vanilla

 暖かい春風が吹く喫煙所代わりのオフィスバルコニーで、二人の男が煙草をふかしている。とある企業ビルでの昼休みのことだった。
「大体だな、あいつはいっつもニコニコしてるくせしてほとんどの人間に心を開かないじゃないか。ほとんどって所がミソな。一人か二人の人間には素を出してて、見ててその辺がわかるから余計に腹立たしいっていうか……ああ要は俺が嫌いなんだろ?って結論に行き着くわけよ。
 嫌いなら笑ってなきゃいいんだ。そうしたらこっちだって悪いところの改善のしようもあるのに。ああ腹立たしい」
 蟹が煙草をふかしながら毒づくのを、乙女は咥え煙草を噛みつつ聞いていた。見下ろした通りには梅の並木がぬくぬくと薄い象牙色の蕾を膨らませている。香りの氾濫する時期がくるな、とこの場に関係ないことをふと考える。
「単に社交辞令だろう、それは。お前は好き嫌いが激しいな」
「ああ。どうせ好き嫌い激しいですよ。だが俺だって最初から嫌いだって決めつけてるわけじゃないぞ? 俺だって最初は誰とでも仲良くしようとしてる。
 みんなに心を開いてほしいんだよ俺は。それを天秤のやつは」
 蟹の煙草の銘柄はキャスターの七ミリグラム。乙女の吸っているハイライト・メンソールの十ミリグラムと比べても軽めの煙草だ。ラム酒風味の甘い煙草を吸っている身で他人のことをとやかく言う気はないが、それでもキャスターのバニラ風味は甘いと乙女は思う。
 二人の同僚である天秤はパーラメントの一ミリグラムを吸う。だが喫煙室代わりのこの場所には来ない。おそらく他人が居るとリラックスして吸えないクチなのだろう。
「あいつも煙草呑みなのにここに来ないし。気取ってるにも程がある」
「他人と居るとくつろげないタイプだと俺は思っていたが」
「……そうかもしれんがやはりあの笑顔が胸糞悪い」
「男が感情論でぶちぶち言うのもたいがい見苦しい」
 眉間に皺を寄せながら閉口する蟹に「ほどほどにな」と言い置くと、乙女は吸いきった煙草を缶の灰皿に潰してその場を後にした。



 基本的に「皆と仲良くしたい」という欲求において、蟹と天秤は似通っている気がするのに。表現方法の違いが双方にとって許しがたいズレを産んでいるのだろうか。
 三人は文具メーカーの同じ部署に勤めていた。新製品開発プロジェクトの進行にあたってこの二人の不和はあまり喜ばしいものではなく、乙女はどうしたものかと蟹に愚痴られるたびに肩をすくめている。仕事に私情など差し挟む必要はないと乙女は思う。思うのだが、はたして天秤はともかく蟹にその感覚が伝わるかどうか。
(あちらを立てればこちらが立たずか)
 蟹はチームの中でもとにかく気が細やかで面倒見がいい。居心地の悪い職場にいい製品は生まれないというのが信条で、男たちの中に蟹が一人居れば下手な女性社員よりもずっとその場の雰囲気を潤してくれる。効率優先型の乙女でもその点は買っているし、友人として悪い気はしない。
 あえて欠点を挙げるなら、奴はいろいろ気がつく分好き嫌いが激しいのが玉に傷だ。蟹は誰に対しても愛情過多の傾向がある。馴染める奴はいいがそうでない奴との距離のとり方が極端で、愛情を受け取らない人間を即刻嫌ってしまうところが大人気ない。気を許した人間に愚痴が多くなるのも短所だ。──自分はどうも他人のことを批評しすぎるなと自己分析しながら乙女が歩いていくと、オフィスではもう一つの紫煙が薄く窓際にくゆっていた。

 天秤がパーラメントのロング・ボックスから煙草を取り出す仕草は優雅で、それでいつつどこか怠惰なものを感じさせた。他の人間は外出中だ。いつも万人に見せている隙のない笑顔とはひどい落差がある。
 乙女は一人で煙草を吸う天秤を見とがめながら、あえて気づかぬふりをして自分の席に戻ろうとする。
「あ、ごめん。外で吸ってくるよ」
「別にいい。薄いから気にならん」
 天秤が乙女に気づいて慌てるのを軽くあしらった。パーラメントのタールは乙女の煙草の十分の一だ。見ていて吸いなおしたくなったが、オフィスの他の人間のことを考え彼は喫煙を控えた。天秤は乙女の顔を見ると苦く微笑した。これも彼にしては珍しい顔だった。
「ごめん」
「……蟹か? バルコニーにいるが」
 天秤は曖昧な微笑を乙女に向けたまま煙草を味わっていた。やがて煙草を手に持ち、長くふかしていた煙を大きく窓の外へと吐き出す。
 彼は乙女に対しては誰の悪口も漏らさなかった。礼節を下敷きにした少し遠い距離感を守りつつ、煙草の煙が生み出す時間に甘えている。
「僕、蟹さんに嫌われてるよね」
 単純にそうだと即答するのもためらわれて乙女は黙っていた。天秤は優等生面で微笑をたたえたまま眉間に軽く皺をよせ、どんな顔をしたらいいのかわからぬ様子で顔を窓の外へと背けた。
「正直ここまでもつれちゃうとどうやって修復したらいいのかわからなくてさ。喧嘩も僕の柄じゃないし。八方美人なところが嫌われちゃったのかな、推測しかできないけど。
 本人に嫌いかって尋ねたらはっきり嫌いって言うんだろうね。あの人」
「修復はしたいと思ってるのか」
「うん。なんで嫌われたのか、決定打があるなら何とかしたいと思ってるんだけど。蟹さんに嫌われると、この部署では居心地が悪い」
「決定打どころか具体的な理由があるのかどうかも怪しいな」
 天秤はこんなときでもマイルドに微笑んで、実態よりも何割か上の余裕があるように見せる。流暢に喋っているように見えてその実この男は自分や蟹よりも本音を出さぬ、寡黙なたちなのではないかと乙女は感じていた。
 蟹もおそらくこの男の仮面じみた態度がいけ好かないと思っているのだろう。
 逆に天秤のほうは理性で人間関係を割り切れない蟹という男が扱いづらいようだ。

 どちらも仲良くなりたいバニラであることに変わりはないのに。

(乾いたバニラと湿ったバニラか)



 変わったばかりの季節を告げるように窓からは新しい風が吹き込んでくる。それなのにオフィスの空気は連日停滞して澱んだまま。掲示板に貼られた新製品開発プロジェクトのタイトル文字が白々しい。
 やっていられないなと思って乙女は窓際にいる天秤の脇へと歩いていった。懐から取り出したハイライト・メンソールのパッケージはいつ見ても若干少年っぽい。
「あー、乙女さん?」
「ほっとけ。人が来る前に消す」
 乙女は自分の煙草を一本取り出すと口に咥え、慣れた仕草で火をつけた。ラム・メンソールの爽快な風味が口から鼻へと抜けていく。充分吸った感じがあっていつも美味い。
 二人で会話もせずに煙草を呑みながら午後の陽だまりに漬かっていると、やがてバルコニーから戻ってきた蟹がオフィスの入口で足を止め、不機嫌そうに片眉を上げた。
「蟹。お前もこっち来て吸え」
 乙女が煙草のフィルターを噛みながらふてぶてしく言った。いつもなら天秤を無視する蟹も乙女に言われては渋々付き合わざるをえない。
 蟹は自身と天秤との間に乙女を挟む形で窓際に立つと、乙女にだけ話しかける形で懐からキャスターを一本取り出した。
「禁煙だぞ、ここ」
「わかってる。一本だけだ」
 付き合いで煙草に火をつける蟹の口腔にはバニラの香りが広がっているに違いなかった。窓にしなだれかかるおのおのの姿勢のだらしなさが学生時代を思い起こさせる。煙草は男の牙城──同性のみのたむろう、くつろいだ場の雰囲気の中で乙女は不良っぽく煙草を真上へふかした。
「蟹さんは煙草なに吸ってるの?」
 細心の注意を払った朗らかな声で天秤が蟹にたずねた。聞いていて怯えが隠れているとわかる声。乙女は天秤の振り絞った勇気を内心で称えながら横目に蟹の反応をうかがう。蟹はあからさまになんだこいつという視線を天秤に向けながら、ぶっきらぼうに煙草のパッケージを見せる。
「キャスター。おまえさんは?」
「ああ、僕はパーラメントワン」
「高いな。おまけに気取ってる」
「そうかな。……雑味がなくて好きなんだけど」
「人のこといってるがお前のキャスターも大概甘いと思うぞ。蟹」
「ラムメン(ラム・メンソール)なんてイロモノ吸ってる奴に言われたくないよ!」
「何だと……?」
「まあまあお二人とも。キャスターって甘いんだ?」
「甘いよ。バニラだから」
「もし良かったら、一本試しに吸わせてもらってもいい?」
 蟹が不機嫌そうにしているのを極力見ないようにして、天秤は自分のロング・ボックスからパーラメントを一本蟹に向けて差し出した。交換しようと言っているのだ。蟹は一度は断ろうとしたものの、思いなおしたのか自分からもキャスターを取り出して煙草を一本ずつ交換した。
 長さの違う煙草を味わおうとする天秤の動きはいつもより不器用に見えた。
 蟹は自分のキャスターをまだ吸ったままで手元のパーラメントを弄りながら天秤の様子を見つめている。天秤が整った目元を軽く伏せ、ゆっくりと短い煙草を味わう。
 煙を吐き出すなり、天秤の眉間からはごくわずかな皺がほぐれて消えていった。
 遠くにうぐいすの啼く声が響いた。

「美味しいね。これ」
 束の間、彼のくつろいだ声が笑顔に伴って垣間見えた。彼の顔を見たせいか蟹も気抜けして、気がつくと不機嫌というより拍子抜けした顔になっている。天秤は綺麗にキャスターを一服し終えると礼を言おうとして蟹の顔に気づき、あろうことかはにかんだ微笑みを浮かべて頭をぺこりと下げた。
 何か言おうとした蟹の表情にみるみる甘酸っぱいものがふくらんだ。
「蟹さん、ありがとう。美味しかった」
「……。ああ。まあ、別にいいけど」
 蟹は硬くうつむいて窓にもたれ、天秤からもらったパーラメントを口に運ぶ。上品だが薄くてもどかしい味。あと一歩できっかけが掴めそうなのに蟹は意外と頑固である。乙女はそんな友人の姿を見つめながら、これは案外いい塩梅で運ぶかもと双方の顔を見比べた。
 キャスターのバニラを賞賛しながら天秤の顔は嬉しそうだ。蟹を前にして、あまつさえその頬には上気した初々しい赤らみさえ浮かんでいるように見えた。

(ん?)



 ……いけそうかな?
 そう思いながら、天秤と蟹の態度に少々の新たな違和感をおぼえる乙女であった。


 - fin -

作品データ

初出:2008/2/25
同人誌『太陽の色彩/ならずものたち』収録
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