重力

 今の蠍にはもう一人ぐらいスピリチュアルなガーディアン(護衛)が必要なんだと意味不明なことを言われた挙句、俺はどうやら蠍の友人として迎えられた。射手いわく乙女と牡牛が他に候補にのぼっていたらしい。乙女はその神経の細やかさが危惧され、牡牛はなんでも蠍と星の相性がまずいからということで最終的に俺が残った。
「なぜ絶対に死ぬとわかってるのに(お前は)生きてるんだ」
「……なぜって、生きてるからだろう。死ねないから」
 蠍の知る人間の中で一番平凡な答えを返したという、俺。横で付き添っていた射手の喜びようといったらなかった。目がきらきらしていて、蠍の帯びる重力を無視する形で俺に喋りかけてきた。
「やっぱりお前みたいなのが必要だよ、山羊。すげーいいね! そのマイルドな安定感」
 安定感がどうとか言われても、正直返答に詰まる。当たり前のことだし俺には他に返答が思いつかなかったというだけの話なのだから。
 蠍は血走った目で俺を見つめながら泣き出しそうにずっと黙っていた。なるほどこいつの目は、みんな付き合うのも大変かもしれない。相手の心の深いところを刺激して不安にさせるようなコントロールのきかない目だった。
 たぶん、何か心が立ち行かなくなっている状態だと思われた。話をしているだけでもきつそうだ。すぐにしゃがみこんでしまう。
「大丈夫か。医者に行ったほうがいいんじゃないか」
「……権力主義。利益にならない奴にどす黒い」
 いたわろうと伸ばした手が、ぴくりと強張った。
 やはりこいつとはみんな付き合うのが大変かもしれない。その人間が自然と嫌がり避けるような言霊を出会って数分で、本人の前でも口にする。相手が見たがらない無意識の窓を一言で知覚させてしまう雰囲気。声色。
 おそるべき感受性だった。
 射手が、蠍の指摘にすっとんきょうな声を出す。
「山羊、権力主義でどす黒いの?」
「違う」
 自分でも険悪な口調になってしまった。俺はそんな人間にならないよう生きているつもりだ。知覚できるから見たくないのだ。そんな内面は。見ないようにして、良心でカバーして生きてゆく。誰でもそうだと思う。
 射手は俺が反論すると人懐っこい顔で苦笑して許しを請うた。
「ごめんな山羊。こいつにとっては世の中の奴全員悪人だから。ものすっげえワガママだよな。こいつ。……でも今のこいつ、見放したら勝手に口パクパクさせてお腹上にして浮かんじゃうようなどうにもならん状態になってるからさ。できる範囲で付き合ってくれると助かるよ」

 奴の友人になるのを引き受けるということは、つまり深刻に精神を病んだ畸形児のお守りをするということだった。大半の人間に務まらず息苦しい世界だという。蠍は、俺の知る蠍は見えないものに重くのしかかられていて立つのも苦しいといった風情だった。本人は「重力が重い」と漏らしていた。話にならないほど病んでいたと思う。「H2Oでドラッグ並みにキメられる」とは射手の迷言だが本当にそれぐらい感受性が突出していた。蠍は恐ろしく体が細かった。大半の食事が精神の過覚醒のために食えず、だいたい吐いた。射手はこの異常事態に耐性があるのかちょくちょく蠍を見舞っていたが、俺は心身の健康を守るため他の友人と同様、たまに射手と一緒に奴の部屋を訪ねるだけにとどめていた。
「月がなあ。よくないやね。あれだけひどいとさあ、たまにブッ殺してやった方がお互い楽なんじゃないかと思うんだけど、蠍もたまに死にたいって弱音を吐くけどそれは弱音に過ぎない。ってか死ねないんだよね。奴の死にたいって言葉、他の奴を傷つける言葉より三百分の一程度の軽さしかないもん。甘くて薄いタマネギの皮みたいだよね。炒めたやつ」
「現実問題、薬は飲んでいるのか。安定剤か何かで落ち着かないのか? あれは」
「一時期飲んでたけど廃人みたいだったからやめさせた。俺がきつくなったらまた飲んでもらおうと思う。他の奴じゃ面倒みきれなさそうだし」
 満月の下で射手は遠くを見つめながら瞬き一つせずに言った。本当に鬼なのは蠍なのかこいつなのかどちらだかわからない。蠍……いや射手を通じた蠍曰く、みんなその程度には鬼だという。俺もこんな感じで鬼になりうると。
 陰険でどうしようもないときに虐待された子どもの悲鳴や猫の闘争するささくれた鳴き声を聞くと逆に落ち着く。そこまで人間は行ってしまえるのだと。
「あのさあ。あいつね。女に対して童貞だと思うのね。男に対してはどうだかしらんけど。そんで生殖できないってもうひどい声で言うのね。生殖っていうのは、命を殖やすっていうのは蠍の一族にとって死と等分に与えられた使命なんだって。でもあいつ裸の女与えられてもちんちん勃たなくて女の腹の上にゲロ吐いたっていうんだから本格派だよね。でも奴は生きてるんだよね。多分一生女に対して童貞のままなんだろうね」
「同性愛者なのか」
「知らない。マザコンだって勃たないときは勃たないし、幼女だったらいけるかもしれないでしょ。俺はあいつがホモだったらいいなって思うけど、それだとあいつはもう本格的に死ぬしかなくなるんじゃないか。生殖できないし。つうか何のために生きてるんだってことになんね? 普通に発狂しね?」
「考えすぎなんじゃないか。誰もそこまで深く考えて生きてない」
 射手は俺に微笑む。苦くて、それでいて馴染みのタオルケットに触れたときのような嬉しそうな微笑み。
「なんか俺お前に惚れそう。お前蠍の前に行くとき注意したほうがいいよ。あいつ嫉妬深いから、俺がお前に惚れたことも全部筒抜けだよ」
「冗談だろう」
「いやいや。あいつはこわいよ」
 射手はこの危険な状況を楽しんでいるように見えた。
 意外と理性的だとは思う。何より蠍を見棄てていない。射手には、その気になればどんな人間でも捨て置いて世界の果てまで行くような無法なところが見え隠れする。
「おまえがずっと普通のこと言ってくれてるところに、惚れるんだよ」



 俺が普通で、わからないことに対してかなり感じにくい人間であること。それがいいと射手は言った。平凡だの鈍感だの言われてそんなに気分はよくない。次に蠍と会ったとき、蠍は俺と二言三言会話を交わすなり伸びっぱなしの黒髪の下からぎょろりと目を剥いて俺を見すえた。
「俺や射手がお前を見下しているように見えるからって俺を恨むな」
 だんだんこいつに対しては不快感を隠す行為が無駄なのではないかと思えてきた。大きく溜め息をついて、わざと蠍の食べられなさそうなカレイの干物を奴の顔面にぐりぐりと押し付ける。蠍は不機嫌そうだったがそれ以上何も言わなかった。あとで射手に聞くと、蠍はあれで安心したという。多分スーパーの出来合いの食材だの、冷たい生のサバだのを押し付けたりしたらまた具合が悪くなっていただろうと。違いがわからない。攻撃したことに変わりはないのに。
「電気ぐらいつけろ。どうしてお前の部屋はこんなに暗いんだ」
「薄暗くしておいたほうが他の奴が錯乱しないって射手が言ってた」
 嫌な予感がした。俺は電気をつける前に部屋の中を見回してみる。
 日常。部屋の白い壁の一角に首を吊った男の後姿の肖像画が等身大であり、また別の一面には巨大な女の顔──正面でこちらを見ている絵が奴の感性でデフォルメされて描かれている。目を叛けようとあらぬ方向を見ると今度はびっしりアリが壁に描かれている。そんな部屋。
「お前が電気をつけてもいいなら、つけるが」
「……いや、いい。射手はよく平気だな」
「あいつは日常に飽き飽きしてるから。いつも。遊び気分で悪い方向へ突っ走っていくばっかりだ……。俺が一生懸命悪いのを吸い出してるが自分を傷つける癖が治らない」
 つぶやく蠍の唇の、端に痣がついていた。俺は驚いて奴の傷に触れる。
「なんだこれは」
「何でもない」
「何でもなくはないだろう!」
「……」
 口を開かせるのに随分かかった。一度だけ、射手がこの部屋で自傷しようとしたので止めたときに殴られたのだ。射手は蠍を殴ってしまった後激しい自己嫌悪に陥って自分の頭を壁に叩きつけて割ろうとした。ほらそこ、と蠍が指差した先の壁に射手の額から出た血痕が残っていた。
「この部屋を明るくしてトランス系の音楽をかけてたんで、ハイになってたんだ。あいつは自分以外の人間を傷つけられない。哀しいほど……だから俺は大丈夫なんだ」
「本当か」
「面白いぐらい興味が自分にしか向いてないんだ、あいつ。あいつが他人を傷つけるときはもう死を覚悟しなきゃならないよ。この痣は本当にただのはずみだ」
 蠍の言霊には説得力がある。こちらから目を逸らさず落ち着いた口調で語られた内容に、俺はひとまず納得した。蠍は俺が納得したのを感じ取ると肩の力を抜いて溜め息をつき、また重力に負けて、ゆっくりその場に寝そべった。
「絵は、消したほうがいいんじゃないか。俺がやってもいい。精神的によくない」
「消さないでくれ。直視しなきゃいけないから描いただけだ」

 父親の自殺。男女間で生殖できないことへのコンプレックス。一族の末裔としての蠍が抱える問題は極論するとその二つに行き着いた。もともと極度に死に対して親和性の高い血筋で、父親も蠍と同じように死と苦痛を見つめ過ぎ、日々の果てに家の欄間にロープをかけて首を吊った。自分が最初に父親の姿を発見したときのことを蠍は忘れられないという。
「親父は血に殉じたんだ。俺の一族は、女は嫁いでも多情多産で長生きするんだが男は駄目だ。いつも死ぬかどうかギリギリのところで子孫を作っている。
 俺は子どもを作れないとわかった日に家から追い出され、一族から縁を切られた」
「酷だな」
「酷じゃない。それは一番やさしい選択だと思うよ。とにかく一族の中で自殺者が出ると、追い死にがやたら出る家系なんだ。子どもを作れなかったら死ぬしかない。そういう二極化した気質がなけりゃ、あの家は続かなかったんだろう。男が死にやすいせいで」
 壁のアリの絵を指差しながら蠍は「あれだけは消してもいいかもしれない」と続けた。俺は立ち上がると蠍が壁絵用に用意していた白ペンキを借り、アリの絵を上から丁寧に塗り潰した。
「無駄なのに。子どもを作れなかったら、生きることも人を愛することも無駄だ」
「お前は偶然で生まれてきたものについて考えすぎだと思う」
 蠍の世界は、聞いているとつくづく偶然とかいい加減なもの、いい加減な世の中に対して不寛容だと思う。さらに言えば拘りすぎて幼い。生殖に無駄だからといって、こいつは歳をとることの喜びまで否定するのだろうか。
「外に出よう。ここは不健康だ」
「……無理だ。俺はたいがいの人間の悪意を感じ取りすぎる」
「……」
「顔を見ただけで、そいつの持ってる悪い部分が黒い粒子みたいに浮かび上がってくるんだ。全身の毛穴からアリがはいずりだして動く点描画を作ってるみたいな……いっそ本当にそうだったら見えて楽だが感じるだけで見えやしない。具合が、悪くなる」

 いつも起きた瞬間から重力が重いと感じている。そうして死を直視するのだという。
 全員いつか必ず死ぬのに何故生きている?
 射手が連れて来た人間に片っ端からそうやって尋ねたそうだ。
 牡羊は「生きてりゃやることがある」と熱く一方的に主張し、
 牡牛は「欲望を満たすため」と答え、
 双子は「嫌な奴だな」と蠍を毛嫌いし、
 蟹は「人のことを思ったら死ねない。君も大切だよ」と哀しい顔をし、
 獅子は「貴様の暗さが気に食わん」と蠍を殴りそうになり、
 乙女は長い間黙考したあと「答えがわからん」といって体調を崩し、
 天秤は「まあまあそう思いつめすぎないで」とごまかし笑いを浮かべ、
 水瓶は「うつ病なの?」と蠍を逆に分析し、
 魚は蠍の気迫を内で増幅してしまったのか答えられずにその場で泣きじゃくった。
「射手はなんて答えたんだ?」
死ぬために
 それだけだった。そして誰よりも早く即答した。
「あいつは自分が死ぬとか傷つくとか、その辺の感覚が欠如している。思い出させることさえできなかった。先天的にそういう感覚を持っていないんだとしか思えない」
 蠍が面と向かって射手にその欠点をつきつけると、射手は意地悪く笑った。言葉こそ口にしなかったが、あの男があんなにも底意地悪く笑うのを見たのはその時だけだったと蠍は言う。
「俺はそのときわかったんだ。こいつは最後の最後まで他人を傷つけない。その代わりこいつが一度他人を傷つけると決めたら、そのときのこいつに人間らしい情が一ミリでも残っていると思っちゃいけないんだって。
 あいつが日頃他人に迷惑をかけているように見えるのは全部あいつがうっかりしたときの弾みでそうなってるだけであって、あいつ自身はそうそう怒ったりしないし他人に悪意をむき出しにすることもないんだ。怒れるほど他人を愛してない。あいつが傷つけてもいいと思うほど好きなのはいつも自分自身だけで、それ以外の奴への愛は気まぐれだ」
 俺は返答に詰まった。蠍は、喋らせるといつも誇張しなくていいものを誇張しすぎる。自分でもそれがわかっているから口を閉ざし黙りがちになる。こいつの一族が秘密主義と言われる由縁だ。
「体中の血が重い」
「ああ。とりあえず床で寝ちゃだめだ。ベッドへ戻れ」



 たったひとり細くやつれた体で重力に耐える。
 壁の絵を放置したまま起き上がれず眠り続ける蠍の日常に俺は負担を感じていた。射手や俺や他の友人が交代に家を訪れては食事をとっているかどうか確認し、無理にでも食べさせてはいたが。
 見えないものに押し潰されて死にかけている人間というものを初めて見た。蠍は他の友人が面倒を見ているときに一度意識混濁を起こして病院に担ぎ込まれ、家に戻ってくるまで一週間栄養点滴を受け続けた。
「この際きちんと治療を受けさせたほうがいい。縁を切ってるんだか何だか知らんが、実家に連絡して援助を受けさせるべきだ」
 俺が射手と会ったときにそう主張すると射手は遠くを見て急に黙りこくった。しばらくして、大きな溜め息が返ってくる。
「わかったわかった。俺が適当にやっとくから」
 面倒くさいな、とあとに漏らした言葉のほうが本音に聞こえた。蠍は投薬を受けるとあの感受性が失われて廃人になってしまうのだという。
「もったいないと思うんだよね。あんなにいいセンスしてるのに、廃人にしちゃうなんて。つまんねえの」
 射手はポケットからウォークマンのイヤホンを取り出すと耳にかける。オンにするなり、奴の耳から精神にキリキリ障るようなトランス音楽が躓きそうな速さで漏れ出てくるのが聞こえた。
「……射手」
 射手には何も聞こえていない。音楽に酔いながら体を小刻みに揺らしている。俺が奴の肩を叩いて注意を引きつけると、射手はイヤホンを外してこちらを見た。
「何?」
「お前も、もっと健康的に暮らしたほうがいいんじゃないのか。俺にはお前と蠍が一緒だと余計にひどい方向へ向かっているように見える」
 射手の目が人形のように光なく、時間をとめる。不気味さに息が止まった。奴は目を細めるとはっきりと口をあけて発音した。
「おまえ、つまんない奴だな。やっぱただの人なんだね」



 癒着していたんだと思う。射手はとてつもなく傲慢に蠍の面倒を見ていた。自分が蠍の側にいてよそへ浮気をするのには抵抗がないが、他人が自分と蠍との関係に割り入って何かするのは不快だったらしい。だからといって必死に抵抗もしない。射手はどこまでも自分だけが可愛い。いざとなったら蠍を見棄て、どこへなりと行ってしまうのが誰の目にも見えていた。
 蠍もそんな射手の非人ぶりを見抜いていた。かいがいしく面倒を見てもらいながら射手の持つ非道さに対して憎しみを隠さなかった。いつも蠍が他人を攻撃して射手が笑いながらそれをフォローしているように見えるが、実際には射手のほうが半永久的に蠍を生かし、その生きる苦痛に歪むさまを見て楽しんでいるように見えなくもなかった。
 もう少し責任を果たしたら俺は奴らから手を引こうと思う。権力主義だの何だの言われようがどうでもいい。奴らは病んでいて、俺は自分の心の健康が惜しい。



 ある日また俺が蠍の部屋に様子を見に行くと、蠍は射手と一緒に床に大きな紙を敷いて曼荼羅を描いていた。
「山羊。お前色つけて。ここに緑色がある」
 二人は密室の中で共鳴する。俺はなるべく二人を邪魔しないようにしながら筆をとり、曼荼羅に恐る恐る緑で色をつけてゆく。蠍と射手は緑色を使わなかった。三人以上が曼荼羅に関わってはじめてこれは総天然色になるのだと射手は意味不明なことを言った。
「おお、すげえ! やっぱ三人で描くとすげえわ。蠍もさあ、なにげに曼荼羅描くの才能あるし」
「そうか」
「うん。今度インド行こうぜインド。あっちの薬はまじでハイになれちゃうよ」
「……射手。それに蠍」
「ん、何? 山羊」
「なんだ」
「俺なんだが、用事ができた。忙しくなりそうだからもうしばらく来れないと思う」
 蠍と射手の目が、俺の中を見透かした。俺は打算をつけたことを隠さなかった。そんなことはとっくに、この二人ならわかってしまうことだ。
 射手が不気味な目をする横で、蠍は意外と俺に対し優しかった。
「そうか。疲れたか」
「ああ」
「ならいい。もう、行ってくれ。俺にはあんたを恨む気力がない」
 ……蠍の実家は俺の連絡にも腰を上げなかった。切ると言った以上徹底的に切る。蠍がひとり死んでも、構わないとまで言い放った。絶縁。
 蠍はか細い体で重力と戦い続ける。射手という敵とも味方ともつかぬものを側に置いて。
「お前の実家に連絡はしたが、俺では無理だった」
「そうだろうな」
「くだらないことしたね」
 射手のガキのような、見下した発言は俺の心にかちんと障った。睨み合っていると今度は蠍がその波長を感じ取って曼荼羅の上に倒れそうになる。
「さあ、行った行った」
 射手は俺を追い出しにかかる。俺が蠍の不調の原因だといって。蠍が不思議な目をしてじっとこちらを見据えていた。追い出したがっていたのは蠍よりむしろ射手だったのではないか?
「待ってくれ。今日はもう少し……」
「わかんないかなあ。お前余計なことしすぎなんだよ。もういいんだって。バイバイ」
「ちょっと待てって」
「お前がいないほうが俺たちは楽しいの。あ、そうだまだお前に言ってなかったんだけど、俺たちこの前からつきあってるんだ。今からセックスするからお前邪魔。帰って。バイバイ!」
 突き飛ばされる形で追い出され、けたたましく部屋の扉が閉まる。俺は叩き出されてすぐ、中の二人が危機に陥るような気がして気が気でなかった。
「おい!」
 部屋の戸を叩く。大声をあげて、とにかく二人が二人だけの世界に引きこもらないよう努力したつもりだった。中でドアチェーンをかける音と鍵が外れる音が同時に響く。
 部屋の扉は開いた。だがドアチェーンが引っかかって中へは入れない、十センチほど開いた隙間から中が見えるだけだ。射手は隙間越しに部屋の中から変態的な笑みを浮かべていた。ぞっとなった。俺が何も言えずにその場に立ち尽くしていると、射手は扉をわざとそのままにして奥へと戻っていった。
 玄関の空間以外何も見えない。奥から蠍に話しかける、射手の声が聞こえるだけ。

「蠍。山羊に、俺たちの関係を教えてやろうよ」
「そんなひどい顔するなよ。前からその顔大嫌いだったんだ」
「しよう。もう、他のやつらなんか放っておこう」

 部屋の中から小さくいびつな音楽がたゆたってくる。射手は変な音楽が好きだった。奴らはあの壁の絵も床の巨大な曼荼羅も放ったらかしにして憎しみを確かめあう。
 見た目だけは平凡な玄関の風景に奥から蠍のうめき声が漏れ出てきた。悶え苦しむような、押し殺したような声。「もっと声を出せよ」と命令する射手の声が弾んでいる。腰を振りながらどこまでも身勝手にそういうことを言っているのだろう。いかれていたのはどっちだったのだろう。引き離されたらお互い相手を憎むことができなくなる。蠍がどう思ったのかはわからない。射手はそれが嫌だったのだろう。
 相手の心など関係ない。ただ自分が欲しいから拘束する。いちばん身勝手で、それだけに、蠍を奪われたら泣き喚く。
 憎たらしくて、体を結合させながら離れられない。
「もう、めんどくさい。ほかのやつにおまえ会わせるのめんどくさい。山羊なんかつれてきた俺が馬鹿だったよ。もうお前ずっとここにいろ。俺がいてやるからさ。それで俺が飽きたらお前もう死んじゃえ。な? そうしな?」
 囁きながら射手の声が泣いているように聞こえた。あとはくどいほど支離滅裂、激しい喘ぎ声の繰り返しだった。

 俺は扉を閉めると部屋に背を向ける。射手は平凡な日常に飽き飽きしていた。あのままあの暗い部屋で蠍と逸脱を続けて、どこへ行きつく気なのか。当分どちらも死なないだろう。人間の体は頑丈だ。もううんざりだ。
 簡単に死ねると思うな。二人ともまともな生活を見下した挙句、いつかそれに気づく。自分は他人のせいでなく他ならぬ自分の怠惰のせいで死ぬよりも苦しい人生の日々へ堕ちたのだと。そうなってからまともに生きたいと懇願しても遅いのだ。最後に後悔すればいい。
 俺は帰る途中で酒を買い、家に着いてから泥酔するとぐっすり眠って、奴らのことを忘れた。


 - fin -

作品データ

初出:2007/-/-
同人誌『タンデム/重力』収録(※同人誌はR18)
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