イングリッシュ・ガーデン

 ああ、辞めたい。
 僕が川田邸に勤め始め、最後の配置換えで現在のチームについてからというもののそう思わなかった日は一度もない。とにかく直下につけられた蠍との相性が致命的に合わない。上司になった山羊さんとも──こちらは尊敬して立てているつもりなのだが、やはり合わぬ。

 僕はその日も蠍との慢性的な口論に飽き果て、頭痛に悩まされて煙草を吸いに屋敷の外へと出ていた。いつもうんざりすると外に出て射手に愚痴を聞いてもらう。射手も今回の配置転換では僕と同じように相性の悪い奴の下につけられたようで、一時期などは毎日のように「辞めたい」と連呼していた。

 奴だけ愚痴を言わなくなったのが最近のことだ。最近の射手は大人びてきた。何を諦観したか逃げ出しもせず、新入りの水瓶と案外仲良くやっている。居心地が悪いんなら逃げ出しゃあいいのに、と思うが、「じゃあ何で双子さんは逃げないんすか」と言われると僕も上手く答えられないからぐうの音も出ない。
「おーい、射手ぇ。どこですかあ」
 射手はプラタナスの樹の下に腰を下ろして、木漏れ日の下で手入れされた広大な庭を眺めていた。姿を見つけておやと思った。膝元に牡牛チーフが頭を乗せて眠っていたからだ。眠る牡牛チーフを見下ろす射手の目には素朴な中に慈愛のような、あるいは日陰のようなものが透けて見えて、僕は一瞬背中に涼しさを感じた。
「昼寝中?」
「あ、双子さん。見ての通り」
「いつのまにそんな仲良くなったの」
「まあ、いろいろあって」
 牡牛チーフを膝枕しながら射手は照れ笑いをした。頭しか乗っていないがそれにしても牡牛チーフの体は重そうだ。細身の射手と比べてもでかい。眠れる猛牛……。
「本当はもう起こして仕事に戻らないといけないんだけど、もうちょっとね」
「お前チーフと反りが合わないとか言ってなかったっけ」
「あー、うん、今でも合わないす。俺が忍耐強くなりました」
「お前に一番合わん言葉……」
「双子さんも最近は大分真面目になったじゃないすか。前よりあっちこっち飛ばなくなったっつーか、落ち着いた感じありますよ」
「えー、そうだっけ」
「そうそう」
 僕は射手の横に腰を下ろして煙草を吸う。
「双子さん、すいません。煙草」
「あ、煙流れる?」
「うん。俺はいいんだけどチーフが煙草だめだから」
「悪い。これ一本吸ったら消すわ」

 イングリッシュ・ガーデンの景観は上品且つ壮大だ。これも牡牛チーフが屋外チームを統率して手がけているのだという。
 射手は僕の愚痴を聞きながらいろいろな話をしてくれた。自分もこのチームに配属されて水瓶がいなかった時分は、心底辞めたくてたまらなかったこと。だのになぜか辞められなかったこと。牡牛チーフや蟹サブチーフとの間に接点がなさすぎて、まともな喧嘩すら売れないことに陰で泣きながら歯噛みしたこと。
「とにかくこっちがギャグとかやっても全然ハジけてくれない。どこが面白いのかわかんないみたいで、理解してから年寄りみたいに笑ってくれるっていうんですか? ワンテンポ遅いの。俺もこの二人に挟まれてるとうまくハジけられないし……もうマジで辞めたいってずっと思ってました」
「こっちは今でも思ってる」
「わかるようなわからんような。俺山羊チーフと蠍は結構話せるからなあ」
「いや辞めたい。明日にも辞めたい。むしろ今辞めたい」
「辞めれば?」
「辞めたら東館を誰が明るくすんのよ。誰が」
「そういや牡羊君も辞めたいって言ってましたよ。山羊チーフと蠍との反りが合わないって」
「えっマジ!? やばっ」
「決断早そうだから早く手を打たないと」
「うんそうするわ。サンキュ」
「いいえ」
 射手は話の合間に静かになるとやさしく牡牛チーフの髪を梳いた。僕は吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し込む。
「今は仲いいの? チーフと」
「はい」
「惚れてるの?」
「多分」
 鳥のさえずりや虫の音が聞こえるこの庭で、射手は美しいものだけを見つめて物思いにふけっているようだ。この庭を造ることができる牡牛チーフの才能を、あるいは好きになったのかもしれないなと僕はおぼろげに感じた。
「チーフね、結構あっちの方がすごいんですよ」
「は?」
「いやあ、色々溜まってた時期に一回芝刈り機使って庭中の芝生をアバンギャルドにしてやったことがありまして。むちゃくちゃ怒られたの。それでそんな非常識なことをやらかすのはこの腰かとか言われてチーフの部屋に連れていかれて、もうズッコンバッコン、ありえないですよ五回ですよ五回。俺もう三回目あたりから死ぬってしか言ってなかったですもん。次の日足腰立たなくて仕事出られなくて、自分の部屋で一日中ショックで泣いてました」
「はあ。それがなぜ惚れる」
「いや、寝て起きたらチーフ以外では満足できん体に。次の日からチーフに怒られたら心臓麻痺で死ぬなってぐらい怯えてたんですけど、そしたらチーフがね。そういうときに限って”悪かったな”とかいってあったかくしてくれるんですよ。向こうも何か理解しようとしてたみたいで。やっぱり何もかも違うまんまなんだけど、でもそれから随分なかよくなりました。
 ──あ、ついでにね。蟹サブチーフとも動物の話では突っ込んで話ができるようになって、それで随分ましになったかなっていう感じです」
 新しく入ってきた水瓶とは、もとから相性がよかったのだろう。苦労もなくすっかり馴染んだと射手は言う。それでも僕らは反りの合わない相手との苦しみに意味を見出そうとする。

「愛って時々すごい苦しいっすねえ」
「相手にもよるんでない? それは」
「ああ、そうかもね」
 また職場に戻るためにゆっくり英気を養う僕の横で、射手は牡牛チーフの頭の重さなどおくびにも出さず幸せそうに笑うのだった。


 - fin -

作品データ

初出:2007/10/-
同人誌『雪の山荘殺人事件/Android』収録
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