熱風凪ぐ

 魚殿下とその兄君であらせられる獅子殿下は、共にこの国をゆくゆく預かる王族の子息としてこの世に生を享けられた。魚殿下は正妃のお子として、かたや獅子殿下は国王陛下がお手つけになった寵妃のお子として。私自身はといえば魚殿下がお生まれになるのに先んじて十年ほど前、国王陛下の親衛隊である父の長子として生まれた。
 父も私も王家のために粉骨砕身して尽くすことをこの身の喜びと考え、疑いすら持たずに王国騎士として日々鍛錬を続けてきた。父の誠実な人柄が国王陛下にとっても好ましかったのだろう。私は齢十八にして八歳の魚殿下の親衛隊に任命され、以後父が国王を守護するのと同様、全身全霊をかけて魚殿下をお守りしてきた。
「蟹。この子、具合が悪いんだ。一緒にお祈りしてくれる?」
 魚殿下は飼っている犬や鳥の具合が悪くなるといつも私にそう仰る。本質的には慈愛に満ちたお優しい方だった。まだ幼い少年ということもあったが、とても響きやすく、隣に立つ人間の性質によってあらゆる影響を受けてしまうような体質が元からあったのだと思う。
 私自身は、恥ずかしいことだが、騎士の身でありながら人に闘争心を教えることがとても苦手だった。父同様心底苦手だった。だからいつまでも騎士以上の身分にはあがれず、陛下から下賜された親衛隊の地位を誇りに思うだけで満足していた。
「医者にはお見せになったのですか」
「うん。腎の臓がもう悪いんだろうって……歳なんだね。だからせめて、少しでも苦痛がなく生きてくれればなと思ってる」
 魚殿下の掌の下で年老いた大型犬がふうふうと安らいで息をついている。殿下はひと月ほど家族の面倒を見るように老犬の面倒を見続け、老犬が天に召されると静かに、人知れずご落涙された。

 庶子である獅子殿下と違って、正嫡であらせられる魚殿下にはこの国の未来が託されていた。魚殿下はお体が弱くそうそう城の外へ遠出することがない。これもやはり体質であろうと言われていた。魚殿下の母君である王妃殿下は私が親衛隊の任に就く前に病の床に臥され、そのまま亡くなられていた。
 体が弱くとも民への愛があれば王政を誤らずに執ることはできる。覚悟しよう。何かあれば自分が剣となり盾となろう──私はそのように思いながら日々魚殿下の護衛の任についていた。
 熱風は、ある日突然やってくる。

 魚殿下が齢十三になられたときのことだった。
 私はある日殿下に中庭へと呼び出され、剣技の練習のお相手をすることになった。いつも本と動物にたわむれ、夢見がちな魚殿下には大変珍しいことだった。
「殿下、いかがなされたのですか。お体を鍛えるのは大変よろしいと思いますが、珍しいですね」
「兄上がお城へ戻ってこられるんだ! 父上が今度お忍びでカシオペア城に静養に行かれるんだけど、それに僕と兄上も行く。蟹はカシオペア覚えてる?」
「山々と湖が美しい古城でしたね」
「そう! そしたら僕も兄上に剣術を教えてもらうんだ。兄上はね、剣術や馬術がすごく上手なんだよ」
 いつも青白く透きとおりがちな魚殿下の頬が嬉しそうに高潮していた。今からはしゃいでいて大丈夫だろうかと内心で思いながら、私は殿下に訓練用の棒剣をお渡しする。魚殿下は兄君のことを話すときいつも嬉々としていた。そこには腹違いであることの蔑みも、また相手への恐怖もかけらもなく、ただただどこにでもいる血を分けた兄弟への憧れがあるだけだった。
「兄上はすごく強いんだよ。あの人と同じ血が僕にも流れてるんだから、僕も強くなれるかな?」



 高原から美しい湖を臨むカシオペア城の周辺では膝丈ほどの長さに揃った草が処女の髪のようにさらさらと揺れ、乳白色の霞と共に柔らかく透明な大気を流している。この山岳に囲まれた広大な土地は代々王族が休養を取るために手付かずのまま残され、国内で最も美しいといわれる草原を生のままに有していた。
 高原の短い夏の間に国王陛下と魚殿下、獅子殿下は揃ってこのカシオペア城で短いひとときを過ごしたのだった。おりしも魚殿下十三歳に対し、獅子殿下は十八歳。カシオペア城には他にも獅子殿下の母君と当時国王陛下のお気に入りだった寵姫が二名ほど呼び寄せられ、その女同士の見えない戦いは王都城内のそれとさして変わりがなかったようだ。
 権力ほしさに国王と息子に媚びいる母君に対し、獅子殿下はぎりぎりで猫の薄皮一枚を被りながらはっきり苛立っていた。猛獣は生まれたときから猛獣である。いくら成人して一年も経たぬとはいえ、母に寄りかかることなどもはや論外だと言いたげだ。
 獅子殿下は正嫡でなく庶子である。だが第一子だ。それが成人と認められる年齢を迎えたということは、この国にとって大きな意味を持っていた。

 一親衛隊の騎士にすぎぬ私は、それまで獅子殿下のお姿を近くで拝見することはあってもその峻烈なお人柄について、間近で接する機会には恵まれなかった。この時が初めてだ。
 獅子殿下は女たちの争いには目もくれず、カシオペア城ご滞在の間ずっと魚殿下と一緒に野に出たり剣術の稽古などをしてくださった。早朝の霞がかった裏庭に魚殿下の気をいれた声が響き渡り、それに時たま獅子殿下が声を合わせる。湿った棒剣が何度も弾かれ、魚殿下はまだ露も乾かぬ柔らかな草の上に転ばされることになるのだった。
 私は親衛隊という職務柄、両殿下の稽古をお側で拝見していた。獅子殿下の腕前は王族の名にふさわしく熟達されている。それが魚殿下の前では手加減されているのがわかって、傍目にほほえましかった。
「どうした。それで泣くか! 王家の血が泣くぞ。俺が鼻で笑ってやろうか」
「……うっ、うわーっ!」
 魚殿下は獅子殿下が相手だと途中でめげず、甘えずに何度も向かってゆく。獅子殿下の中にある覇気が弟君である魚殿下を刺激して、いつもは眠っている闘志を目覚めさせるのだった。そして獅子殿下は、驚くほどこの手の仕向け方が上手かった。獅子殿下は決して弟君の無力を罵倒しなかった。戦うことそのものの喜びをどうやったら相手に叩き込めるか、生まれつきご存知であるかのようだった。
「今日はここまでだ。戻って朝食にするぞ」
「う、兄上、まだやれます」
 悔しがる弟君を笑ってあしらう。魚殿下は獅子殿下と再戦を約束されたあと、泥まみれになった体を綺麗にするために一足先に城内へと戻られた。
「おい。貴様は残れ」
 ──私は城内へはすぐには戻れなかった。弟君を温かく見守るのに対し、獅子殿下が私へ向けた目は年上の私でも一瞬立ち止まるような激しさを帯びていた。

 東の地平線から横ざしに太陽の光がのぼり、乳色の霞が光って消え始めていた。
 獅子殿下は魚殿下の姿が城内へ戻ったのを見届けると私の方へ歩み寄り、棒剣を真っ直ぐに私の喉元へ突きつけて恐ろしい眼光を光らせた。
「貴様が魚の親衛隊長か」
「はい、殿下」
「今まで何をしていた。なぜ貴様がついていながら魚があんなに弱い」
 峻烈。魚殿下にはない、何者をもひれ伏させるような覇者の風格がそこに見えた。私は何かを答える前にまずその場へひざまづいた。獅子殿下は私の欠点を正確に指摘していた。
「答えろ。貴様はこの数年何をしてきたのかと訊いている」
「はい。私は、この任を授かりましてからというもの、ずっと魚殿下をお守りして参りました」
「魚自身の教育を怠ったなっ!!
「申し訳ございません! 魚殿下はお体が弱く、慈愛厚きかたで──」
 棒剣が横殴りに飛び、私の肩を叩いた。骨にまできつく沁みる一撃だった。私はその場で自らの未熟を悔いながら獅子殿下の一撃を甘んじて受けた。
 獅子殿下は、一度私の肩を殴ったきりそれ以上の殴打は与えなかった。しばらくして棒剣が引かれ、私はその場から獅子殿下が無言で遠くを見つめるのを拝見する形になった。やがて獅子殿下がつぶやいたお言葉は穏やかだった。
「許せ。俺が貴様を打ち据えたのは越権行為だった。
 ──魚には、誰か武術を教える係はいないのか」
「教育係はおりますが、しょせん戦場の剣ではございません」
「そうか。……お前が魚に教えるのが一番よさそうだが、お前と魚は多分そういう仲ではないのだろうな」
 獅子殿下の優しい悔恨の声に、私は全身が忸怩たる思いにさいなまれるのを感じた。獅子殿下はもう私を見ていない。遠く、悠然と広がる草原の果てに白の稜線が折り重なるのを見上げている。
「優しいだけでは国を統べる王にはなれないのだ。城の女たちを見ろ。あいつらですら毒の牙が生えている。
 武力や政策力は国の中から優れた才能を選び出せば補うこともできる。だが主体的に戦う心だけは、本人が持っていなければ駄目だ。俺は魚を将来傀儡の王にはしたくない。わかるか」
「はい」
「うむ。俺がずっと魚の側についていてやれないのが残念だ。俺のことは恨んでも構わんが、魚にはついててやってくれ。そしてできれば奴の心身が強くなるように」
「努めさせていただきます。この身をかけて」
「頼む」
 獅子殿下は私を殴ってしまったうしろめたさにむずがりながら城へと戻ってゆく。私は殿下の姿が見えなくなるまでその場を立ち上がれなかった。自分でもわかっていたことだけに、悔やまれてならなかった。

 私は当時二十三歳、獅子殿下は十八歳。だが獅子殿下は、生きている間の時間を一瞬も惜しまず帝王学を習得することへ努められた。庶子であるという困難がかえって獅子殿下に正道を歩ませた。獅子殿下は国を統べる人間がどれだけ多くのことを学ばなければならないかご存知であり、いつか巡ってくるかもしれぬ機会のために着々とその器を大きくお広げになりつつあった。
 峻烈で誇り高いお方だった。私は獅子殿下に対し何もしてさしあげることができない。せめてあの方のご意志を無下にせぬよう、これからも魚殿下に尽くしてゆくのみだ。
 魚殿下は強く我が道をゆく兄君を誰よりも敬愛しておられた。五年後、魚殿下が正嫡として成人された暁には王位継承もなされ、獅子殿下が実務面で強力に魚殿下を盛り立ててくださるだろう。そうすればこの国は安泰だという思いが私にはある。

「兄上。僕、なんだか兄上といると自分がとても強くなったような気になるんです。心の中にライオンが一匹住み着いて吼えているような」
 魚殿下は幾度剣術の稽古で打ち倒されても、純粋に獅子殿下を慕っておられた。獅子殿下は微笑でそれを受け止めてくださる。お二人はカシオペア城の窓から眼下に広がる美しい湖の銀板を見下ろすと、そのままどこまでも遠くへ広がる豊穣な国土を視界におさめた。
「獅子にも、空威張りで吼える声の汚いやつと真に威風堂々とした毛づやのいいやつがいる。獅子がなぜ我が子を千尋の谷に突き落とすかわかるか」
「いいえ。強い者を求めるからですか」
「いいや。獅子に生まれた奴は元々みんな強いさ。ただお調子者が多いんだ。最初に千尋の谷に突き落とすぐらいしないと身の程がわからんし努力しない阿呆が多いってだけの話だ」
 魚殿下がきょとんとされる。やがて、獅子殿下のにやりとした笑みに合わせて小さく微笑みを浮かべられる。
「俺はもし正嫡だったら大層薄っぺらい王族になっていただろうな。庶子でよかったと今では思っているよ」
「お調子者なんですか。兄上」
「かなりな。大体高みで吼えるのは気分がいいじゃないか。最初からそれができるんなら努力する必要性がわからん。俺なら飯食って昼寝だけしてると断言できる」
 二人して笑う姿はとても高貴な位のご子息には見えない。私は、両殿下の兄弟の絆がいつまでも続けばいいと、見守りながら強く願った。
「お前にも獅子の血が流れてる。強くなれるんだ。強くなれよ」
「はいっ」
「うむ。強くなったって、優しいのがなくなるわけじゃないんだからな」
 獅子殿下は弟君にある深い慈愛の精神をもきちんと理解しておられた。魚殿下にとってその若々しく立派なお姿はどれほど憧れだったことだろう。
 獅子殿下は魚殿下に遠くの山々を指差し、山の名前を答えるよう問題を出してから魚殿下に時間を与えるそぶりをしてこちらへと歩いてこられた。私はそのまま獅子殿下に廊下へと呼び出され、物影で獅子殿下がひそめた声に耳をとぎすました。
「蟹。貴様の魚への忠誠は厚いな?」
「はっ」
「旅行の間、刺客に十二分の注意を払え。特に俺が側にいないときが危ない。──母上には近いうちに専用の屋敷と庭園を差し上げた上で蟄居して頂くつもりでいるが、それまでにどうしても外道な輩が出るようならその時はやむをえん。
 下手人は主犯格まで精細に調べあげた上で、法に則って処刑しろ。俺が許す」
 伝達が済むと、獅子殿下は魚殿下に悟られぬようすぐに部屋へと戻ってゆかれる。
 命令の真意を理解した私の肌が強く粟だっていった。まさか獅子殿下から、直々にそのようなご忠告を頂くとは思っていなかった。
 獅子殿下が成人として認められた今、私にはこれまで以上に狡猾にならなければならない義務があるのだった。もう魚殿下をひたすらお守りするだけの愚直な騎士ではいられぬ。いてはならぬ。魚殿下にはもはや政治的な後ろ盾になる母君もおらせられないのだから。
 本当ならば、獅子殿下が魚殿下を謀殺してもなんらおかしくない世の中であるはずだった。
 魚殿下御歳十三歳のこの日、私は自分の立場を強く自覚した。日陰で剣にあてた拳を静かに固め身を引き締めていると、部屋の中からは獅子殿下と魚殿下が幸福そうに笑う声が金色の色を帯びて、響き渡ってきた。


 - fin -

作品データ

初出:2007/11/13
同人誌『雪の山荘殺人事件/Android』収録
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