やさしくなりたいっ!

 数日前から大学の友人たちとの間でちらほらと話題になっていた逆チョコについて、俺は今年もまったくターゲット圏にかすりもせずその日を終える予定であった。逆チョコとはいわゆるバレンタインの逆バージョンで男性からチョコレートを贈ろう! という製菓メーカーの色物企画なのであるが、実際そういった企画は男女両性が一定の範囲内に一定数共存していればこそ可能なのであって、俺のいる大学では大半がその範囲からはじき出される。
 講義の合間に教室を移動しながら俺は乙女や牡牛とバレンタイン・デーのチョコレートについて語り合った。
「母と妹からしかもらったことはないが何か。お前こそどうなんだ山羊」
「ほぼ同じだよ。あと部活のマネージャーに義理でもらった」
「俺は大食い属性で女子から認知されてたから紙袋一杯もらったことがあるぞ。家庭科の調理実習の時にも自分からせびってまわった。あはは」
「牡牛、いつの話だそれ」
「中学三年のときだったかなぁ。家庭科のはほぼ毎年。今年も誰かくれないかな」
 食い物が視界に入りさえすれば抜け目なく一口をせびる牡牛の横で、乙女が知ったかぶった手振りで「あんなチョコレート会社の陰謀は金輪際日本から消滅すればいいんだ。この際十四日に○○○のミサイルが国土に落ちても構わんというかむしろ落ちろと思っている」と絶好調な喋りを展開した。乙女の童貞トークはいつも童貞のキモを押さえている。内輪ですべらない。
「俺たちは童貞から抜け出せるのだろうか……」
 まるで日本経済を案じるような口調についなってしまうが俺と乙女と牡牛にとってこれは常に深刻な問題であった。三人して眉間を曇らせうつむき加減に歩いていると、ポケットの中で携帯が震える。暗い気分をいち早く中断させて俺が携帯を開くとそこにはメールが一通届いていた。
『配送しました【ショップKAWATA】』
 俺はメールの題名を見るなり即座にメールを閉じて携帯をポケットに戻した。なんだか性的な動悸がする。なんだろうこの背徳感。初めての感覚だがたまらない。メールが来たということは今晩あたり家に届くはずだ。待機してどうにか一度で受け取りたい。俺が一人そわそわしている横で、乙女と牡牛は前方の双子たちの集団がなにやら騒いでいるのを聞きつけていた。
「なあ、天秤が明日逆チョコやってくれるってwwお前らチョコいる?」
「あ、くれ」牡牛が廊下の真ん中で高々と手をあげた。
「高いのくれ。ゴディバがいい」
「高級志向だなwww乙女と山羊は?」
「またくだらない企画だな。任せる」
 乙女がナップザックを片手にしょいながら肩をすくめる横で、俺は半ば上の空だった。配送品をどうやって受け取るかそっちのほうに気がいっていたと思う。横から乙女に声をかけられて、初めて双子と天秤が前で返答を待っているのに気がついた。
「あ、ああ。チョコ? くれるのか。俺はでん○く豆チョコでもなんでも」
 前で双子が眉を八の字にしながら爆笑している。何かおかしなことでも言ったかと聞き返すと、「いいセンスしてる」と吹き出し混じりに言われた。



 ショップからのメールが届いてから講義もその後のバイト内容もまるで頭に入らなかった。正直明日のバレンタインなどどうでもいい。今はあの配送物が無事に届くかどうかそれが全てだ。郵便事故が起こったり間違って隣人や管理人に荷物を受け取られなどしたら俺の人生は終わる(今までそんなことは一度もなかったのだが)。バイトが終わってすぐに茶も飲まず一人暮らしの家に駆け戻ると、ほどなくして夜頃、かの郵便物は無事に届いた。
 配達員に平静な顔でシャチハタを押すだけでも一演技だった。俺は配達員から小包を受け取ると配達員の去ったドアを閉め、鍵をかけて窓のカーテンを確認し、誰も居ない部屋で深呼吸して床に正座し小包のガムテープをぴりぴりと丁重にはがしていった。
 茶色い紙包みの下から、ビニールでパッケージングさせた綿とレース遣いの布地が出てきた。イギリスの農園を思わせる素朴な桃色と生成り色でほわほわのうさぎの絵が隅にプリントされている。ビニールから取り出して広げてみると、俺の手の中でそれが三角形に広がってどこかか弱い姿を晒す。もう一つは三角形が二つに紐がついたような形。つまり女性用下着の上下。
 俺は歓声をこらえた怪しいほくそえみ方で下着を胸に抱いて二・三回ほど床を転げまわり、内股にした足をじたじたさせて全身をふりふりはずませ喜びを表現してみた。誰も見ていない。セーフのはずだ。もう一度手元のショーツを眺め、ゴムのところをパッチンパッチンさせてまた床を転げまわった。
「ゴムが細い! パッチンて! パッチンてするのおおおお!」

 うん今誰かに見られたら間違いなく俺の人生は終わる。すごくいけないことをしている現状に俺は天上の笑顔を浮かべながらとりあえず下着を頭から被り、まだだれも履いていないショーツの綿の清潔さに和んでみたりした。いい匂い。ラベンダー。店主は気が利いているな……。
 しばらくぼーっとしてわれに返ると、客観的な状態で俺は部屋の床に寝そべりながらショーツを顔に被っていた。俺は何をしているんだろうという根源的な自問に襲われようやくショーツを顔から外す。女性用下着の理性に対する破壊力たるや恐ろしい。いやまだ、手をつけてない布地があるじゃないか。あの……ブラジャー。俺はまだ禁断の淵の淵にすらタッチしていないのだ。大体このショーツだって本来こういう使い方をするものではない。
 着ろと?
 俺の顔をした何者かが頭の片隅で気持ちよさそうな顔をしながら手招いている。もう一人の俺が「行くな。行ったら帰ってこれないぞ」と叫んでいるのが聴こえる。買っただけできっと満足できるってネットショップのボタンをクリックした時には思っていたんだ。うさちゃんのプリントがちょっと可愛いなと思って……。俺はとりつかれたように胸元に抱きかかえたショーツとブラジャーをやさしく撫でさすりながら胸に充満してくる甘酸っぱい気持ちに酔いしれ、ついに、こまこました指使いでベルトを外し上に着ている服も一枚一枚脱ぎだした。

 ぼくおんなのこになりたいの。

 知ってる。似合わないって。それどころか自分の行為が変態行為だって言われているのも知っている。実は今日に備えて体毛もいっぱい処理した。妙に白い手足が新鮮だ。黒いボクサーブリーフ(ボクブリ)一枚になった俺は両手に下着セットを抱えると洗面所までゆき、とっとと自分の穿いていたものを洗濯カゴに投げてあの細いパッチンの布地にそっと足を通した。
 なんて繊細な肌触りだろう。一番上に引き上げるまでの間に破れるか切れるかしてしまうんじゃないかと思ったが、それはなんなく上まであがって俺の大事なところをくるんだ。いや、もう俺って言いたくない。ぼくは女の子みたいに胸元に手をやって息をつめながらそのショーツをはいた自分の身体を見た。綿のあったかさとレース地部分のたよりない感じと、細いパッチンのしめつけ具合に胸が苦しくなる。ちいさく息をついてブラジャーもつけてみる。男性用だからワイヤーもパッドも入っていないタイプのものだ。肩ひもはどうにか調整できたがホックのひっかけかたがわからなくて、固い自分の身体を涙目になりながら呪った。苦労の末にホックがしっかりととまる。
 それまで乱暴に露出していた乳首がしっかり布地でガードされ、ぼくはなんだかやわらかな気持ちになった。自分の胸元をじっと眺めてみる。無乳って言い方は乱暴だ。薄いどころか板みたいな胸だけど、大切にしてあげようとその時は思った。
 鏡を見ると、下着はとても綺麗なのに自分の顔の男苦しさが悲しかった。見苦しくて自分の顔から目を逸らしてしまう。まだ完璧じゃない。もっと手をかけてきれいにしてあげよう。ぼくは自分の部屋まで戻ると先に脱ぎ散らかした自分の服を下着姿のまま綺麗にたたみ、それから押入れを開けて奥に隠しておいた箱を取り出した。
 中にはプリンセスラインのパステルグリーンのワンピースが一着と、パンストでないタイツが一揃いと、控えめなガーターベルトと、お化粧セットが入っている。お化粧はもう何回か練習した。薄いナチュラルメイクのほうが自分でも好きだって気づいている。タイツに足を通した後のすべる感触も好きだ。ガーターベルトとつなぐときのいけない感じも。ワンピースに腕を通しながらぼくはハミングを口にして、そのまま部屋の真ん中でくるりと一回転した。ワンピースがほどけたばかりの花みたいにひるがえるこの瞬間が好きだ。ちょっとだけ「ふふふっ」と笑い声が出た。それから化粧にかかる。眉の形を整えて、パウダーをはたき、軽く頬紅と口紅をつけて鏡の中の自分に微笑む。
 おんなのこみたい。ううん。おんなのこ。着ているものまで、これで完璧。
 わたしは鏡の中の自分に向かってにっこり微笑んだ。こんなにやさしいものになれるのなら、わたしはまたいくらでもこの姿になりたい。いつかは誰かに見てもらいたいけど、それはまた仲間を見つけてからにするつもり。
 とにかく着ているものが全てそろった恍惚感で、わたしは王子様を待つお姫様のような気分で眠りについた……。



 暗い室内にカーテンの隙間から零れ落ちる一条の陽光。楽しい時間が矢のように過ぎて目を覚ましたとき、俺はさっきからしつこく鳴り続けていた置き時計のデジタル音に遅ればせながら気づいて、数秒後にがばと跳ね起きた。
「やばい」
 今日は落とせない講義が朝からある曜日だった。獅子教授の予定に変更はなかったはずだ。夢中で手を伸ばして止めた置き時計の時間は出発するのにぎりぎりで、俺は無我夢中でワンピースとタイツを脱ぎ落とすとシャツを着てジーパンを穿きなおし顔を洗った。何度も丁寧に洗っている場合ではなかったので洗顔料で乱暴にやってしまったが多分口紅やらパウダーぐらいは落ちただろう。すぐに荷物をまとめ電車に間に合うよう家を飛び出す。アパートの廊下で管理人の蟹さんに「今日はいい天気ですね」と笑いかけられ、「そうですね」と返しながら走って横を通り過ぎた。
 間一髪で電車に飛び乗ってからは弾んだ息を直すのにしばらくかかった。電車のガラス窓に映る自分の姿はまた元通り地味な男子学生のそれになっている。ああ、今日はバレンタインだったっけ? 電車の車内にひるがえるチョコレートの広告を見上げながら、逆チョコという習慣も案外悪くないかもなと思った。
 繊細な手つきで甘いお菓子を選んで、好きな相手にそれを渡す。あんなにやさしい気持ちを男の誰もが味わえるのなら。



 大学では双子と天秤の二人組が講義の合間をぬって友人たちの間を練り歩き注目の的になっていた。教室に入って一瞬心臓が止まった。天秤は金髪の長いウィッグをつけ、丈の短いセーラー服を着て双子と一緒に猫なで声でチョコを配って歩いていた。
「はい。牡牛ちゃんにはゴディバね。もぅ贅沢なんだからぁ。
 それとオ・ト・メ・さん。いつもありがとう。オトメさんにはいっぱいお酒の入ったヨットとウイスキーボンボンあげちゃう。はい」
「おお! 話がわかるじゃないか」
「オトメさんはお酒好きだもんね。その代わり二人とも、三月には三倍返しでよろしくね♪」
 高級チョコレートを託された牡牛と明らかにウイスキー瓶のほうがでかい乙女が天秤の笑顔の前に不満をぶちまけている。クラス中の注目を集めてそつなく光り輝いている天秤の容姿といったらどうだ。ずるい。しかもきれい。俺がちょっとだけきゅっと奥歯を噛んで嫉妬していると、天秤は双子とそろってこちらへと歩いてきて上目遣いに俺を見上げた。
「山羊クン、オハヨ」
「あ、ああ? おはよう?」
「山羊クンはこれだったよね。でん○く豆チョコ。三月には三倍返し!」
 安いでん○く豆チョコ。一瞬アヒル口を作って首をかしげた天秤のスマイルに虫唾っぽい殺意が背中を走った。
「なんでそんなにかわいいのあなた……」
「は?」
 天秤の後ろから双子のやたら低い声が飛んできて我に返る。「山羊今なにか言った?」とすぐにふざけた声が飛んできた。俺は首を忍者並みの速度で横に振るとおとなしくその場ででんろ○く豆チョコを天秤からもらった。
「と、ところでどうしたんだその服。よく手に入ったな」
「あ、これ? 友達がコスプレ喫茶でバイトしてるのを借りてきたんだよ。山羊も着てみる?」
「いいのか!?
 はっとした。思わず裏返った声に天秤だけでなく皆の注目が集まっているような気がする。俺が咳払いしながら一歩後ろに引くと天秤は双子と顔を見合わせ、やたらと輝きを増したいい顔で俺にまた絡んできた。
「うん、いいよ。それじゃ今すぐ着てみよっか☆ てゆーか僕だけじゃなくみんな着ろ☆☆
 一日限定だしさ。一人一回ずつ着てみて写真でも撮ろうよ」
「いいな。面白そうだ」
 なるべく不自然にならない流れで「俺実はこういうの着てみたかったんだよ」と口にしながら俺は軽快な動きで上着を脱いでいった。天秤もまんざらでないのかウィッグを外し、カーディガンを椅子にかけたあとは思い切りよくセーラー服を脱いで上半身裸になる。次の講義までにはまだ時間がある。群がってくる双子や乙女や牡牛たちのはやし声を浴びて俺は胸のときめきと共にシャツを脱いだ。一気に最後の一枚まで。

 そう。最後の一枚を顔辺りにまでたくし上げて脱ぎかけた一瞬、俺は気づいたのだった。みんなの声が不気味なほど揃って消えうせたその理由を。
 Yes。まだ着ている。俺。
 脱ぎきる前のシャツの中で俺の顔は驚愕から一瞬お花畑になり、数秒でみるみる阿鼻叫喚の顔に落ちぶれた。半ば開き直ってシャツを最後まで脱いでみると目の前の天秤の笑顔は笑ったまま凍りついており、その後ろで双子がドン引きした口元を痙攣させ、牡牛が他山の石をみるように無表情になり、乙女が眼鏡の向こうで青ざめながらやたらとまばたきを連発していた。
 流れ的になんとなく乙女と目が合った。乙女はしらふのまま、冷静な顔で計算式を尋ねるように俺へ疑問を投げかけた。
「山羊、お前が着てるそれは何だ?」
「だ……大胸筋矯正サポーターだよ」

 だよって何だよ。俺。微妙にカッコつけた口調が寒い。


 - fin -

作品データ

初出:2009/2/14
同人誌『太陽の色彩/ならずものたち』収録
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