メープルシロップ

 不景気の煽りで露骨に休暇が増えた春のこと。僕が家で一人ノートパソコンを開いていると、双子はいつものように玄関の扉からではなくぼろい縁側から僕の家に入ってきた。春に入ってからアホみたいに昼間の外が明るい。友人は肌に涼しい我が家の日陰の中に倒れこみ、畳に顔をうずめてくたばりかけた呻きを漏らす。
「水瓶。俺はもうだめかもしれない」
「はいはい。どうしたの」
「あのさ! 俺さ三日前蟹と飲んだわけ! もうすっごいベロベロになったのね! そしたら蟹が終電乗りそこなってうちに来てさぁ。ずーっと何か愚痴ってて、めちゃめちゃ泣き出すから一晩中背中さすっててさあ」
「愚痴って、なんて」
「『恋人と距離を感じる』とかそんなんだよ恋愛関係の愚痴。俺途中から飽きてきちゃって全部は聞いてなかったんだけど、あれ酒飲むと著しく情緒不安定になるのな! 後半なんか自分の涙で涙を誘ってたもん」
 開け放った縁側から乾いた南風が吹いてくる。シャツの下の肌がさらりと乾いていた。僕は二十七歳だった。
 まだ休暇が増えそうにない話題の男も。目の前で茶髪をばらけさせて伸びかえっているこいつは自由業でひとつ年下。
「距離ね」
「そうそう。でさあ。うん。俺はもうだめだ」
「なんで」
「言えない。そこ、肝心なとこですごい喋りたいんだけどプライバシー的に言えない」
「何それ」
「とにかく俺の人生に軽い天変地異が起きたんだよお」

 蟹のやつ、双子に何かしたのか?
 足元で悶えている双子の挙動にとても悪い予感がして、僕はあからさまに眉をひそめてしまったかもしれない。気づかれる前に素足で双子の顔面を踏んだ。双子は痛い臭い重いと苦情をわめきたてていたが知ったことじゃなかった。
 僕の脳裏には感情に飲みこまれて双子とのよからぬ遊びに走った蟹の姿が影絵のように浮かび上がっていた。
「なあ水瓶。ひどい。頭蓋骨のひびが軽く開いた」
「柔軟な頭になってよかったんじゃない」
「……。俺がバイとかになっちゃってもお前引かない?」
「何を今さら。バイなの?」
「まだバイじゃない。……おまえ顔面が怖いよ。なに? ……俺まずいこと言った?」



 双子には早々に帰ってもらった。
 休日を消化するのには散歩か趣味が一番だとわかってはいたが、僕は双子が帰ったあと何もかもするのが億劫になって窓を開けたまま畳の部屋にじかに倒れていた。蟹と意志の疎通がうまくできていなかったみたいだ。もともと共通点が少ない二人だから、もっと細かいことまで話しこんでおかなければならなかったのかもしれない。
 僕は蟹と交際しており、すでに肉体関係を結んでいた。
 双子はたぶん蟹の恋人が誰かは聞かされていなかったんだろう。右も左もわからずに僕に追い出され、首をかしげながら日常へ戻っていった。敏感な彼のことだ、一言彼に「お前そっち系なの?」と問われれば僕も隠しはしないが、それまでは特別こちらから明かすこともない。
 僕と蟹との交際期間はまだ短くて、僕らはその間に何度喧嘩したか知れない。最初は何で喧嘩したんだったか。とにかく恋人なら何々すべきという常識の部分がまるで違っていて、何度か僕が蟹より仕事を優先させた結果口論になった。蟹は僕が正論でたたみかけようとすればするほど「僕が言いたいのはそんなことじゃない」と言って逆上するのだった……抱けばなぜか納得してしまうくせに。僕には彼がヤっただけで全部納得してしまうらしいその精神構造が納得いかない。
 とにかく、お互い相手に言いたい放題言ってもヨリが断絶しないことに気づいてからは喧嘩が多い。僕は蟹が自分と違う意見を持っていること自体は尊重しているつもりなのだが、蟹はそんな僕のことを「口ばかりでまったく同意していないよね」と詰問してくる。なぜ頭で考えてることまで一緒にしなければならんのか。理解できない。不可能だと思うし。結局だいたい僕が考えたことに蟹が折れて合わせてくる。僕は別に合わせる必要はないのでは? と素朴に思ったのだがそれを言うとやはり蟹は怒る。
 ああ、喋りすぎたな。いずれにせよ蟹が僕に直接抗議するのではなく、僕以外の誰かに何かしたっていうのが初めてだったから。

 彼と話をしよう。
 僕は恋愛において彼を尊重できていなかったのかな。恋愛に対する考えが、間違っていたんだろうか。もっと、僕以外の人間を愛する彼のすべてを、僕は愛するべきだったんだろうか。そういう意味で僕は試されているんだろうか。今。
 自分に見る目がなかったのだとは思いたくない。



 有意義に消化できない休暇は苦痛でしかなかった。問い詰めていいかどうかぎりぎりのライン。何度もこんな束縛するべきではないのでは?気にするなんて柄じゃないと自問しながらぐじぐじと心臓を食い破られる感触に耐えて、ゆっくりと陽が落ちていくあいだ無為に過ごしていた。蟹からメールが来たときだけ心臓が不整脈を起こして痛んだ。仕事が終わったらご飯を食べに来る。
 僕と蟹はともに二十七歳で蟹は時々すごく悲しそうな顔をした。悲しみに悲しくなってしまうような制御のいかないところがあって、僕がいくら自分の考えた未来を語ってきかせてもその感情は少しも薄れていかないのだった。またあるときには彼は幸せそうな顔をしていた。今ある幸せを少しも疑わない強いところが、未来を考えすぎて僕が憂いているときには効いた。融合は不可能。それでも、いつか互いが互いのそばにいることが自然になればいいなと僕は思っていた。
 部屋が暗くなって僕が畳の上で居眠りしていると、不意にチャイムが鳴った。
「はい」
 僕は乾燥した喉をひび割れさせて返事をすると立ち上がり、玄関までいってドアスコープを覗いた。彼はいた。片手にスーパーの袋を提げて。あの優しい温かな表情で。僕はその顔をスコープごしに見た途端、自分が真っ先にあのことを問い詰めてしまいそうだと予感して深くため息をついた。
 吸い込むのと一緒にドアを開けた。何気ない態度で家に入ろうとする蟹に対し、僕は家のドアを閉めるまで無言だった。
「……どうした? 水瓶、部屋がなんか暗いけど」
「うん。寝てたから」
「そうなんだ。いいな寝る時間があって」
「あんまり楽しいもんでもないよ。働いてたほうが気がまぎれる」
 大丈夫。僕はうまくあの事を尋ねられる。
「蟹、この前双子と飲んだんだって?」
 ふらふら部屋を歩いていた蟹の足がぴたりと止まった。そんなどうでもいい挙動に僕は前後不覚を起こしそうになった。
「双子が昼間きてた。お前双子に何かしたの?」
「……双子はなんて?」
「質問に質問を返すな。先に僕の質問に答えてくれないか。けっこう真面目なんだ」
 自分の声に不穏な余韻を感じた。蟹は少しの間静止すると、怯えた表情でこちらを振り向いて、ぎこちない微笑みを作ろうとした。
「なにもしてないよ」
「誓うか? 本当に何もしてない?」
「水瓶、どうしたんだよ。今日のお前なんかちょっと怖いぞ」
 一瞬の間に読まれた。蟹のごまかすような笑い声までのタイミングで、彼は僕がまだ疑いの段階から脱せていないのだと、そこまで読んだ。わからないとでも思ったのだろうか。僕が彼に対して鈍感だと?
 僕は自分を落ちつけようとして壁にもたれ、何度も自分に落ち着くよういいきかせてはうなずいた。
「本当に?」
「ああ。本当だ」
「そうか。……」
 閉じた自分の口が強く歪んでいくのがわかった。つじつまが合わない。
 蟹は何もしていないって言っている。これ以上聞いても無意味だ。ああそうだ。僕はたぶん自分の仮説が通るまで蟹が何を言おうと納得する気がないんだ。いわく「蟹は双子に誘いをかけた」って推論だ。正しいかどうかさえ自分の中で問題じゃなくなってしまっているのが問題なんだ。
 喧嘩したって今までなら関係は切れなかった。今回もそうすればいいのに。
 僕は思考とは裏腹に、ひどく拗ねて、部屋の隅で蟹に背を向けて座り込んでしまった。何も言えないまま。
「水瓶」
 後ろから蟹が抱きついてくる。振り払った。かつてなく不機嫌になっていた。
「双子とは何もなかったって言ってるじゃないか」
「信じられないね。お前さ、僕との間に距離を感じるって言ってたんだろ」
「僕の言ったことより双子の言ったことを信じるのか?」
「僕にはお前の思考法が解らないんだから仕方ないじゃないか!」
 蟹が嘘をつかないでくれれば僕はそれを「大したことじゃない」と許せたかもしれないのに。声を荒げた僕に蟹がさっと表情を変え青ざめる。ああ何でも喜怒哀楽に変えてしまう! 優しくも泥のように不透明な顔。僕は感情面で決して彼を凌駕することができない。どんなに怒っても泣いても。うろたえる動作すら比較してしまって、そのたびに相手を女々しいと思うか自分の感情的貧困さがいやになるかでぐじぐじと胸がむしばまれていくんだ。最後には水がそれだけでどんな金属をも腐食させてしまうように。
「おかしいよな。双子の証言とお前の証言とが噛み合わないんだよね。双子が軽く天変地異だっていうような何をお前はやったの。それでなんで完全否定に走るの。おかしいよね? なんだか性的なニュアンスが入ってたと思うんだけど、もう一度双子を呼び出して問いただすか? お互いのために」
「水瓶。ごめん」
「ごめんって言ったか。ああ聞きたくなかったよこのタイミングでだけは!」
 しん、と部屋の中が音を吸い取って冷たくなった。
 本棚に背中を貼り付けて動揺している蟹の顔。僕は狼狽でかなりひどい顔になっていたと思う。愛する人の前で僕はどうしてこんなにも醜く変わってしまうんだろう。こんな無様な自分を知らなかった。彼に出会うまでは。
「嘘をついてほしくなかった。傷つく」
「すまない。水瓶。本当にごめん……」
「本当はどうしたの」
「……キスした。さびしくて。双子はすぐに逃げた」

 僕は無言で何度もうなずくばかりだった。というより、がっくり落ちた頭を力なく上下に動かすのが精いっぱいだった。話す蟹の声に、目元に、涙が浮かんでいた。
「お前と喧嘩ばかり続くのが嫌になったんだよ」
「話さなきゃ何も意志の疎通がとれないじゃないか。お前と僕とは。それに喧嘩っていったって帰る家はあるものばかりだった」
「僕にはなくなりかけてた。安らげなかった」
「だからそれはそう言ってくれれば、僕が、……」
 僕は口を閉じた。察してほしいという奪い合いの結論に終わりそうなのが見えたからだ。蟹にはそれが必要だったのかもしれないけど、僕にはその能力が蟹ほどにはなかった。
 僕は、どんなに心を痛めても、その痛みで彼を越えることはできない。いつもそうだった。僕はいつも頭を動かす側。そんな役割分担に異議を唱えたこともなかったし、そういうものは人それぞれだとあきらめてもいた。
 それを思い出したら虚しくて涙も枯れる。

「僕はお前と関係を続けたかったらお前を許すしかないのか。カッコ悪いなあ。それ」

 蟹は涙をためながら、謝りも否定もしないで無言で僕を見ている。
「ああ、縁を……いやだ。僕は謝らない。お前の言い草は言い訳にならない! 言い訳になんかなるか。謝り続けなきゃいけないのはお前だ。どうやって謝ってくれるんだ」
 僕は蟹に詰め寄ると彼が背中をつけている棚に手をつき、もう一方で目を赤く腫らす蟹の胸倉をつかんだ。蟹が危険を感じたか息を凍らせて身を固め、声をか細くさせる。
「みずが、め」
「浮気者。お前は今から僕の一番醜いところを見るんだ。一番嫌いだった。お前といると正常な思考ができない自分に気づくから。馬鹿みたいに踊るんだお前の前で……! 我にかえった時に本当に嫌になる。
 憎いんだよ。どうしていいのか解らない。お前のその唇を、上も下も噛み破ってシュレッダーに投げ込みたいぐらいに思ってる。非論理的だ。どうしていいのか解らない! どうしてお前の体は一つしかないのに他人に貸したんだよ! え!? 僕は、僕はそのお前の唇を欲しいと思うたびに双子の存在を思い出すんだよ。多分これからもずっと。
 浮気者!! 泣きわめいて僕に詫びろ!!
 僕は泣きながら怒り狂って同時に勃起するという離れ業をやってのけた。かにがうそをついてぼくをだました。僕は、僕は上手く喋ることができない。そんなに怒ることじゃなかったかもしれないのに。蟹にひどく当たれば当たるほど僕は幼くなり、残酷に欲情して、この男は僕だけのものだと思い込んで、一息ついたときに蟹を見つめながらただ涙を垂れ流す。
 ひどい姿だ。……悲しいのは僕の激情がそれほどには長持ちしないことで、僕は言いたいことを言ってしまうといつの間にか出ていた鼻水をすすって、残滓のように胸に残り続ける蟹への意地悪な感情と自己嫌悪との振り子にさいなまれた。蟹の胸倉を掴みあげていた腕がだらりと落ちた。僕の胸の中に黒い化け物がいる。僕から解放された蟹が、放心して棚沿いに腰をぬかしずり落ちる。
「ごめん」
 僕を見上げて言ったひとことに、驚くほど感情が流れていなくて僕は口の端であざけり笑った。僕の感情のほうが激しい時にはこいつは逆に冷静になるのか。いいことを知った。
 世の中、うまくできてる。
「許さない。こんな程度で許すと思ったら大間違いだ」
「水瓶。僕は、どうすれば……」
「そうだな。だから泣きわめいて、僕の気が済むまで詫びれば? 心配しなくてもいいさ。痛くて泣かなきゃ身が持たないようにしてやるから。さあ四つん這いになって尻だけ出せよ。ほら。早く」
 キスなんかしてやるか。蟹が僕を裏切ったのと同じ分だけ僕が蟹を痛めつけるまで。
 僕は転げ落ちるようにひとでなしになる。呆然としている蟹の肩を蹴り倒し、下半身だけ無理やりひん剥いて、蟹が嫌がるから慣れてもいないのに殴る。生まれてこのかた軽蔑しきっていた姿だ。けだもののように完全に知性を失って、感情と快楽だけの生き物になるのってなんて気持ちがいいんだろう。カエデの蜜をあまるほど飲んで浴びているみたいだ。もう戻れない。僕は悲しい。なのに正しく泣いているのは僕だけで、蟹はずっと涙も忘れて痛い痛いと悲鳴をあげている。
 悲しい。
 昨日まで、こんなことになるなんて思ってなかった。



 僕は蟹を犯しつくすとようやくその唇へキスをして彼を許した。翌朝、目を覚ますと蟹は僕の部屋から消えていた。


 - fin -

作品データ

初出:2009/4/27
同人誌『タンデム/重力』収録(※同人誌はR18)
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