牢獄は絹の手触り

 少年がうっすらと睫毛の揃った瞼を開けたとき、部屋の中には溢れる果汁のようなきらめく光と絹のようにやわらかく沈降した空気があった。見たこともない上品なこしらえの部屋はこじんまりとしており、嵌めこまれた窓の外を風景が横薙ぎに走っていた。
 がたんごとんと列車の走行する音が、齢六歳の少年にとっては聞き慣れなかった。

 ここはどこだろうと少年が不思議に思って寝台の中で頭を動かすと、横に人がいるのに気づいてびっくりした。枕元で椅子に座って新聞を読む姿に生き物の波動がない。白く、陶磁器のような冷ややかな手の指がゆっくりと新聞の荒紙をまくって音をたてた。
 二十代も後半に差し掛かった頃合と思われる眉目秀麗な男だった。男なのに唇に紅を塗り、赤みがかった光彩の瞳を伏せた瞼で半ば隠している。どちらかといえば優男である。文字を追っている時でも緩むことのない口元。少年はその居住まいに小さくふるえ、冷たいものへの憧憬と畏怖を感じ取る。
「うう……ん」
 自分が起きたよということを知らせたくて少年はちいさな演技をした。眠りから覚めたばかりの寝ぼけ顔をつくって、精一杯子どもらしくやわらかい顔で男と目を合わせる。
 こちらを見つめる男の表情は、世俗を離れておよそ感情というものを失いかけていた。
「おはよう」
「おはよう、ございます。お母さんとお父さんは?」
「君のお母さんとお父さんはもういない。君はこれから、僕とずっと一緒に暮らすんだ」
「え?」
 事態がわからずに布団の中で身を硬くする少年に、男は新聞を畳んでナイトテーブルから一杯のレモン水を差し出した。「どうぞ」と短く囁く声がまるで金管楽器のように響き、少年におそるおそる水を受け取らせる。少年は男を見つめながらコップに口をつけると、ちいさな口でそれを少しずつ全部喉へ流し込んだ。
「僕は水瓶。君は、魚といったね」
「うん。お兄さん何で知ってるの」
「君が自分でそう言った」
「......」
「君は僕があげた赤いセロハンの飴玉を食べただろう」
「うん」
「そしてその後僕と一緒に座っていたベンチでぐっすり眠ってしまったね。……じつはあの飴玉には僕の血液が入っていたんだ。君は僕の管理下で五十年眠り続けた。そして今日、ようやく、目覚めたのさ。どうして列車の中だと思う? 家で五十年もずっと寝かせていたら埃が積もってしまうし、どんな家屋でも古くなってしまう。ボロ家で目覚めたんじゃ高等人種としてあまりにも品がないだろう」
 冷たいワインの喉越しと、どろどろした鉄の苦味を持つ飴玉の味を魚はようやく思い出した。気持ち悪くてぺっと吐こうとしたものの口からはレモン水の香気しか戻せなかった。
 さまざまなものが、少年の頭から薄れて思い出せなくなっていた。
「君は吸血鬼になったんだ。高等人種と、僕たちの中では言い換えているけどね」
 遠い昔、お母さんに読んでもらった絵本に書いてあった話。吸血鬼は血を飲まなければ生きられない。日光にも当たってはだめ。
 水瓶と名乗った目の前の男は午後の日光の差し込む室内でバカンスさながらに肌を晒した格好をしている。微弱な違和感のあとで、呼吸の回数が普通の人間より遥かに少ないことに気づいた。魚は布団の中でけなげに自分の身を守りながらどうにか反論した。
「でも、吸血鬼はお日様に当たったらだめなんだよ」
「ああそうさ。でもそれは昔の話でね。とても時間が有り余っていたから、僕は暇つぶしに太陽の光をカットするクリームやフィルムを作ったんだよ。フィルムはこの部屋の窓に貼ってあるし、クリームは僕の体にも君の体にも、くまなく塗っておいてあげた。五十年間ずっと欠かさずに」
 白い木綿のネグリジェの下から薔薇と白粉を混ぜたような香りがほのかに漂う。魚は自分の体のなめらかさにびっくりして、初めて自分の全身が既に水瓶に触れられたものであると気づいた。
 まるでこの体が(小さな少年のそれは目の前の男のそれにはとうていかなわなかった)目の前の男のものになってしまったかのような。
「五十年だなんてうそだ」
「この部屋を出ればすぐにわかることさ。君は、あらゆる文明が進んだ夢の世界に招待されたんだよ」
 たったひとりで、人の縁が失われた孤独の世界に目覚める。少年は不安げに整えられた室内を見回した。自分と水瓶以外誰もいない。水瓶はそんな魚の姿を俯瞰しながら醒めた調子で話を続ける。
「どうしてそんな顔をしているんだい」
「おかあさん、おとうさん……」
「君は自分が五十年前に何を言ったか忘れてしまったのか」
「おぼえてないよ、そんなこと! そんなに時間なんか経ってないもん!」
 水瓶の赤みがかった光彩の目が無機質な冷たい光を帯びる。永遠に近い、あまりにも長い時間が彼の中から人間らしい澱みを奪ってしまった。涙を流すための温度すらこの男は失くしてしまったのしれないと魚はおぼろに思った。
 この男は、もう人間の枠外にいる。
「僕は覚えている。五十年なんて僕にとっては普通の人間が二・三歳歳をとるのと、変わらない時間だからね。だが君はまだ人間だったから忘れてしまったんだろう。愚かしいことだ。君は今、このときから下等人種だった過去にさよならを言うべきだ。
 五十年前の君は公園で泣いていたよ。お母さんが大声でぼくを怒るのが怖いと言って。そしてお母さんとお父さんが喧嘩をしていると言っていた。お母さんがお父さんをののしり、お父さんがお母さんをぶったと言った」
 魚は水瓶の言葉をうけて、もしかしたらそんなこともあったかもしれないと記憶の引き出しを開けようとした。引き出しはすっかり朽ち果てていた。中途半端に口を開けたまま、取っ手が腐ってもげた音がした。
 閉ざされた暗い家の中でぼくをつきっきりで怒鳴る黒い顔。ぼくの首は斜めにかしいだまま強張っていつもぶるぶる震えていた。でもそれを異常だとは思わなかった。それはぼくがあの家で生きていくために必要な動作だったから。だけど彼女はそれにもっと腹を立てて、しっかりしろと乱暴な言葉を口走ったんだ。そしてぼくが大切にしていたくまのぬいぐるみの耳を引き裂いてゴミ箱に棄てた。
「君はたった六歳で全てを忘れたいと願った。
 僕が吸血鬼だと打ち明けても、君は信じてくれたよ。夢の世界へ行きたいかって訊ねたら本当に嬉しそうにうなずいて僕の手をつないでくれた。だから僕は君にあの飴玉をあげたんだ。君を自由にしてあげる、本当の未来へ連れて行ってあげるって、そう言ったつもりだ」
「うそ……」
「嘘じゃない」
「うそだ!!

 少年はベッドを飛び出すとネグリジェ姿のままで部屋の出口へと走った。ドアの取っ手がない。代わりに取っ手のあるべき場所にあるクリア・プレートに手を乗せると、プレートが淡く光って音もなくドアが横にスライドした。おののく少年を外からの光が包む。通路の外にはシンプルな鉄製の柵があり、その向こうに透明なアクリルの層が張りめぐらされていた。

 風は丘で感じるのに近いそよ風だった。列車の通路で感じるものとは思えないくらいに。午後の太陽は少年の生きていた時代と同じ。通り過ぎる木々のざわめきも。だが遠くに間切る建築物は、少年の時代にあったものはみな劣化して朽ち果て、最下層のものになり、天にはその時代を超えて成長したビル群が太陽に棘を立て、不吉な影をおとしていた。魚は近くを走る流線型の物体に人間が乗っているのを見た。その乗り物の名前は魚にはわからなかった。
 茫然とする少年の後ろに、水瓶が静かに立った。そよ風に髪がゆれる程度だ。魚は彼に気づいても何も言えない。ただただ、目の前で起きていることを新しく吸収するので精一杯だった。
「これから、すぐに慣れる。君は二十年に一歳しか歳をとらない身体になったんだから。五十年の間に何が起きたかも後でゆっくり教えてあげるよ。
 君のお母さんとお父さんはもう七十歳をとうに超えた。しわしわの老人になってしまったんだ。幼稚園にいた君のともだちはもう五十歳以上のいい歳をした中年になっている。幼稚園の先生よりもうんと年上になってしまったんだよ。その意味が、君にわかるかな」
 水瓶に事実を告げられて、少年の身体はまだ絶望的に幼いままだった。男の話が本当なら六歳の体が八歳になる前に両親は老衰で死ぬ。昔の友達もほとんど死に絶えるだろう。魚が九歳になるころには、もう誰も。
「うそ」
「これが君の望んだ世界だ」
「うそだ」
 魚はその場に泣きじゃくろうとして、自分の目から涙が出なくなっていることに気づいた。目元にあてた自分の指が冷たかった。うそだと思いながら哀しい気持ちで泣き真似をしつづけると、水瓶の手が伸びて少年の身体を軽々と抱き上げる。
 少年を室内に連れ戻す男の目は哀しそうに、またどこか嬉しそうに遠くを見つめていた。少年もいつか気づく。この先、何十年にもわたって一緒にいられる相手がこの男しかいなくなってしまったことに。
「君が十六歳になるまで、二百年ある。それまでは僕が大切に面倒を見てあげよう。そして君は十六歳になったら僕と契りを交わすんだ。これからも悠久の時間を過ごしていく対等な仲間としてね」
「おうちに帰りたい」
「無理だな。君ですら五十年でほとんどのことを忘れてしまったんだ。脳細胞が磨り減って老人になってしまった君のお母さんやお父さんが、君のことをどれだけ覚えているというんだい。
 なによりだ。人間は二十年も歳をとらない化け物とは一緒に暮らせない」
 水瓶の言葉が氷のように魚の胸を刺した。
「君もすぐにわかる。あの下等人種の愚かさや、弱さが。下等人種であることの哀しみがね! 僕らはそういったものからは自由にならなければならないんだ。高等人種として、ありあまるほど与えられた時間を未来のために使わなければ」
 ──あの下等人種より遥かに長く生きる僕らは、彼らよりも遥か高みの科学・文学・あらゆる学問と文化を築くことができる。そうせざるをえないんだ。それが耐え難い暇をしのぐための暇つぶしであったとしても。
 滔々と語りかける水瓶の言葉を魚は聞いていなかった。少年は哀しくて、ベッドに再び座らされるまでのあいだずっと泣こうと泣き真似を続けていた。
 魚が両手で顔を隠してうつむいていると、水瓶は彼の前に一つのぬいぐるみを差し出す。やがて魚もそれに気づいた。色あせたくまのぬいぐるみはもがれた耳を丁寧に縫い直され、もとどおりになって彼の小さな掌に戻ってきた。
「君のお母さんが棄てたくまのぬいぐるみだ。これだけは君に返してあげる。大切に持っているといい」
 嬉しいはずなのに、もっと激しい気持ちがこみあげてくる。魚は哀しみから初めて怒りの表情を表に出すと、水瓶に向かって顔をあげ、幼い声できつく抗議した。
「どうしてこんなひどいことするの」

 感情をあらわにする少年に対し、男が浮かべた笑みの冷ややかさといったらなかった。温情ですら人間の温度ではなかった。眩しい光を背に受け、絵画のような、圧倒的な美しい微笑をたたえた男に少年は束の間目を奪われ息をのんだ。

「愛しているからさ」

 男の指が少年の髪を撫で、その細く柔らかい感触を楽しむ。永いバカンスが始まったばかりだった。少年は男の前で震えだすと、微かに赤味の残る頬をなぞられ、そのまま男の接吻を頬に受けた。


 - fin -

作品データ

初出:2008/4/20
同人誌『世界終了一ヶ月前/いつもの。』収録(※同人誌はR18)
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