太陽の色彩

 背筋から腕にかけて、また胸へ、腰にかけて、全身の筋肉が次の一瞬に備え濃密なエネルギーを循環させているように見えた。
 アトリエも兼ねた自宅の壁に畳二畳分はあろうかというキャンバスを立てかけ、左手には原色の塊が無数にこびりついたパレット、右手にはパレットナイフを持ち、獅子は上半身裸で絵を描いている。色を叩きつけているといったほうが正しいかもしれない。体力がなくて芸術ができるかというこの男らしい理屈。何がこの男を突き動かすのか、日焼けしきった逞しい腕には何色もの絵の具が多彩に飛び散ってそのままになっていた。絵を書いている間ぼうぼうに伸びて埃っぽくなっていく髪がたてがみのようで俺は好きだった。
 獅子は一心不乱に絵を製作している間、決して後ろの俺を見ない。
 決まりきったことだ。愛ほしさに何人もの男を渡り歩いた俺が、この男に関してはそれで微塵の不満もなかった。この男の情熱は干からびた大地を痛めつける太陽に似ている。あまりにも熱すぎ、先鋭的すぎてエネルギーの行き場に困っている。いくつか用意されていた道の中でこの男はそれでも明るい太陽たらんとして絵を描き始めたのだ。

 夜が更けて、その日のエネルギーを存分に使い果たした男が背中で一息つく。獅子が振り向いたときも俺は変わらぬ姿勢でそこの椅子に座っていた。自らの気配を消すのは得意だ。息遣いを相手に合わせるだけで人は木石になれる。
「お前まだ居たのか。蠍」
「居た」
「何時間か前に帰ってたと思ってた」
 黄金が溶け込んだようなぎらぎらした目をひょうきんに丸くする獅子に、俺はその日初めて相好を崩して笑った。自分の笑い声が聞こえる。笑って声をあげてしまうなんて、自分でも珍しいなと感じた。



 獅子は芸術家の中でも最もまともな指向性を持った部類の人間だ。純粋で、原始時代から今日に至るまで一本筋の通った文化を身に備えている。本来芸術家というものは集団から外れた奇態な人間がなるもので、獅子のような男には一番縁のない職業に見えたが、それでもこの男がこの道を選んだのは本人曰く「小さい頃から当然の成り行きだった」そうだ。
 画商見習いとして様々な画家の絵を売買していた俺はまずこの男の絵に惹かれた。絵画を描く技術とは、突き詰めたところどれだけその人間が自分の心に対しソリッドに切りこみ、はっきりした断面を見せつけることができるか、その技術なのではないかと思う。獅子の絵は日本人特有の屈折した貧弱な感じ、暗さから脱出していた。
 強さを帯びた、寛大な、完璧な昼間の陽光の絵だ。
 憧れとともに、これは普通の日本人が描いた絵ではないなと思ってしまった。日本人が好む一歩引いた余裕だの優雅さだのがまるでない。まだフランス人か、そうでなければアフリカ人が描いたと言ったほうが納得できる。製作者の名前を見ると名札には頑固に漢字で本名が書かれていた。この絵とこの漢字名を両立させることで、獅子という男は日本人の可能性について強烈な主張を展開していた。
日本人よ、固定観念から脱却せよ!──か。さしずめ」
 ハーフか何かかなと思った。本人の顔も見ていないうちから。それぐらい俺はこの異質なものにあこがれた。
 俺が売買した獅子の絵はそのオーラに見合うような高額な値では売れなかったが、俺はそのまま獅子という画家に対して興味を抱き、画商として直接彼に会いに行くに至った。

 俺の目から見て獅子には人見知りの気があった。彼はいつアトリエに行っても作業用の長袖か上半身裸で、素っ気ないジーンズ一本で絵を描いていた。最初に会ったときは本当に絵を描いたままこちらを見向きもしなかった。
「絵なら業者を通して売るから、そっちをあたってくれ。そこに居られると気が散る」
 暗にこちらの様子を窺いながら。身内には豪快だが外野や初対面の人間に対する社交性がそれほどなく、ぶっきらぼうだった。絵に関する道具が積まれた部屋には開け放たれた窓から透明感のある自然光が射しこみ、絵の具と溶剤の匂いがそよ風で外へ流れていく。そんな場所で静かに絵を描いている。
「何枚かあなたの絵を見たが、外国人かハーフの方かと思っていました」
「純粋な日本人だ」
「海外に長期間滞在していたことは?」
「大学のときにフランスに渡ってそのまま何年か居た。またそれを宣伝文句に使うのか」
 海外の話題になるなり獅子の表情がみるみる忌ま忌ましげなものに変わっていくのを見て、俺はピンチと同時にこれを好機だと捉えた。何かを嫌うとき人は本性を晒す。激しい波だがこちらが踏みこむチャンスでもある。
「あんたはどこの国ってレベルで縛っちゃいけないタイプだ」
「何が言いたい。おべんちゃら言ってると舌引きちぎって犬に食わすぞ」
「あんたは……あんたはその絵を描くことで誰かを照らしてるんだ。あんたは光そのものを描く人だと思った。それも真昼の太陽のような膨大な光量だ」
 つっけんどんな表情をしたまま、筆を動かす獅子の手が止まる。あと一押しだと空気が言っていた。暗い弁舌の力を、俺は光に向けた。
「あんたが同じ日本人で嬉しいよ。あんたの絵は俺に殻を破れって言っているように見えるんだ」
 澄んだ空気の音が聞こえる。勢い余ってごく私的な枠で感想を出してしまった俺に、獅子はやがてぽつりと言い放った。
「お前だけか?」
「ん……ああ、ええと」
「お前だけでも別に構わんがもう一押し」
「あー、日本人に、全体に対してだ! 二億人以上に対して。あんたのことだ、そこからきっと世界中の人間に対しても同じことを言うんだろ?」
 しかめられていた顔がにやりと笑い、やがて得意げにうなずいた。人を避けていた面の下は相当わがままで自信家らしいと俺はこのとき初めてわかった。
「六十点だな。だがいいポイントを押さえてある」
 俺はこうして獅子の身内側の人間として認められた。画商兼信者だ。対等な立場のようでいて微妙に相手の支配下にある関係も、俺にとって悪くはなかった。



 以来、すっかり惚れこんでいる。
 筋骨隆々とした身体の中に潜む荒ぶる力をことごとく絵につぎ込むこの男に。この男はそうしなければ自らの牙で誰も彼もを噛み破ってしまうのだといつか俺に言っていた。真夏に上半身裸でアトリエの床に寝そべる彼の目はサバンナの猛獣のようにぎらぎらしており、俺は同じ部屋でそれを見る機会に出くわすと本能が目覚めたような身震いを感じる。
 女が欲しいと言われれば俺は迷わずこの男のために誰でも差し出しただろう。だが獅子は俺に対してそうは言わなかった。代わりに俺に服を脱げと言った。男のそけい部──腿の付け根が描きたいと言って、俺にズボンと下着を脱がせたまま半日アトリエの床に放置してがむしゃらにスケッチを描いていたこともあった。
「おい、この状態まで全部描くのか」
「気にするな。何でそうなってるのか知らんがそれもお前が立派な生きものだっていう証拠だ」
 快晴で異常に蒸し暑かったせいか、妙な緊張状態のせいか獅子に見られて俺の下半身は勝手に持ち上がりかけていた。獅子は片手で握り飯を食い米粒を手と口の周りに散らかせながら、米粒に構うのも惜しいようで一心不乱に鉛筆を走らせている。床には落ちた米粒と剥き出しのナイフと鉛筆の削りカスが混ざって散乱していた。俺を見つめる獅子のこめかみに、暑さのせいで汗がしたたった。
「暑いな」
「俺は涼しい……。なんでだろ。パンツ履いてねーから風通しがいいのかな」
「あーそうかもな。鉄で風鈴でも作るかな。近いうちに土器も作りたい」
「あんた絵は」
「今描いてる」
「俺は自分の下半身のクロッキーを売るのかい」
「これは売らない」
「売れる作品をくれよ。俺も霞食っては生きられない」
 タメ口をききながら、獅子が俺の下半身の絵を売らないといってくれたことがうれしかった。誰も来ないアトリエで一日この男を独占できることにも。性的な関係ではないのに妙な開放感があった。そのまま、獅子に全てをゆだねて眠ってしまいそうになった。
 うとうと眠りながら意識を走らせる。俺は今、原始的且つ素朴に愛されているのではないかと。見つめられて、だけどそういう関係にならないことは確かで、ずっと甘く疼く股間のやるせなさ。獅子の視線が猫舌のように俺の下半身を強く舐める。
「お前のそれ、土器作るときにモチーフにしてやろうか」
「おいおい」
「縄文土器だ。子どもが喜ぶぞ」
 土器の端から炎や人体の一部がめらめらと強い渦を巻いてたちのぼる。──そんな形の器を獅子なら間違いなく作るだろう。
 想像しながら俺はまどろんで微笑を浮かべた。
「んな野蛮な日本人いるかよ」
「そりゃ俺へのあてつけか」
「ああ。あんたは暑苦しすぎるんだ」
 意外と繊細なところのある獅子が悲しい顔をしないように、俺は寝そべりながら手を伸ばして座り込んでる獅子の足に触れた。獅子がガキのように拗ねて、甘えて足の指を動かす。裸足で塗料と溶剤の焼け付いた足。熱い。後で洗ってやりたいなと思う。
 この男となら、時代を突き破って生きていけそうな気がする。



 真夏の太陽が作る焼きつけるような陽光と、一瞬何も見えなくなる残酷な黒い影。二つに挟まれて俺はかつてなく明るい気持ちになっていた。
 この男の世界には強い筆致と、原色の色彩で編み出された光が満ち満ちている。


 - fin -

作品データ

初出:2008/4/3
同人誌『太陽の色彩/ならずものたち』収録
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