スナック『火星』

 日付の境目を前にしたネオン街にはまだまばらに人々がふらついている。スーツ姿の会社員、家のあかりからあぶれた若者たち、そして素性の知れぬ者ども。終電が行ってしまっても一定数の人間はこのネオンの回廊から散ってゆけない。この眠らない街以外の場所では想像もつかぬ光景だが、街に店を構える住人たちにとって今はまだ一日の幕引きに遠い時間帯だった。
 誰にも会いたくないほど自らの中の闇がたちこめてしまったとき、獅子は全ての付き合いを断ってここに立ち寄る。スーツ姿で脇に抱えた鞄が重い。踏みしめる革靴はくたびれ果てて今にも端が擦り切れそうだ。どうしても酒が必要だった。煙草でも処理しきれなくなった苦味を溶かして飲み下すためにも。
 若者たちがカラオケや漫画喫茶にしけこんでゆくのを脇目に見ながら、メインアーケードから一本細道に入る。すぐそこに滴るような色の看板が蛍の如く輝いていた。

『スナック 火星』

 オーク材のドアを開けると薄暗い入り口にオレンジと紫の光が無数に輝いて客を酔わせる。トパーズとアメジストの代用品のようだと獅子は思う。小さな店内にタバコの匂いがシャンソンと一緒にしみついていた。
「いらっしゃいませ。──あ、獅子さん」
「おう」
「お久しぶりです。ママとボトルが喜びますよ」
 銀のトレイを片手にウェイターの牡羊が快活な笑顔を浮かべる。獅子はそれまでしおれ気味だった背中をつい前に張って笑ってしまう。限界ぎりぎりまで習慣でやってしまう癖というものがある……このウェイターの陰のない気質は元気な時だとつい宴に混ぜたくなるほど気に入っているのだが。
「カウンター席空いてるか。できればママの前」
「隅がいいですか」
「ああ。わかってるじゃないか。勉強したのか」
「いや、いまそこしかカウンター空いてないから」
「ひとこと多いんだよ」
「すいません。また獅子さんの教えをきかせてください。どうぞ!」
 牡羊は獅子とのやり取りに活きのいい声で応じる。六席しかないカウンター席には中年のカップルと会社帰りのグループ客が三人詰まって座っていた。どうせ見たことがないしこれからも会うこともないであろう相手だ。獅子は両肩のしぼみもつま先に落ちたため息も隠さずにカウンターの奥の席に座り、鞄を置いてカウンターの向こうにいるママの姿を眺めた。
 圧倒的に美しいだった。ただ、どんなに光り輝いていてもそれは夜の中でしか映えることができない。太陽の光の下におけばその水商売向けの化粧の濃さは滑稽だし、ほんとうは男だという事実もいびつだし、牡羊とくらべて斜陽を迎えている年齢も醜い影をおとす。獅子は自然の日差しの下でママがどうしようもなく滑稽な姿を晒すのが哀しくてたまらない。情が濃すぎるのも問題だった。ママは、夜を彷徨う本当にどうしようもない連中、半端に腐った救われない連中の暗闇まで愛してしまって、結果日差しの下に戻ることを諦めたように見える。
 ──結構肩幅あるのをファーでごまかすとこも俺は好きなんだけどね。ママ。いつもどこから調達してくるんだいそんな綺麗な服。そんなものなくてもママは綺麗だよ。夜だけなら。この世がずっと夜だけだったなら。
 ──ああしかし、俺がそんな風にほめるとママは怒るんだよなあ。俺が嘘をついているように感じるらしいんだなあ。俺としては、自然に賛美しているつもりなんだが。
「ママ」
 獅子がぼそりと隅でつぶやくと、客と談笑していたママが夜色の瞳をこちらへ向けた。本当に疲れきってまとまった時間もとれないとき、幽霊のようにこの優しい瞳が浮かんでくる。獅子はまるで母親を見出したような安らかな微笑みをママに見せた。そのままカウンターにもたれてママがくるのを待っていた。ママの声が聴きたかった。
「獅子ちゃん。お久しぶりね。元気してた?」
「俺が座ったのに気づいてくれなかった」
「まあ。気づいてたわよ。妬いたの? 相変わらず可愛い坊やなんだから」
 獅子がいくつ我が儘を言ってもママなら受け止めてくれる。獅子は微笑すると急に喋るのもおっくうになって、キープボトルの中身をロックで頼んだあとは酒をちびちび口にしながらうつむいてしまった。ママはそんな獅子の姿を見てとると賑やかな他の観客の世話を牡羊にまかせ、自分は獅子の前に立って静かに酒をつくる。獅子が煙草を咥えればライターを差し出して火をつけ、時折自分のためにこしらえた水割りウイスキーを舐めた。二人の間でバカラグラスが透明な汗を玉のようにこしらえ、シャンソンを背景に何重にも小さな光をまとった。
「獅子ちゃん。何かあったのね」
「……」
「獅子ちゃんはお酒の本当の味を知ってるいい男よね。今日はいいお酒が飲めそうだから、私も一緒に飲ませて」
「……まずい酒だよ」
 確かめる獅子にママは無言で微笑みながらうなずいた。震えがくるほど酒を美味くするだった。ママ本人がそんな心の在り方を望む限り、そう思って愛そうと獅子は思った。
「三年ぐらいかな。可愛がってた後輩がいたんだけど」
「うん」
「会社の金持って、逃げた」

 怒り狂って、火を吐いて暴れまわったあとに去来したのはとてつもない虚しさ、痛みだった。獅子はどうしても暗闇の中へ逃げることができない。頭ではわかっていても、心では暗闇の中に逃げてしまう人間の気持ちを理解することができない。そのことが自分で痛い。大概はわかりたくないと一刀両断して省みることもないが。
 逃げた後輩の後始末のためにここ数日ほとんど家に帰っていない。部署の人間たちの前で胸を張り、信じる持論を語り、周囲を鼓舞しながら働き続ける。ときどき首をもたげる絶望の隙間を見ないようにしてここまで必死にやってきたつもりだった。
「ほんとに今思い出しても腹が立つよ。俺はもう二度とああいう類のヤツには金は触らせないね。うんざりだまったく!」
「見つけ出して損害賠償請求したほうがいいんじゃないの?」
「そうだなぁ。見つかったら。顔も見たくねえって気持ちのほうが強いけどな」
 喋りながら荒くなった自分の語気に気づいた。燃え上がりかけた火が、不意に燃料切れを起こして消えてしまう。怒るだけなら誰が相手でもできる。だけどせっかくママが目の前にいるのにそんな時間の過ごし方をしてしまうのは、獅子にとってはやるせなかった。
「ねえママ、俺は昔っから周りにガキだの生意気だの言われてきたけどさ。俺はこんな酒の味がわかる大人にはなりたくなかったんだ」
「うん」
 これが、どんな酒なのか。獅子はママに対してさえも口に出しては説明できなかった。子供っぽくわかりたくないと繰り返すのも意地からくる抵抗だった。
「だってそうだろ。いちいちそういう犯罪だのズルだのに理解をみせてたら、正直者や頑張ってる奴が馬鹿をみることになるじゃないか。俺はそれはなんか違うと思うんだよ。そういう、ガキでもわかることを大人になっても守り通そうとするのは、なんかおかしいのかね?」
「おかしくない。ただ、口にするのがどんどん難しくなってゆくだけね」
「そうだろ」
 それでも日々は過ぎ、世間は廻る。
 獅子はその事実にぶちあたるとき息が止まりそうになる。昔なら胸の痛みに耐え切れず世間に反逆して、独りになって、周りに迷惑をかけたのだろう。今ではそうすることもできない。自分の脳みそがゆるくなってしまったからだ。祝福すべきことであるのと同時に、過ぎ去った若さへの喪失感も感じる。
 握り締めていたグラスの中で酒がわずかにぬるくなった。舌に乗せても苦すぎるだけで旨味がない。身をさいなむように啜る。意識が酒に溶ける。
 人生の味。

「俺は逃げた後輩を許さないよ。奴はやっちゃいけないことをやったからな。でもな。そんなことが起こる前になんで俺を頼ってくれなかったんだとか、俺は俺なりに精一杯奴を育てたのになんでこんなことになってしまったんだろうとか……何か間違ったのか? とか。
 ちょっと立ち止まった時に考えるんだ」
「わかってあげたかったのね。後輩さんのこと」
 獅子は情け深いママの憂い顔を正面から見上げた。艶めく髪の下からこちらを一途に心配しているママの瞳。それから大人らしく、苦笑しながら乾いた両目を閉じて首を横に振った。
「いや、俺は多分奴を解れない。しょうがないんだよ」
 奥歯をかみ締めるような長い沈黙があった。獅子はそれ以上はもう何も喋らずに、カウンターで寝るまで酒を口に含み続けた。



 しょうがないんだよ。いろいろ。
 もし獅子を知る人間が彼のそんな台詞をきいたなら、口には出さずとも悲嘆にくれただろう。他の人間ならともかく、あなたにだけはそんなことを言って欲しくなかったと。獅子は大人になった。そしてこれからも彼は人々の前で威風堂々と振る舞い、大いなる理想を語り、挫けそうになったときには人に隠れて独りで酒を呑むのだろう。
 眠らない街に冷たい朝日が差し込み、始発の電車で人々が去って街は静かになる。獅子はママの手でようやく起こされると昨日のスーツのまま店の外に出た。大きく深呼吸して朝の空気を吸うと、彼の中にはまた本来の陽の気が戻ってきた。
「牡羊ちゃんも返しちゃったから、もう店には入れないわよ。諦めてお仕事にいきなさい」
 店の看板を片付けるママの前で獅子が眠い目をこすりながらむくれる。朝日を浴びるとママの顔はやはり化粧が濃く見えた。夜の光で彩っていたベールが、ことごとく剥げ落ちる。
 子供のときならその姿をおかまと指差して笑っていたかもしれない。そんなママの滑稽さが今の獅子にはおおらかに許せるものに見えてならなかった。
「さそり」
 看板を店の中に置いたママの足が止まり、アイシャドウを塗った目がこちらを見返した。情が深くて嘘が好きじゃない。獅子流の賛美の仕方が、どうにも肌に合わぬらしい。
「ちょっと、そのへん散歩しないか。酒もいいが朝の空気も心の健康にはいい」
「子供に石投げられるわよ。朝から私みたいなおかまと歩いてたら」
「そりゃいくらなんでも卑屈すぎないか! 綺麗だよ。ママは」
「さっき私のこと名前で呼んだわね」
「呼んでみたかった。いや、悪くないぞ。これで結構愛おしさが増す」

 弱い自分を夜の光で護り、なぐさめてくれたお返しに。
 獅子はママを太陽の光で照らしたいのだった。いつか化粧をしていないママを見てみたい。そしてそれを愛せるほど器のでかい人間になりたい。太陽の光の下でも素のママは美しいと、本人に自ら再定義してもらえるような。そんな明るさを与えたかった。
 朝の光を忌避するようにして店の中に隠れていたママが、獅子の顔をうかがう。やがてそこに許すような微笑みが浮かんだ。獅子が我が儘をいい蠍がそれをさせてやる相互関係は店の営業時間が終わってもなお適用されているようだった。


 - fin -

作品データ

初出:2009/7/28
同人誌『太陽の色彩/ならずものたち』収録
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