テイクアウト

 とりあえず男のバックボーンは服屋だった。
 一人の人物を紹介するにあたって手っ取り早い材料の一つがその人物の職だろう。首都の一角、ファッションに敏感な若者がたむろうことで有名な街の一本裏に入った通りに男の友人が開いたショップがあって、男はそこで接客と服の手直しを兼務している。扱う服は十代後半から二十代・三十代向けの女性服。店主の趣味に合わせてあまり派手目のものはなく、どんな女性でも着られるような上品で落ち着いたライン・色調のものが中心になっていた。
「双子。今話をして大丈夫?」
 閉店後、ライトの下で手早く業務用ミシンを回す双子のところにオーナーの天秤がカタログを持って顔を出した。双子は一旦ミシンを動かす手を止めると視線を相方のほうに上げ、やや早口気味に「どうした?」と答える。
「前に話をしてた、お前のブランドのことなんだけど」
「ああ、あれね」
 冗談交じりに笑みをこぼすと、天秤がまんざらでもない顔で柔和な微笑みを返してくる。店を開いてから商売は順調だった。ビジネスが絡んでもごたつくこともなく二人はここ数年ウマの合う関係を続けている。
「お前さえやる気があるなら、少し店の中にスペースを作ってお前の服を置くところを作ってもいいと思ってるんだ。いつ頃からやるかはそっちに任せるけど、どうかな?」
「マジですか」
「マジです」
「俺ちょっと遊んじゃうよ?」
「いいよ。プロらしい売れる品物を作ってくれるならね」
 双子が口笛を吹く。すぐに心底嬉しそうに破顔した。都内で自分の作った服を売れる日が来たのだ。流行を読んだ服をたくさん作ってやろう。それで口コミに上ればしめたものだ。
「よろしくおねがいします。オーナー」
「こちらこそ」
 双子は天秤と固く握手を交わすと鼻歌交じりにまたミシンを動かし、翌朝仕上げの服だけを手直ししおえると丁寧にアイロンをかけてショップの袋に入れ一日の仕事を終えた。

 店に残って最後の経理作業をしている天秤の横で、双子は私服を夜遊び用のものに着替えてバッグからコンタクトの入ったケースを取り出す。
 滑らかな保存液に浸されたグレーのカラーコンタクトを目につけると、それまでごく一般的な茶色だった瞳の光彩に透明感のあるグレーの色彩が上から足された。ロッカーの鏡に向かって微笑む。適度にカラーリングされた髪の毛にそれがまたよく映えた。
「クラブ行くの?」
「うん。明日休みだしね。今夜は一晩中踊ります」
「気合入ってるね」
「遊ぶために生きてるからね。俺」
 財布、携帯、水分補給用の小さなペットボトル、ミニタオル。スニーカーに合わせたカーゴパンツのポケットに必要最低限のアイテムだけを押し込んで細いシルエットのサングラスをかけた。
 双子は天秤に仕事上がりの挨拶だけするとすらりと伸びた足を気ぜわしく進めて近くの駅へ向かった。天秤の店は一本裏通りであることを除けば立地条件がとてもいい。駅からも比較的近いし、双子が常連にしているクラブにも地下鉄経由で駅三つの距離だ。都内の地下鉄がほとんど寸刻みに駅を構築していることを考えると、直接歩いても一時間以内には着くかもしれない。
 クラブには学生時代から金と余裕さえあれば通い詰めている。慣れきったものだ。人の波とネオンを切り分け、いつもの場所でクラブへの階段を下りると鬱蒼とした通路内にある匂いが漂ってくる。煙草と香水、そして人の汗から出るフェロモンを十二分に含んだ匂いである。



 双子が階段を下りて地下のクラブへと入っていく一方で、少し離れた高級クラブ──こちらはあくまで庶民にとって接待向けの会食店だった──そのクラブの前では、これといって特徴のないスーツを着た若い男が手配したタクシーを横にして取引先の役員へ愛想良く頭を下げていた。あまり酒に強くない身でも取引先に勧められると酒を断れない。赤くなった顔を深々と下げて目立たぬようにし、かろうじてボロを出す前に相手に気持ちよくお帰りいただくことができた。
 タクシーが路地の果てに見えなくなってから男はようやく愚直に下げっぱなしだった頭を上げ、肩の荷を下ろして酒臭い息を宙に吐いた。隣で頭を下げていた上司も先に会計は済ませたものの、酒のせいで妙に気が大きくなっている。
「あぁ~、山羊、お前もまだまだ飲まないと駄目だな。酒のせいで黙ってるんじゃ相手方の気分もよろしくないぞ」
「……はい」
「俺らだけでもう一杯いっとくか? とっくり接待の極意を教えてやる」
「いいえ、すみません。正直もういっぱいいっぱいで、吐きそうです」
 山羊と呼ばれた若い男は次の酒盛り場を探す上司に必死で懇願し、どうにかその先の付き合いを勘弁してもらった。取引先の接待だけでも気を使ったのにこのうえ一対一で上司の接待までする体力がない。
 夜風のせいだろうか。それまで赤かった山羊の顔が急に真っ青になり、山羊が口を押さえて近くの電柱の陰へうずくまった。上司もようやくそれで諦めた。山羊はおざなりに背中をさすられた後その場で開放され、上司が上機嫌のまま一人で帰るのを頭を下げて見送った。
 吐いて楽にはなったものの、虚しさが胸をよぎる。いつ景気の煽りを受けて傾くかもわからない企業の中で、上へ昇り詰めるためにやり過ごす灰色の日々。
 男の人生とはこういうもの。そんな使い古された定義の中をたゆまず辿るのが多分自分にとって一番楽な道だから、そうしている。今いるこの街だって若者向けの娯楽施設がゴマンとひしめいているのに、自分は青春時代からそのどれにも大して縁が無かった。

 明日は休み。だが自分は自宅で眠って家事をやるだけ。
 若々しいネオンの下を楽しそうに歩く人々の姿がどれも遊び慣れているように見えて、ふとこのままでいいのかと立ち止まる。たまたま自分の側を通ったスーツ姿の通行人がそのまま地下のディスコに下りてゆくのを目にして、魔が差した。
 ──ああ、ディスコって言い方は古いのか。クラブ? って言うんだっけ。
 語尾を上げた発音になかなか慣れない。自分に手の届かないようなお洒落をしないと入れない場所だと思っていたから、スーツで入れることにまず驚いた。
 少しだけ、覗くだけならありだろうか。料金を見てみると映画一本か二本分で済みそうだ。笑われないだろうか。まずそうなら酔っているふりをしよう。実際酔っている。
 山羊は酒の勢いを借りてクラブへの階段をよろめきながら下りていった。入口でIDチェックを求められ、背広のポケットから免許証の入った財布を段取り悪く取り出す。ドリンクのチケットを手渡され華美にライトアップされた通路を通っていくと、その先のホールで空気を掴んだ巨大な重低音に心臓が飛び出しそうになった。トランスという種類の音楽だろうか。
 自分より先に入ったスーツの男はもう見失ってしまった。死ぬ思いでどうにかバーまで行ってドリンクを頼み、渡されたカクテルをもてあまして壁際に逃げこむ。
 ステージの上ではサングラスをかけた若い男が踊っている。長時間のダンスに適応するため細く無駄なく引き締まったプロポーション。体の動かし方をわかっている男の身のこなしが、地味な男の胸に羨望を呼び起こす。

 踊り狂う。終わりのない光とトランス・ミュージックの爆音の中で。
 山羊は暗がりの中、人々の輪郭に隠れるようにして壁際から双子の熱狂的なダンスを眺めていた。何もかもを忘れて純粋に遊び狂うということを知らない山羊にはサングラスをかけた双子の姿が異人種のように見える。自分のほうがTPOに合っていないのはわかっていた。気休めにくたびれた背広を脱いで小脇に抱えても、ネクタイを外してもなお白いワイシャツにカクテルのグラスが合わない。
 熱気と香水と煙草の混じった甘苦い空気が山羊の胸をぞわぞわさせてたまらなかった。もう少し遊び向きの服さえ着ていたら自分もあの踊りの集団に混じって挑戦していたかもしれない。山羊は食い入るように暗がりから双子を見つめる。曲の合間に双子は忘我の域から戻ってペットボトルに口をつけ、そこから、ふと壁際のワイシャツ姿の男に興味をひかれた。
 山羊がこちら側へ混ざりたそうにしているのをその表情から一瞬にして察してしまう。双子は次の曲が始まっても踊りださず、踊る人々の群れから出て山羊の顔をじっと見つめた。
 ──何もかも違う相手なんだ。
 互いに、新鮮なものに惹かれる思いを胸中に抱いていた。双子はサングラスの中で笑う。新しいものを知りたいという気持ちは遊びの原点だと思う。相手が遊び上手でなくてもよい。本当に先が読めない相手であることがスリルの混じった興奮の元になる。
 盛り上がった心を沈降させないようにトランスがとめどなく空気をかき回している。双子はステージを後にすると汗を拭きながら山羊の前にまで歩いてきて、彼の目の前でサングラスを外した。ステージからの間接光にグレーがかった瞳の光彩が閃いた。
「お兄さん、一人?」
「え?」
「あー……えーと、よかったらそこで飲まない? 退屈そうにしてたもんだから」
「何で俺が」
「弱ったな。一応ナンパしてるつもりなんですけど。いや用事あるんだったらいいんだけど」
 苦笑を浮かべる双子に山羊はあからさまに挙動不審な動きをとった。どう動いたらわからない。意味もなく上下左右にゆれ、それから現状を整理する。
「……俺は男なんだが?」
「うん、見ればわかる」
 双子が噴き出したように笑う。屈託のない笑顔に汗のしみたシャツが同性から見てもセクシーだった。山羊は小脇に抱えた背広とネクタイを安全毛布のように胸元にやりながら意識もしないうちに浮ついた声を出した。
「ここは、そういう場所なのか」
「クラブで面白そうな奴と意気投合して何が悪いね?」
「だって俺、これ……背広」
「うん。会社帰りなんでしょ。クラブ初めてですか?」
「あ、うん。はい」
「楽しいでしょ。見てるだけでもいいけど踊ったらもっと楽しいよ」
 喋りながら音楽にあわせて体を小刻みに揺らす。しばらく続けていると、双子を見ていた山羊もテンポを外しながら彼なりに体を動かし始めた。双子が山羊の具合を見ながら単調な動きを繰り返してリズムを整える。山羊が下手なりに双子に同調して体を揺らすタイミングを合わせてくる。
 爆ぜるように時折ステップを混ぜる。腰と足首の柔らかさが際立った。山羊がそのたびごとにもたついて双子を苦笑させた。もう少しスローテンポなジャンルの音楽ならその日のうちにダンスを合わせることもできただろうが、あいにく今夜は朝までハイテンションなユーロ・トランスばかりが続く。
 二曲ほどテンポをあわせて二人で踊ると、双子は山羊の袖を引いてバーへと歩きだした。楽しむのに理由は要らない。どの道が一番楽しいか、それが行動を決める全てだ。

 強めの酒をあおりながら二人で何を話したかはあまりよく覚えていない。軽い会話を交わしながら互いの服の下を生々しい目で透かし見る。くたびれたワイシャツとスラックスに包まれた山羊の体は双子のそれに比べて内部筋肉の量に欠けていたが、遊び慣れた双子にはない真面目な仕事人間の苦みばしった色気を持っていた。
 セックスしようとストレートに言えない面倒さ。双子にはそれもむず痒さを伴った楽しいやりとりに感じられる。
「大分酒回ってるみたいだね。眠い?」
「……」
「ウチに来る?」
 山羊が酒のまわった頭で流されるようにうなずく。双子はノリで山羊と肩を組むと崩れそうになる山羊を引っ張りあげ、クラブを出て外の風に吹かれながら近くのタクシー乗り場へと向かった。



 深夜タクシーに乗りながら自動販売機の緑茶を二人であおる。山羊の酔いは双子の家に近づくにつれ醒めていった。もう泥酔して前後もわからないような状態ではないのに、山羊は双子の隣に座ったまま黙っていた。
 このまま双子の家に行くかどうか迷っている。沈黙しているときに滲み出るこの山羊という男の真面目さが双子には怖くもあり、刺激的でもあった。
 山羊にとって、自宅と会社を往復するだけの生活に割り入ってきたこの体験は逃れがたい誘惑を放っていた。双子の存在は灰色の心臓に七色をつける──出会って、会話を交わして、ただ隣に座っているだけでも。
 翌日の心配はいらない。二人は双子の住むマンションの前でタクシーから降りると階段を上り、揃ってエレベーターの自動ドアをくぐった。狭い箱は一気に高度を上げる。何か話す間もなく、双子と山羊は双子の部屋の前にまで辿り着いてしまう。
「ようこそ。俺も明日は休みだから、気にしないで休んでいって」
「……おじゃまします」
 ドアを開けた双子に山羊がおずおずと招かれて入る。中に入って何をするか言わないあたり双子はずるく、山羊もずるかった。双子の部屋は生活感を残す程度にさっぱり片付いており、クローゼットまわりに双子の作った女物の服が掛けられている以外にはかなり整頓された印象を与えた。
「彼女か誰かと暮らしてるのか」
「え、何で」
「服が……」
「ああ、それ? 俺さ、女の子向けのショップで働いてるから。それは店で売るの」
「全部自分で作ったのか」
「そうだよ。あんたも彼女なり奥さんなりいるなら、そのときはどうぞご贔屓に」
 双子は山羊に背広用のハンガーをすすめてから台所に立ち、手早く湯を沸かす。山羊はワイシャツ姿のまま居心地悪そうにテーブルの前に座っていた。
「あの、双子さん」
「呼び捨てでいいよ。なに」
「双子は彼女は?」
「いないよ。今はフリー。あんたは?」
「独り身だ」
「仕事忙しいっしょ。サラリーマンは」
「……まあ、そういうものだとは思うが」
 ぼんやりしている山羊の視界に双子の手が緑茶の湯飲みを置いた。昇る湯気から緑の芳香が鼻腔をくすぐる。山羊が双子の顔を見上げると双子がグレイッシュの瞳で微笑んで「どうぞ、粗茶ですが」とおどける。山羊は礼を言って茶をすすり、酒気の混じった息を深く吐いてそこから双子が洗面所へ歩いていくのを見送った。
「俺さ、あんたの真面目そうなところに惹かれたのね。遊び慣れてる奴と遊ぶのもラクなんだけどさ。真面目な人とも一度話してみたかったっていうか。……俺みたいなチャラい男って苦手かな?」
「あ、いや。正直あまり話をしたことはないが」
 双子が一人洗面所の鏡に向かいながらカラーコンタクトを外し、洗浄液の中につける。裸眼にさした目薬が眼球の裏にまでよくしみた。山羊は戻ってきた双子が自分と同じ素の瞳になっているのに気づくと、肩の強張りを少しゆるめた。
「目の色」
「うん、カラコンつけてたから。もう取ったよ」
「面倒じゃないか? そういうの」
「全然! 楽しいし」
「俺はそういうのつけたこともないし、髪染めたこともない」
「コンタクトつけられるならやってみたら」
「いや、コンタクトは怖い」
 不意に目と目が合って言葉が途切れる。
 山羊はまた挙動不審になったかと思うと空の湯飲みに口をつけた。双子が照れながら笑う。大分酔いが醒めたとはいえ双方アルコールが抜けきれていないようだ。
「パジャマ貸すから泊まっていきなよ。もう遅いし」
「いや、あの」
「山羊さん明日は休み?」
「休みだ。呼び捨てでいい」
「山羊。もうちょっと話したいな。ゆっくりしながら話そう」
 双子はシングルベッドに顔を向けると次の展開を思案し、腰を上げて座っている山羊の手を引っ張り上げた。
「汗かいてる?」
 双子の問いかけに山羊が首をかしげながらうなずく。激しく踊って全身汗みずくの双子ほどではないが、山羊もアルコールの火照りとクラブ内の熱気でワイシャツの下にじっとり汗をかいていた。
「先にさ、まとめて一緒にシャワー浴びちゃわね? 狭いけど。もしよかったら」
「え」
「はいはい」
 半ば強引に脱衣所まで連れていかれる。声の軽やかさがまるで学生時代からの友人のようでまた上手い。さっき出会ったばかりの男と合い風呂になってしまう展開に一瞬腰が引けたものの、自分の手を掴んでくる双子の手の力強さと温かさに山羊はついほだされてしまった。
 双子は脱衣所に山羊を押し込むと先んじてシャワーの元栓を捻り、シャワーが暖まってくるまでの時間できびきびと腕時計を外してシャツを脱いだ。山羊に構いもしないそっけなさが余計に銭湯じみた感覚をあおる。ただ一つ、ごく浅く日焼けした双子の背中が存外筋肉質で、さらに汗に艶光りしているのに山羊は知らず生唾をのんだ。
「ほら、山羊も脱いだ脱いだ」
 背中を見せた状態から双子が悪戯っぽく山羊のほうを振り向く。山羊は生返事をしながらワイシャツのボタンを二つまで外すと自分の胸元の生白さに情けない思いで溜め息をついた。
 双子がワイシャツを脱ぎ捨てる山羊の背中を盗み見る。なんとなくお互い背を向けたまま、ちらちらと互いの体を意識しながら服を脱ぐ形になった。山羊は靴下まで全部を脱ぎ捨てると悔しそうに自分の腹へ手をやった。
「筋肉が落ちてる」
「筋トレすれば。運動なにかやってたの?」
「大学時代まで剣道」
「あぁー、剣道やってそう」
「踊ってるだけでそんなに筋肉がまんべんなくつくのか」
「んー、軽い有酸素運動にはなるんじゃない? でも全盛期よりかなり筋肉落ちたよ。これでも」
 喋りながらへその上を滑る親指。うつむき、淫らな空想をからかう微笑。双子からは時々一貫性というものが失われる。それまで友人のような雰囲気を醸していたものが一瞬目を離した隙に別の顔になる。
「はいはい。山羊入って。扉閉めるよ」
 揺れる心のまま、アトラクションに誘われる。双子は山羊をバスルームに招き入れると扉を閉め、しばらく互いにシャワーを浴びせっこして互いの体を暖めた。嫌がる相手の顔にシャワーをかけたりして大声があがる。男子学生同士が銭湯でやる遊戯に似ていた。途中までは。
 バスルーム内に白くけぶる熱い湯気の中で、薄い褐色の腹筋の上に水滴がつく。それが、他の水滴と合わさって大きくなったかと思うと比重に負け下腹へと滑り落ちる。
「ゲイとかバイセクシャルとか、そういうのあんた嫌い?」
 ごく軽い調子で双子が尋ねた。山羊が即答で嫌がっても重くならないように、友達に訊く口調で。山羊が直立不動のまま水滴にまみれて口をつぐむ。一糸まとわぬ姿でも実直さは滲み出るものかと双子は内心感心する。
 返事を待ちながらシャワーノズルを掴んで手元で遊ばせる。噴き出す湯が双子の腹の表面で細い滝を幾条にもつくり、無駄な贅肉のない肌に飛沫を散らした。
「よく解らない。経験はない」
 返事をする山羊の声はどもっていた。可愛い、と口に出しそうになって双子は笑みをこぼすだけにとどめた。
「背中流してあげようか。はい座って」
 双子は戸惑う山羊を風呂椅子に座らせると自分も膝をつき、「久しぶりだな」などと声をかけて場の空気を緩めながら山羊がスポンジで自分の体に泡をつけていくのを見ていた。背中が泡に覆われたのを確認してから鼻歌交じりにシャワーで背中を流してやる。相手の体つきを「カッコいいじゃん」と褒めながら背中に自分の手を置き、微かに圧して肩の筋肉の厚みを確かめる。
 山羊の体が椅子に座ったまま前かがみになり、言葉少なに縮こまった。
 双子は相手に何が起きたか察しながら知らないふりをした。軽く背中だけすすいでやるとシャワーノズルを山羊の横に置く。
「スポンジもらっていい?」
「う、うん」
「前、自分で流して。俺も背中すすいでもらお」
 山羊が後ろ手に渡してくれたスポンジを手にして後ろを向き、自分も体に泡をこすり付ける。後ろで山羊が身じろぎして自分の体をすすぐ音が聞こえた。流れてくる熱気が心地よい。
 双子が背中を泡だらけにして山羊に背を向けたまま待っていると、やがて山羊が双子の肩口に手をかけ、シャワーで背中をすすいでくれた。慎重な手つきとは裏腹に、今自分がいきなり振り向いたらどうなるだろうと思うと神経がビリビリ心地よく震える。
「ありがとう。気持ちいいわ」
「うん。……あの」
「なに」
「あんた。……訊きにくいことを訊くんだが、その、ゲイか何かなのか?」
「バイだよ。あんたが嫌なら手は出さない」
 嫌がる男相手に無理やりどうにかできるほど、腕力は強くない。暴力や策略に訴えるようなハードな遊びをする気もなかった。遊びは合意の上でやったほうが軽くて気持ちいい。
 山羊は双子の背中を流すと後は手出しもせずに黙っていた。息を詰める音。臆病。簡単には遊びに手を出せないという意味でなら臆病なのは悪いことじゃない。
 双子はゆっくり振り向くと山羊の体を見つめ、それから山羊の顔に視線を合わせた。
 シャワーノズルを山羊の手からとりながら正面きって泡にまみれた自分の前を湯で流す。山羊の視線が、とりつかれたように自分の腹から下を見つめている。
「嫌って言わないなら、遊んじゃうよ」
「……あ」
「大丈夫だよ。ちょっとじゃれるだけだからさ」
 シャワーノズルをまた遊ばせ、山羊の体に湯をかける。そのまま膝を立てた状態で体を重ねて片腕で山羊の頭をかき抱き、頬同士をすり合わせた。濡れた肌同士が吸いつくようだ。腹から下の感触が熱くて硬い。
 ふふ、と耳元で笑うと、何かが山羊の中で振り切れたのか山羊が頭を外して双子を強い目で捕らえた。そのまま双子の両耳の下を掴むようにして固定し唇を重ねる。双子の背筋に苦しい痺れが走る。
 ──ああ、まずい、キスは駄目だって先に言っておけばよかった。キスは駄目なんだよなあ。遊びなのに本気っぽいものが混じって、まずくなるから。真面目な相手とだと余計に。
 止まらずに夢中で相手の唇を吸い、舌まで求め始めてしまう。熱いものが背筋を貫いて体中を満たす。遊びで済ませなければと必死になる双子の理性を山羊が焼き切ってゆく。
 いつしか、床に置かれたシャワーが絶え間なく水を流す音が遠くなっていった。



 翌朝。狭いシングルベッドに全裸の男が二人肩を並べて眠っていると、部屋のどこかで双子の携帯が仕事相手からと思われる着信音を鳴らした。
 双子は布団の中でうつぶせになると二日酔いの抜けきらぬ頭を抱え、不機嫌そうな顔を思い切りあらわにして体を起こした。やがて山羊も双子の隣で目を覚ます。
「ンだよ。今日休みだろ~? 天秤のやつ。あー」
「天秤? 誰だ」
「仕事仲間。朝からかけやがってマジうぜえ」
 携帯を探しに布団を出た双子の引き締まった尻をみながら山羊は茫然としていた。ノリだけで一線を踏み越えるなんて自分らしくないことをしてしまった。頭が痛い。
「俺はこんなに軽い奴じゃない……」
「あーもしもし、天秤? 何よ? つかマジうぜーから下らない内容だったらブチ切るぞ? 何? ……は? バイトが風邪? 他いないの? ……うん。ああそうなの。地元紙の取材……そうね下手な奴に縫製任せられないよね……ああ、わかりました。わかった。それじゃ俺が行くしかないね。うん。それじゃ一時間半後に」
 双子は天秤に言いくるめられる形で携帯の通話を切る。「何日間連続で働かせる気だよ」深い皺を刻んだ眉間を揉み解しながらひとりごちた。その横では二日酔いのせいか、真っ青になった山羊が布団にくるまって双子に背中を向けぶつぶつと何かつぶやき続けている。
「オレハコンナニカルイヤツジャナイ。オレハアソバナイ。オレハノリデコンナコトシナイ……」
「おい、兄さんしっかりしなよ。悪いけど俺すぐに家出なきゃなんなくなったからすぐ服着て。朝ご飯は歩きながらどっかで食ってね」
 山羊に構っている暇もなく双子がばたばたとクローゼットをかき回してパンツを出し、そのままバスルームへ飛び込んで全身と髪を洗う。行水並みの速さでシャワーを済ませると今度はパンツ一丁で鍋の湯を沸かしながら髪にドライヤーをかけ、コーヒーを二人分淹れる。すぐに一口だけすすって服を着る。早く乾けとドライヤーをかけたまま指で髪をかき回す姿がせっかちそのものだ。コーヒーを一気に流し込んで歯磨きをしながら腕時計を嵌め、口をゆすいで整髪料で髪を整えて戻ると山羊はまだ全裸のまま布団の中でぶつぶつ何か呟いていた。
「遅いよ。何やってるのあんた!」
 ゆうべの情事が嘘のように色気のかけらもない声だった。力づくで布団をひっぺがして何か言っている山羊の顔にパンツを叩きつける。「はよ履け。俺は急いでるんだよっ」びくびくしながら泣き出しそうになっている山羊がパンツを履くのを秒速五回以上の床蹴りで急かした。最低限ワイシャツとスラックスだけ山羊が着たところで残りの衣服を全部まとめて持たせ、淹れたコーヒーは強制的に一口すすらせてすぐに一緒に部屋を出た。
「あんた大人だから一人でおうち帰れるよね。悪いけど俺仕事で急ぐから。じゃ」
「ま、待て。俺らの関係は一体なんなんだ。おい!?」
 家の前の廊下で混乱して大声をあげる山羊に、双子は一息おいてから肩を叩いて返した。
「遊びの関係だよ。大丈夫、あんたの迷惑になるようなことはもう絶対ないから。また遊んでくれるんだったらあのクラブで会おうね。ありがとう。ゆうべは楽しかった」
「け、ケツがいたい」
「うん。俺も痛いよケツ。激しかったね。お・た・が・い・さ・ま」
 挨拶代わりに山羊の尻をはたく。小さく悲鳴を漏らす山羊の泣きっ面に思わず双子が失笑した。急に顔を真っ赤にして怒りだしている山羊の様子にやりすぎたと内省しながら、双子は適当な微笑みでその場を切り抜けてマンションを出た。



 それから数日後。
 双子の出勤でまんまと地方紙の取材時にイメージアップをはかり、天秤の店は「イケメンオーナー&イケメン店員のいるショップ」という見出しで地方紙の片隅に取り上げられることになる。基本的な立地条件の良さもあって商売はますます繁盛。シーズンの変わり目から店に出現した双子のオリジナルブランドは順調に客の女性たちに気に入られ、口コミを広げてじわじわとその足場を固めつつあった。
 よろず上手くいっているある日の夕方に、仕事を終えた双子の背中は寂しそうにしおれていた。
「どうしたの。双子」
 友人のよしみで口をきく天秤に、双子は諦めた笑いを浮かべて店の椅子へと崩れ落ちる。
「この前一緒に遊んだ奴にふられた。顔も見たくない口もききたくない、だって」
 ──再び街で再会した山羊はあの夜のことを完璧に無かったことにすると決めたらしかった。一瞬の気の迷いを断ち切るがごとく、双子は彼にとって軽蔑すべきチャラ男として切られた。真面目な人間ほどそういうことをやる。……いや、人を切る行為に当事者の人格が真面目か不真面目かなんてことは、関係ないのかもしれないけれど。
「軽い人間だから傷つかないだろうって、えらい傲慢な思い込みだよな。結局真面目ぶって大騒ぎする奴らに振り回されてさ、最後までキレられないでいるのは俺たちのほうなのに。
 こうなっても結局最後までカル~く済ましちゃうんだよなあ。損な体質ね。俺たち」
 視線を逸らして力なく笑う。最後まで泣かず怒らずにやり過ごして、本当にそのまま次の日常へとずれ込んでいってしまうのだ。まるで最後まで感情を表さないこちら側のほうが強かったような印象ばかり与えて。
 椅子の背もたれを胸元に抱いてがっくりと頭を落とす双子に、苦笑した天秤がそっとジャケットをかけてくれる。背中にかかる温もりで双子が泣きっ面になりそうになるのを天秤は温かく見守っていた。
「火遊びするからだよ」
 何度も繰り返したやりとりを、今回も繰り返す。毎回双子は恋愛について反省などしないのだ。わかっていても、今度こそ彼が学んで火遊びをやめてくれればと思って天秤は同じ繰り言を穏やかに復唱するのだった。


 - fin -

作品データ

初出:2007/12/18
同人誌『太陽の色彩/ならずものたち』収録
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