬厳しい顔したけどな。でもそこから、またいつもの声で「大丈夫だ」って言ってくれた時にあんまり頼もしくて惚れた」
 謝罪は一度きりで、それ以上重ねる余裕もない。互いへの全幅の信頼を頼りに二人はけわしい雪山を下っていった。足の折れた蠍を慎重なロープワークで絶壁の下へと降ろしていく牡牛の屈強さには、状況の厳しさを感じさせない素晴らしい安定感があった。おかげで蠍は負傷した状態でもできる限りの能力を発揮し、牡牛と肩を組みながら二人で無事に麓の山小屋にまで戻ることができた。
「感謝してもしきれなかった。でも俺と牡牛との間では、それが当たり前だったんだ。
 言っとくが、本当ならそんな派手なことになっちゃいけないんだ。山登りとしては失敗だよ。牡牛の存在の大切さは身にしみたけど、登山家なら山登りはみんな無事で行って帰ってくるのが何より一番なんだ」
 厳しい山にアタックするなら、こいつと行くのが当たり前。
 蠍と牡牛の間でそんな共通見解が根付いて数年後、牡牛は悪性の腫瘍に倒れる。腫瘍が見つかりにくい場所にあった上に牡牛自身が若かったので進行が早かった。牡牛は腫瘍が見つかってすぐに入院させられ、奴らしからぬ駆け足の九ヶ月を過ごして帰らぬ人間となった。



 食べ終わったシチューの皿をさじで撫でる蠍。その膝元に黒猫が乗りかかり、主をなだめるように甘えてくる。
「牡牛の奴と、あいつとセックスすることなんか正直どうでもよかったんだよ。
 でもあいつが癌に倒れた後病院に呼び出されてさ、あいつの口から「もう山に登れないなあ」って言われた時、まるで世界が崩れ落ちたみたいでどうしようもなかった。あれほど真剣に神様に祈ったことはなかったな。あいつを助けてくださいって」
 物質主義者である牡牛らしい話だが、奴は投薬治療を受けながら病院の天井を見つめて「死の世界が見えん。俺はどうなるんだ」と見舞いに来た魚にひとりごちた事があった。魚が優しい天国へいけるんじゃないかと話を合わせると「山のない天国には行かん。ごめんだ」と返したという。
「あいつは三ヶ月で面倒くさそうに遺書を書くとまた俺を呼び出して、死ぬのも一種の山登りかもしれないから力を貸して欲しいと言ってきた。俺はそれを心中に付き合って欲しいって意味だと勝手に解釈して即座に覚悟を決めた。まあ一瞬のことだけどな。実際には、一回だけセックスしようっていう申し出だった。牡牛は俺をあの世にまで連れて行く気はなかったみたいだ」
 牡牛の身体は登山をしていた頃の面影が嘘のように全身の筋肉が細くなり、脂肪が削げ落ちていた。そんな身体で外泊許可をとり、牡牛の家へと戻った二人は寝室に閉じこもって一日と半分ほど、まるで山一つ登るような時間をかけてひたすらまぐわった。こいつならきっと自分の悪いようにはしないだろう、と牡牛がかけてくる全幅の信頼が蠍には痛くてたまらなかった。
 終わったあと、牡牛は布団に寝そべりながら「やっぱりお前とは山登ったほうがいいなあ」とのんびり口にした。目元に雪解け水のような雫を滲ませながら。蠍はそんな牡牛の目元を吸いながら、そうだな、と返した。
「あとはあいつの体力がそんなになかったし、ずっと病院で登山計画作って過ごしてた。時間がすごく濃い半年だったな。山登ってるときと一緒で。モンブラン、キリマンジャロ、マッキンリー、サガルマータ……いつか二人で登ってみたい山がたくさんあったんだ」
「サガルマータ?」
「エベレストのことだよ。チョモランマと一緒で別名だ。天空の頂っていう意味がある。
 牡牛は、天国にはサガルマータがあるってことにしておこうってとぼけたことを言ってた。普通にまた登ろうって俺と約束して寝こけて、そのまま逝った。多分あっちでサガルマータを見つけてもまだ登ってないだろうよ。俺がもうちょっと登山経験を積んであっちに行くまで、そいつはお預けだ」
 牡牛の寝ていた病床は空になった。俺を含めバーの連中はみな彼の死を深く悼んだ。せめて向こうでも山に登れるようにと、彼の遺影の前にはさまざまな登山道具が供えられたものだ。
 だが今になって俺は思う。牡牛と蠍の間には死後の世界について、空想ではなく確信と呼べる何かがあったのではないかと。牡牛一人では見えなかったそれを蠍は最後の半年間で彼に示したのではないだろうか。まるで登山の中で奴自身が何度も牡牛に助けられてきた部分を、違う形で補うように。
 蠍は最後に俺の目を見て、とても穏やかな態度でこう打ち明けた。

 俺は天国の色を知っている。
 天国の色はピーカン。雲一つなく晴れ渡った紺碧の青空の色。あいつと二人で岩山をよじ登り、雲さえも人力で突き抜けた先にある天空の頂の色。死んでからもなお、登らなきゃいけない。でも俺は一緒に登れるパートナーがあっちで待っていることを知っている。だから今ここで生きていることも、死ぬことも、怖くはないんだ。

 微笑みながら黒猫をあやす蠍の姿を見て、俺は蠍のことをなんて幸せな奴だと思った。他者に対してその確信を抱けることがあまりにもうらやましかった。俺なんて人間相手に、心を開いたことすらろくにないのに。
 なぜか蠍にあやされる黒猫の姿にうちのキジトラの姿がかぶって、涙が溢れる。
「乙女?」
「……すまない。いろいろ思い出した」
 俺は鼻をすすりながら席を立ち玄関へと歩いていった。靴を履いてドアを開けた先には、澄んだ空気とともに恐ろしく深い星空が果てなく広がっている。俺は息をのんでその場に立ち尽くす。
 ああ、猫にあいたい。
 そして人間にあいたい。俺はこの悲嘆を超えていつかあのバーへ、あそこで待っている仲間たちのもとへ戻るべきなのだ。
 滂沱の涙とともに目を見開いていると後ろから蠍が出てきて俺に厚手のダウンジャケットをかける。足元に黒猫が優しくすりよってきた。「大切な相棒をなくしたな」という蠍の言葉が、どうしようもなく温かく俺を慰めた。


 - fin -

作品データ

初出:2008/11/20
同人誌『Silent and Talkie/僕と先生』収録(※同人誌はR18)
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