雪の山荘殺人事件

 ノーブルな雰囲気を醸した山荘の居間に生き延びた全員の人間が集められる。水瓶は居間の中央にあるテーブル前に立つと、うつむいた沈痛な面持ちから一人一人の顔を検分した。
 牡牛、蟹、獅子、乙女、天秤、蠍、射手、山羊、魚。一番歳若い魚の頭には真新しい包帯が巻かれている。何者かの陰謀で階段から転げ落ち頭を負傷したせいだ。

 この山荘に水瓶自身を誘った一家の三男──牡羊の姿は既になかった。あの快活で一本気な友を救えなかったこと自体、水瓶にとってはまぎれもない敗北の証だ。執事の双子の姿もない。もっと前に川田が殺された時点で犯人に辿りつくヒントはあったはずなのに。
 水瓶は表情を引き締めると顔を上げ、ことさら感情を排除した知的な声色で話し始める。この検証作業に自らの感情は不要どころか有害だ。誰にでもわかるように、なるべく平易に、事実と思考過程だけを述べなければならなかった。



「僕の推理をお話する前に、もう一度事件を最初から整理しましょう。
 山荘に僕たちと死んだ川田さん、牡羊、双子さん含め十三人が揃ったのが十日の二十二時──夜十時ごろでした」
「俺がここに来たのが最後だったわけだね」
 壁際で腕組みをしている射手に水瓶がうなずきを返した。
「実質、吹雪が酷くなって山荘が密室化したのは十九時(夜七時)ごろです。山荘の回線電話が使えないとわかったのが二十時ごろ。携帯電話はもともと全員圏外になっていました。吹雪がおさまってからもう一度連絡を取れるか試そうということで皆さんが一旦就寝されて、翌朝蟹さんが庭の日時計に刺さっている川田さんを見つけた。これが十一日の朝六時」
 水瓶の乾燥した視線の前で蟹はセーターの上に着たエプロンの裾を握り、青ざめていた。同僚の死と片付けるだけでは済まない、後ろ暗い何かがその陰りの中に存在した。
「なぜ、庭へ出たのか? まだ吹雪のやまない氷点下の戸外へ?
 皆さんもご存知のように蟹さんはその日の朝、部屋の前に一枚のメモを置かれていたのです。
『今朝五時、庭の日時計で誰かが死ぬ』というあの文面です。
 蟹さんは山荘の人間の中でもコックという職業柄朝が一番早かった。気も優しいようだ。彼を第一目撃者にすればその後のもろもろのことがスムーズに進むであろうことはここにいる誰でも想像することができるでしょう。
 川田さんは庭の日時計に串刺しにされ凍りついていた。おりしもの積雪のせいで彼が殺された直接の時間、場所、死因などを特定することは困難になってしまいました。一旦山荘に引き返した蟹さんの手で全員が起こされたのが朝の六時半ごろ。川田さんの死が確認され、その後皆さんが落ち着いてようやく朝食をとったのが八時」
 暖炉の火の灯りがその場にいる全員の姿を照らし、半分の陰影をゆらめかせた。
「身動きがとれない状況で容疑者がたくさん挙げられました。また僕たちの他にも誰か殺人鬼が潜んでいるかもしれないという話にもなった。疑心暗鬼です。そこで牡牛さんが皆さんをまとめ、とにかく何としても通信を復活させて警察に助けを求めようという運びになりました。
 電話がまだ通じていなかったために僕と牡羊、獅子さん、乙女さん、双子さんが午前中手分けして山荘の周辺を見回りました。ここで大事なことが二つ起きた。一つは見回りをしていた乙女さんが何者かに襲われ肩を負傷したこと。もう一つはこの山荘の電話回線が何者かの手によって、意図的に、切断されていたこと。これはその場にいた牡羊と僕そして後から来た獅子さんの目で確認しました」
 吹雪の中、鋭利な刃物で切断されていたコードの断面を見た瞬間のあの言いようのない戦慄を水瓶は今でも思い出すことができる。そして悔やまれた。牡羊があのとき何を考えたのか、どうしてすぐに察そうとしなかったのかと。
「外に出た全員が山荘に戻った後、またひと悶着ありました。全員が犯人のように見えてとても悪い空気が居間に流れていた。魚くんが泣きそうになっていましたね。絶対にこの中の誰でもない、僕らも知らないような殺人犯が山荘に隠れているのだと。僕らはこの閉ざされた巨大な密室で、しらみつぶしに可能性を一つ一つ当たっていくしかなかった。
 今度は山荘の全部屋を捜索しようという流れになりました。捜索は二階部分と一階部分の二回に分け、両方に僕と牡羊、そして山羊さんが参加しました。二階捜索のときは天秤さんと魚くんと射手さんが、一階捜索のときは蟹さんと獅子さんと双子さんと蠍くんが一緒に入ってくれました」
 水瓶は一同を見回すと、その外枠に静かに立っている山羊の顔を見出して声をかけた。
「山羊さん。あの捜索のとき、山荘の中はどんな感じでしたか?」
「……特別違和感を感じるような箇所はなかった。抜け穴や隠し扉も一つ一つ検証したが、使われた様子はなかったよ。どこも地面に埃を被っていた」
「この山荘には構造上の欠陥があると牡牛さんは仰っていましたが、建築士の目から見てどうですか」
「設計上での欠陥は特別見受けられない。──だがそこに住まう方との相性をすり合わせて、よくないということであれば、それはいくらでも直すべき欠陥になりうる」
 沈鬱な表情をする山羊を牡牛がソファから苦い顔で見つめていた。水瓶は淡々と、だが決して看過することなく疑問を牡牛へと投げかけた。
「欠陥がある山荘を取り壊さず、何故使い続けるのです? 牡牛さん」
「家を一つ取り壊すのは非常に金のかかる作業だ。補修で済むならそうする」
「僕なら過去に人死にの出た建物は、何があろうと叩き壊します。もしくは絶対に近寄らない。建物の欠陥が原因で人が死んだのならなおさらです。──あなたは本当はわかっているのではありませんか。この山荘に本来致命的な欠陥など存在しないことを」
 牡牛の焼いた鉛のような沈黙が重かった。その反応を引き出しただけで水瓶はひとまずその場をよしとした。
「建物の件については、あとで。話を戻しましょう。
 僕たちが一階と二階の捜索を終え、キッチンで昼食をとったのがお昼の十三時ごろでした。活発な議論が交わされました。特に川田さん周りの怨恨について、かなり昔まで話が遡った。川田さんは七年前の後妻さんの事故のときに別荘番として牡牛さんの激しい怒りの捌け口になったことがあったそうですね。しかしながら、解雇はされなかった。当時から勤めておられた蟹さんと乙女さんについても同様です。亡くなられた双子さんだけがここ二・三年で新しく雇われた方だと伺いました」
「奥様のことや七年前のことについては、私がある程度話して配慮させていました」
「ええ、乙女さん。あなたは細心の注意を払って言葉を選んだでしょう。使用人は使用人の分をわきまえ、決して主人の暗い過去を詮索しないようにと。
 あそこで僕が昔の事件の話を聞かされたとき、一緒にいた双子さんがつい隠しきれずほくそえむような顔をしたのが忘れられない。あの絶対的な優越感に満ちた──いやこれは僕の私的な印象であって、不要な情報ですね。まさか自分が殺されるとは思っていなかったのでしょう。
 牡牛さんは七年前の事件以降、使用人をほとんど変えていない。暗い過去を知る人間を手元で監視しておきたかったのか他の理由があったのかそれはわかりません。とにかく双子さんだけはあの過去の事件の因縁から、外側にいた。
 昼食を終えて居間に戻ってきた僕らはそこで息のつまるような数十分を過ごしました。そして射手さんが時間つぶしに暖炉をかき回し、燃え残った屑を集めてパズルを始めた。川田の脅迫状が出てきたのがその時でした。七年前の後妻さんの事故は殺人。川田はその真犯人を脅して殺された──全員が固まる中で、牡羊の動きがいち早かった。彼は『信用できるか』と叫んで一人で部屋に篭ってしまいました。あとはなし崩しです。ばらばらに皆さんが部屋に篭りだしてしまうのを、もう誰も止められませんでした」

 水瓶は話を続ける前に束の間、弱々しく口調を落とした。

「──遠吠えになりますが。
 僕はあのとき、かじりついてでも牡羊についていくべきでした。何としてでも彼を止めなければならなかったのに。一瞬でも一人で考える時間が欲しくて彼と離れたことを、いま心の底から後悔しています」



 かけがえのない友人を喪くした今にして思えば、牡羊は断線されたコードを見た時点で既に犯人の予想をつけていたのだった。脅迫状が見つかってそれが直ちに行動へ変わった。あんなにも明るく裏表のない彼が、それでも水瓶に家の暗い過去を一言も告げなかったことに水瓶は家族の業と彼なりの思いやりを感じる。
 ──もう少し、あと一歩彼が自重していてくれたなら。
「皆さんがそれぞれの部屋にばらけ、僕が自室に鍵をかけて一人でいると夜の十九時ごろ蠍くんが一人で僕の部屋を訪ねてきました。……いえ、何もありませんでしたが一応アリバイ証明にね。
 牡牛さん。あなたはこの家の暗い秘密を外に漏らさないためなら人を使ってなんでもやる人だということが僕にはよくわかりました。せっかく蠍くんをよこしてくれたのに申し訳ありませんが、そろそろ彼は解放してあげるべきだ。僕は警察へ行ったら真実を告げます」
 蠍の立場を考慮して水瓶は含みのある物言いをした。牡牛は皺のいった顔の中から一瞬恐ろしい目の色を見せる。また一同の陰にひっそりと立つ蠍の顔は儚げにうつむき、背けられていた。
「それぞれの部屋にこもったと言っても何人かの方にはある程度アリバイのある時間がありました。蠍くんについては僕の部屋に来る前に牡牛さんの部屋から出てきたのを、コーヒーを持ってきた蟹さんが目撃しています。蟹さんはそのまま牡牛さんを居間へ連れ出すと乙女さんと双子さんを迎えに行って、そこから二人と一緒に厨房へ向かって食事を作ったそうですね」
「はい。何か暖かいものを夕食にお作りすれば皆さんの気がやわらぐと思いましたし、やはりそれぞれが孤立しているのは危険だと思ったもので」
「あなたはその気になれば全員を殺せる機会がいくらでもあったのにね」
「その言葉は聞き捨てなりませんな。どういう意味ですか!」
 柔和な顔から眉を吊り上げて怒りをあらわにする蟹に、水瓶はごくごく薄い微笑をたたえて「すみません」と詫びを入れた。
「僕ならそうやって料理で毒殺するか、雪が解けるまで全員の食事に睡眠薬を入れるだろうなと思っただけですよ。でもあなたはそれをしなかった。それだけです。
 十九時前から料理ができる二十時ごろまで蟹さんは乙女さんか双子さんのどちらかと厨房に居続けた。途中で乙女さんは十分ほど席を外されたそうですね?」
「はい」
「一体何を?」
「私も蟹さんと同意見だったので他の皆様方を居間に集めたほうがよいと思い、二階に上って各部屋を回っておりました」
「皆さんの反応はどうでしたか」
「獅子様と天秤様は、すぐに居間にお向かいになられました。牡羊様の部屋からはお返事がなかったので失礼ながらマスターキーで扉を開けましたところ、無事でおられたのはよかったのですが無理やり力づくで外へと追い出されてしまいました」
「僕も牡羊兄さんが乙女さんを追い出したの見たよ。すごく怖い顔してた」
 乙女の証言に魚が横から証言を足した。魚を見る水瓶の目は感情を抑えて推理に徹している。
「君と乙女さん以外に牡羊の姿を見た人はいるかい」
「ううん。それはいない」
「乙女さん、他の人の状態はどうでしたか」
「射手様と山羊様は、すぐにそれぞれの部屋から出てこられました。蠍様とあなた様はご一緒でしたね」
「ええ、不本意ながらね。僕が牡羊の部屋に声をかけても返事はなかった」
「しかたなく私と魚様、蠍様とあなた様で一緒に階段を降りて私は厨房に戻りました。それで十分ほどです」
 乙女の冷静な証言が終わると水瓶は一息ついてぼさぼさの頭を軽く弄り回した。暖炉の火の爆ぜる音が小さく、熱気を伴って何度も繰り返される。
「──僕たちは牡羊だけを残して全員で夕食をとりました。三十分ぐらいですか。食事を終えて蟹さんと乙女さんと双子さんが厨房で片付け、残りの方々が居間に戻ったのが二十時四十分ぐらいです。
 二階から窓ガラスの割れた音がしたのがその時でした。
 不吉な音がしてしばらく身動きがとれませんでしたね。でもそのあとすぐに、獅子さんが『牡羊はどうした』と叫んで二階に走った。僕もそのときは夢中でよく覚えていなかったのですが、とにかく全員で階段を上って牡羊の部屋へ向かったのです。鍵が開かなくて咄嗟に乙女さんが持っていたマスターキーで扉を開けた。
 ドアを開けた瞬間猛烈な冷気が流れ込んできて──そう、雪が窓際に降り込んでいた。あらゆるものが白く凍りついていました。そして窓ガラスが割れていて、そこから一本のロープが外の屋根に垂れていた。
 牡羊はいない。人影も足跡ももう何も見えなくなっていました。そのまま……。僕たちは、全ての事件を犯した牡羊が、そのまま窓を破って逃げたのかと前後も見えずに思ったのです。
 あまりに寒くてその場は一旦扉をしめました。居間に戻って体を温め、しばらく誰も口をきかなかった。牡羊は雪の中に飛び出してそのまま逃げ切ったのか、それとも殺人の呵責に耐え切れず凍死する道を選んだのか。牡羊は向こう見ずだからそれぐらいやるかもしれない」

 回想を語る水瓶の前に、ふと猫の鳴き声がして一匹の白猫が飛び出してきた。水瓶はちょうどよかったと猫を抱き上げ暖炉の火をみつめた。
「状況を変えてくれたのはこの猫でした。この猫が二階にもう一度行かなかったら、僕たちは大切なものを見逃していたでしょう。アンタレスでしたか。蠍くんの飼い猫?」「はい」
「この猫が二階に行ってしまって、蠍くんと僕と魚くんがもう一度二階に行ったのです。アンタレスは二階の一番奥にある掃除用ロッカーの前で何度も鳴いていた。
 猫を拾いにいって見たロッカーの淵がおかしかった。掃除をしていないのに、扉の端から水がしみだしていた。水分は遡ると赤茶色になりました。錆が水に溶けたような……僕はただそのロッカーに人が入れるということに思い至っただけなんですよ。だから三人でロッカーの扉を開けた。
 折り曲げられてうつむいた人間が中に入っていました。ええ、牡羊が。頭から血を流して。僕はそれが友人でなく人形のようだと思った。蠍くんが悲鳴をあげ、魚くんは腰をぬかしました。変なことに誰も泣けなかった。びっくりしていたんでしょう。むしろ後から来た獅子さんが牡羊のすがたを見て泣き出したのが、僕にはよくわからずにいたくらいだった」



 回想のなかで。ロッカーの中から牡羊を見つけ出した水瓶は最初てっきり牡羊が生きているものと思っていた。割れた頭から血を流し続けてなおうつむいた牡羊の体は眠っているように見えた。肩に触るとぐらりと揺れた。牡羊の体はロッカーの中でずり落ち、中にあったモップの柄にからんで妙な方向に白い手をだらりと落とした。
 血の気のない手を水瓶が掴んだとき、氷のような冷たさに全身が強く粟立った。獅子がモップを出すとそれを振り乱して二階中を走り回り、「だれだーっ」と血を吐くような叫びをあげながら一つ一つの部屋のドアを叩いた。
 涙は求めても得られない。
 水瓶は未だいびつなまま涙をもたずにいる。「人形」のまま認識が停止している牡羊を解凍し、水瓶自身の中で「死んだ人間」に戻してやらねばならなかった。

「牡羊は鈍器のようなもので前後から何度も頭を砕かれ、割られて死んでいました。そして死んだ状態でロッカーに押し込められた。血痕が周囲になかったのは犯人が犯行後に拭き取ったか、牡羊の頭を文字通り凍らせた状態で運んだからです」
 友人を殺されてなお水瓶は不自然なほど冷静だった。
 犯人は外に逃げたか? 中に潜んでいるのか? それとも残り十一名のいずれかの中にいるのか?
 口調を変えもせずに淡々と友人の死の光景を話す水瓶に、魚が震えながら口を出す。
「やっぱり、誰か知らない人が山荘の中にいるんだよ。雪が解けるまでみんなでここで大人しくしていようよ! そうすればもう誰も……」
「それは違う」
「……え?」
「全てを、何も無かったように無に帰するには不特定多数の人間が多すぎる。射手さんや山羊さんや僕だ。この犯人は保身のために家の中の人間すら殺した。七年前は後妻さん。そしていま、牡羊までも。もう後戻りはできない。疑う人間がいる限り、このまま日を重ねれば必ずまた死者が出る」
 そしてその被害者は水瓶らのような外部の人間だけに限らない。犯人以外の家の中の人間たちも同様なのだ。
「死体を前にして犯人が安らかに眠れる方法は一つしかない。死体に関わった自分以外の人間を皆殺しにすることだ」
「……じゃあこの中に、身内の中に犯人がいるっているの」
 水瓶は答えなかった。やさ男の面に厳格な目をして魚を見つめる。魚はそんな水瓶の顔を見て目元をうるませ、じっと溢れる言葉をこらえていた。
「話を、もとに戻しましょう。
 この事件の犯人は死んだ人間に全ての罪をなすりつけようとして二度もそれに失敗しています。一度目は牡羊の時です。これは皆さんも肌で感じたとおり。猫のアンタレスがロッカーに隠された牡羊を見つけださなければ、おそらくその日の夜のうちに牡羊の体は犯人の手でこっそり外に捨てられていたでしょう。あとは牡羊が自ら凍死したことにして遺書なりをでっちあげ、全ての罪をなすりつければよい筋書きです。
 だが牡羊の死体が先に見つかったことで、さらに他の理由からも犯人は新たなスケープゴートを立てざるをえなくなった。そこで最終的に選ばれてしまったのが双子さんです」

 居間に介した一同がいよいよ動揺しだしたところへ、水瓶は一人推理を続けた。
「あくまで時系列に沿った形でいきましょうか。
 僕たちは牡羊の死体を空き部屋に移して寝かせた後、もう一度居間に集結しました。今度はもう誰も孤立しないよう部屋の毛布を持ち寄って……。全員雪が解けるまで居間で生活する覚悟だった。時間は、二十一時半ぐらいになっていたでしょうか。
 みんな疲れきっていた。それでも、眠れるものではなかったですね。しばらくすると射手さんが『もう一度部屋を調べたい』と言い出しました。川田さんの部屋、そして牡羊の部屋、最後に牡羊が殺されていたロッカーの全部をです。特に牡羊の部屋は雪が中に降り込み続けていたから、急いで調べないと何かしらの証拠が消える可能性があった。
 捜索隊が再度結成されました。射手さん、僕、双子さん、魚くん。獅子さんと天秤さんは一階に残った人たちの護衛、乙女さんは一緒に行くと仰っていましたが、外で襲われたときに肩に負った傷の具合が思わしくなかった。二階のは通路も部屋もそれほど広くはありませんでしたしね。結果四名で二階に繰り出したのが二十二時ごろです」
 水瓶の視線はその時のシーンを思い出し冴え冴えとしてくる。彼は──それを見たときには意識していなかったが、その時の捜索の中で牡羊の死に関する決定的な物証を確かに見つけていたのだ。そこから推理が成立するまでのたった数時間のタイムラグで双子は殺された。これもまた悔やみきれなかった。
「いくつかの疑問点が見つかりました。ですが、それをゆっくり考えていられない事態がすぐに起きた。
 二階の廊下に魚くんの悲鳴が響いたのです。本当にびっくりした。僕たちが慌てて廊下に取って返すと、魚くんが一階と二階の間にある階段の踊り場にころげ落ちて倒れていたのです。こちらも頭を打って軽く出血していた。
 魚くんは、階段を見下ろしているときに後ろから突き落とされた、誰にやられたかわからないといいました。そういっても二階にいたほかの人間は三人しかいません。
 四人が一階に戻ったところまではいい。そこからすぐに、魚くんを除いた残りの三人に全員から疑いがかかりました。射手さんと双子さん、そして僕自身です」

 水瓶の言葉にその場にいた人間たちがそうだそうだと内心で相槌をうつ。水瓶は目を閉じてここまでの顛末を再度検証すると、睫毛の長い目を瞬きさせて再び研究論文を読むように一同へ語りかけた。微量の熱が言葉にのって人々の記憶を刺激してゆく。
「思い出してください。みなさんは、ここまで死んだ二人と負傷した二人について猛烈な推論を始めた。
 最初に川田さんを殺すことができたのは誰か? これについては全員にその可能性がありました。まだ誰も事件に遭遇しておらず、就寝中のことでしたから。
 第二に、雪の吹雪く屋外で乙女さんに襲い掛かることができたのは誰か? これについては僕、牡羊、獅子さん、双子さんの四名が該当します。他の七名については全員山荘の中で一塊になっており、動くことのできる余地は一秒たりとも無かった。
 第三に、皆さんが食事をされていた二十時からガラスの音がした二十時四十分までの間に牡羊を殺すことができた人間は誰か? ……という疑問を皆さんは呈した。この殺人が最大のターニング・ポイントです。この問いに対しては、該当者は一人もいない! 牡羊は殺されただけでなく殺害現場からロッカーに運ばれ、押し込められ、証拠まで跡形もなく隠滅されたのです。あの食事中にそれだけ長時間一人になれた人間はこの中にはいなかった。
 最後に、二階から魚くんを突き落とすことができた人間は誰か。これについては僕、射手さん、そして双子さんの三人が該当した。
 ここまでで二回リストに上った人間が二人いますね。僕と双子さんです。皆さんの疑惑は当然僕と双子さんの二人に集中した。集団ヒステリーと申しますか……すでに深夜になっていたせいもあるのでしょう。僕と双子さんはそれぞれ一人ずつ別々の部屋に隔離され、外から鍵をかけられて軟禁状態にされました」
 雪が外で地擦りを起こし、屋根から落ちた音がした。遠い音なのに何人かはその音におののいてあらぬ方向を向いた。雪が外の音を消す。部屋の中の暖炉の音や、心臓の音が際立ってくる。
 みなを睨む水瓶のこめかみがびりびりと張り詰めてくる。
「音の無い一人きりの部屋で僕は推理に全神経を傾けましたよ。僕が犯人扱いされることも怖かったが、それ以上に一枚隔てたドアの向こうで殺人鬼がのさばっている現実に恐怖をおぼえたのです。
 牡羊が死んだときに何が起きたのか?
 閉じ込められるまでに見たもの、聞いたこと、どこかで自分は違和感を感じなかったか? 僕は電話線のコードが切断されていたときの牡羊の顔を思い出しました。僕は牡羊と一緒に全部屋を見回ったときの記憶を思い出しました。牡羊が殺されたあと、二階を捜索したときに自分が川田さんと牡羊の部屋で見たものを思い出しました。牡羊の死体のありようを思い出しました。そしてある一つの仮説にまで、ついに辿り着いた。
 夜が明けました。僕は生きていた。だが朝になって僕が部屋の外に出されたとき、双子さんは別の部屋で死んでいた。
 全裸で両方の手首を切り裂き、真っ赤なバスタブに漬かっていた。静かに! いやむしろ死因は別にあるかもしれません。双子さんの部屋にはコーヒーカップがひとつ割れ落ちていたそうですから。
 双子さんの部屋は風呂場以外きれいに整頓され、ベッドの上にはつけっぱなしのノートパソコンが置かれていました。そこには遺書と思しき文章が書き込まれていた。プリントアウトしたものをここで音読させていただきます」

 水瓶は弁舌を一旦やめるとポケットから一枚の紙を取り出し、皆の前で広げて朗々と読み上げた。

『拝啓

 双子です。皆様に多大な恐怖を与えたことをお詫びします。
 私があの卑劣な川田、そしてやむをえない事情から牡羊様を殺害いたしました。
 この家にお勤めに上がる前、そう七年前のあの日、私は強盗としてあの家にいたのです。
 奥様に現場を目撃され、その場の勢いで死なせてしまったところを川田に見られた。
 川田は強請り魔であるだけでなく人に脅迫状をしたためるような鬼畜、サディストでした。
 臆病からこれまで何度も金を渡してきましたがもう限界だった。
 牡羊様を殺めたのは彼にもまた日時計の現場を目撃されたからです。
 自首するよう一対一で諭されましたが、もうおそい。
 薬を飲ませてふらふらにさせ、ロッカーに押し込めてなぐりました。
 乙女さんを雪中でなぐりつけ、魚様を階段から突き落としたのも私です。
 とりかえしのつかないことをしたのを、命をもって償いたいと思います。
 さようなら』

 全員が無言だった。水瓶は朗読を終えると双子の遺書をたたみ、胸元に紙を持って重々しく目を伏せた。
「とりあえずこの遺書で全体の解決のようなものはついた。あとは雪解けを待って警察にこの現場と遺書を見せればいい。それでひとまず決着はつくのです」
 顔をあげ、目を見開いて公明正大な声を部屋にひびかせる。
「だがこれは断じて真相ではない。僕はこのまま、牡羊を殺し双子さんに全ての罪を着せた犯人を許すわけにはいかない。
 今から双子さんの身の潔白を証明します。皆さんどうか、このまま全員で二階まで来てください。そこで初めてこの事件の真犯人が明らかになるでしょう」



 敢然と疑惑に立ち向かう水瓶のたたずまいは一見静かであった。彼は不退転の意志で先頭切って階段へと歩き出すと、あとからついてきた九人の人間を連れて二階の川田の部屋へ向かった。
 川田の部屋は事件以後、空き部屋のまま鍵をかけられ閉ざされていた。水瓶は扉の前で立ち止まる。普通専用のルームキーかマスターキーがない限り、この部屋には入れない。
「乙女さん。部屋を開けてください」
 落ち着いた口調で言い放つ水瓶に乙女は無言のままマスターキーを取り出して従った。がちゃり、と重い音をたてて鍵があけられ、狭い部屋に十人の人間がひしめく。水瓶の手はベッドサイドのテーブルにある置き時計を慎重に指差した。
「動かされている」
「……本当だ! デスクの木目の焼け方がずれてるぞ」
 水瓶と共に二階を捜索した射手が大きく声をあげた。最初の捜索の時、二階に付き合った天秤と魚もはっと眉をひそめる。
「川田が自分で動かしたんじゃないのか」
「ええ、その可能性もあります。ですが僕が見て欲しいのはこのベルの鳴る予約時間の針です。七時半から八時の間ぐらい……本来別荘番で朝からこの山荘をとりしきっている川田さんが、この山荘の中でそんな時間に起きるでしょうか? 僕は遅いと思う。これは少なくとも住み込みの使用人が起きる時間帯じゃない。おまけに随分立派で重い置き時計だ。そうそう簡単に動かすものではないですよ」
 水瓶は置き時計を差す手をとめた。彼の足は次に他の面々を掻き分け、窓際へと向かう。
「もう一つ。窓際の床が不自然に湿っていたんです。今は乾いてしまったが、その代わりにほら、泥のようなものが床に見えませんか?」
 微かに、目をこらしてようやく見える足跡がそこにあった。一部分だけだ。残りは拭き取られ、カーペットもろとも清掃されている。水瓶の後ろで他の人間たちがざわめいた。
「川田さんは部屋に泥のついた靴を持ち込むような人でしたか?」
「いや、山荘に入るときはむしろ泥が入らないよう徹底してたよ。玄関に泥落としのできる乾燥室があるんだ」
 人々の中から天秤が答えた。見るからにきれい好きそうな彼の雰囲気に水瓶は納得した様子を見せる。
「そうですか。安心しました。これはイレギュラーな手段でしかつきそうにない足跡だ。この部屋は川田さんの死後乙女さんが鍵をかけ、その後は皆で決めた捜索のとき以外誰も入れないようになっていた。
 僕はずっと考えていたのです。牡羊は一体いつどこで殺されたのか。そして牡羊の頭を割った肝心の凶器……牡羊の血のついた重い鈍器が、一体どこにあるのか。
 皆さんは覚えていますか。ガラスが割れた音がして僕たちが牡羊の部屋に押し入ったとき、部屋の窓からロープが一本垂れ下がっていたのを」
 皆が記憶をたぐりながら首をかしげる中、はっとした息をついた者がいた。山羊だった。
「この部屋は牡羊さんの部屋から外屋根を伝えば窓からでも中に入れるはずだ」
「ええ。僕と牡羊は一回目の捜索のとき全部屋をまわりました。そのときに窓のクレセント錠をこっそり外しておけば、ドアに鍵がかかっていても後からこの部屋に入る術はある。しかも雪が降り続けているから時間さえおけば外に痕跡は残らない。
 牡羊はそもそも、部屋を出入りするときに窓を割る必要などないのです。あの部屋の窓を割る必要があるのは犯人のほうだ。何らかの自動的なギミック……おそらくはこの積雪を利用したトリックでしょう。それを使って時間差で窓を割り、皆さんの興味を牡羊の部屋に引きつけることで自身のアリバイを作る必要があった。結果牡羊の死に関してはここにいる全員にアリバイがあります。ぱっと見では一種の不可能犯罪に近い。
 牡羊はこの部屋で殺された。犯人は、牡羊が川田さんの死を調べるためにイレギュラーな手段でこの部屋に入った事実を逆用したのです」

 水瓶の推理を疑うものはもうなかった。水瓶は自身の説が確実に裏づけを得ているのを確認すると、そのまま全員を連れて川田の部屋を出た。
「出入り口は中と外の二つあった。以後犯人が川田さんの部屋で鍵を見つけて出入りしたのか、二本の通路をうまく使って部屋の施錠を守ったのか、立証するまでにはもう少し時間がかかります。でもそれは大きな問題じゃない。一番肝心なのはこの先だ。
 犯人は川田さんの部屋で牡羊を撲殺し、牡羊の遺体を隠すのと同時に凶器を隠す必要がありました。少なくとも彼が川田さんの部屋で殺されたことは隠蔽しなければならなかった。
 もともとイレギュラーな手段で部屋に入っていた牡羊を見つけられる人間は、自然と限られてしまうんですよ」

 水瓶の視線の先で男の体がびくりと硬直した──ように見えた。水瓶は牡羊の部屋の前に辿り着くと確信に満ちた乱れのない調子で声をかける。
「乙女さん。牡羊の部屋を開けてください」
「……はい」
 マスターキーを取り出し、牡羊の部屋の鍵穴にキーを差し込む乙女の手が微かに震えていた。一同を取り巻く不穏な空気がやがてひとつの流れを帯びてくる。
 回したノブの先から氷点下の息吹が廊下に漏れ出てくる。水瓶は迷わず部屋の扉を開けると、中から溢れ出たゆるい粉雪に真っ白な息を吐いた。
「さて、川田さんの部屋の時計の話です。あれはベルの予約時間が七時半ごろのままあそこで稼動していました。今度は牡羊の部屋の時計を見てみましょう。もうすっかり凍りついて、止まっているかもしれないが」
 割れ窓から見える曇り空と、白い凍てついた洗礼の中を歩いてゆく。水瓶はベッドサイドのテーブルの前に立ち、文字盤がきれいに氷結して見えなくなった部屋の置き時計を掴んだ。川田の部屋の置き時計や他の部屋の置き時計と全く同じ型に揃えられたそれの文字盤を擦り、氷点下の冷気の中で犯人を睨みつける。
 部屋の中の時間が水瓶の周りに集中し、凝着して動きをとめた。
「見えますか。この文字盤の針が。予約のベルの針は六時にセットされている。それだけじゃない。この時計は窓が割れる約三時間半も前、夕方の十七時ごろで止まっているんですよ。よほど強い衝撃が加わったのか文字盤も端が少しひび割れている。どうしてかな。牡羊の部屋の窓が割れたのは二十時四十分ごろなのにね。ちなみに乙女さん、あなたが蟹さんに呼ばれて部屋を出たのはどんなに早く見積もっても十八時半ぐらいでしたね。
 僕はこの置き時計に残された僅かなしみに賭ける。雪が解けて警察が辿り着くまで、この置き時計を死守します。人間の目に見えないほんの僅かな血液でも科学捜査にかければルミノール反応とDNA反応、そして指紋か手袋の化繊が出るはずだ」
 みじろぐ乙女の後ろでもう一人の人影が顔を歪める。水瓶は精悍なまなざしで彼らを射抜き、腹の力をこめて言い放った。
「わかりますか。牡羊は十九時の時点で既に殺されていたんだ。この置き時計で頭を殴られて!
 最後にあなたたちにお聞きしましょう。乙女さん。そして魚くん。
 あなたたち二人が十九時から二十時までの間にこの部屋で見たという牡羊とは、一体誰のことですか」

 全員の目が一同の中に居た一人の執事に、次いで頭に包帯を巻いた頼りなげな高校生に向けられる。
 乙女と魚は視線のむしろの中で口を閉ざしていた。窓から吹きすさぶ冷たい風が二人の体を撫でつけ、やがて部屋の入口を通って無人の廊下へと抜けていった。



 窓から吹き付ける風のほかには音もなく静まり返っている。
 それまで意思なく群がっていた集団は中央に乙女と魚の二人を残し、油を弾くように周囲へ拡散した。不安げにしている魚を庇う形で乙女は震えもせずその場に立ち、眼鏡の下の目を細めている。
「僕があなたがたの嘘に気づいたのは二回目の捜索のとき、魚くんが階段から落ちた後です。あなたがたは二人で共謀して牡羊の生存時間をでっちあげただけでなく、それぞれ相手のアリバイがあるときに自分が襲われたと狂言を言うことで、お互いのアリバイをより強固なものにしようとした。
 ありていに言えばやりすぎたのです。自分たちが安全圏に辿り着くまで何重にも嘘を塗り固めて、不安分子をことごとく消そうとした」
 もし双子の遺書が見つかった後も誰かが疑問を持ち続けたとして、このタイミングで物証を得られなかった場合次に殺害されていたのは間違いなく水瓶自身だっただろう。この推理は水瓶にとっても生き延びるための賭けだった。
 水瓶の烈気を受け止める乙女の目は消し炭のように霞んで底が知れなかった。それまで家政をとりしきっていた生真面目そうな目が、嘘のようだ。
 水瓶が黙っていると群衆の中から牡牛がしわがれきった声を出した。
「乙女」
 乙女が横目に牡牛を一瞥する。
 長い沈黙のあと、男の口元が微かに歪んで皮肉めいた微笑をつくった。狼狽する牡牛に乙女は低い声でつぶやいた。
「もうすこしお子さんの教育をきちんと自分でなさるべきだ。牡牛さん。こんなにも意思の弱い操りやすいガキがいるのでは足元をすくわれますよ」
「乙女!」
 乙女の台詞に今度は横にいた魚が首を横に振りながらとりすがった。震えながら男の情を確かめようとする魚を、乙女は手袋を嵌めた手で冷酷に振り払う。
「触るな。汚らわしい」
「乙女。どうしちゃったの、乙女! ねえ、乙女は悪くないんだよ。悪いのは僕だ」
 うろたえる魚をよそに水瓶は乙女へ問いかけた。
「七年前に後妻さんを殺害したのもあなたですか」
「そうだ。遺産目当てに老いぼれに嫁いできた売女が、手近なところで浮気なんぞするからだ。知らずに金儲けに夢中だった旦那も旦那、知ってて黙ってたガキどももガキどもだ。この家は腐りきっている」
「ちがうよ、乙女はお義母さんに脅されてたんだよ! お義母さんが相手しないとあのことをみんなにバラすって言ってて、それで」
 悲鳴じみた魚の声にその場にいた牡牛と獅子、天秤の体が凍りついた。やがて、獅子が内側からの熱に体をぶるぶる震わせて口元をわななかせる。
「どういうことだ。俺は知らんぞ。何も」
「ああ、お前は何も知らなかったようだな。態度でわかったよ。……だが弟どもはそれぞれ何か勘付いていたようだ。こんなに冷たい家でよく七年以上も働いてこられたものだと自分を褒めたいな」
 牡羊は後妻と乙女との関係については何も知らなかったかもしれない。だが彼は七年前の事件のときから後妻の事故死について、密かに疑いを抱き続けていたのではないか。だからこそこの山荘で川田が殺されたときに乙女を真っ先に疑った。水瓶は自らの回想に確信を抱きながら毅然として言葉をつづけた。
「双子さんはこの山荘に居る間にあなたと後妻さんが犯したあやまちに気づいたのではありませんか。おそらく一回目の捜索の後だ。そして第二の川田になった」
「ああ。七回忌だからといって余計なものを持ってくるんじゃなかったよ。全て廃棄しておくべきだった」
「双子さんはあなたを脅迫し、あなたの犯した殺人の裏づけを取ろうと動き回った。日頃の鬱憤があったのか山荘内で確実に生き残るためだったのかはわかりません……彼にとって命取りになったのは、彼があなたと魚くんとの共犯関係を知らなかったことだ。あなたは魚くんを使って彼に毒入りのコーヒーを飲ませ、彼を殺害した」
 乙女の後ろで魚の顔がさっと青ざめる。水瓶は胸に走る鈍痛に少しの間沈黙した。
(むごいことを)
 まがりなりにも実の兄が死んだ後で、なにが魚にそこまでの行動をとらせたのか? 水瓶はそれ以上知りたくないという思いに初めてかられた。
 暴ける限りの謎はすべてはっきりさせておく。それでも、一度事実を白日のもとに晒せばその先に新たな謎が生まれてくるであろうことを彼は覚悟した。
「この事件はもともと七年前の事件の延長上にある。
 ──この山荘では今回の事件の前に人が二人死んでいます。一人は牡牛さんが後妻に迎えた蠍くんのお姉さん。そしてもう一人はこの山荘を設計された山羊さんのお父上だ。山羊さんのお父上は後妻さんが亡くなられていた階段下の踊り場で自決されたということでしたね。自らが設計した山荘で人が死んで、それを設計の欠陥のせいと罵倒されたことに責任を感じていた。
 後妻さんは七年前階段から転げ落ち、たまたま持っていた果物ナイフが胸に刺さって死んだということになっている。林檎は近くに転がっていましたが、もともと事故死かどうかかなり怪しい状況だった。第一発見者は乙女さん、あなただ。あなたの言葉が本当ならそれは事故死を装った殺人だったのでしょう……。
 そして牡牛さん。あなたはそこで真実から目を叛けるあまり致命的な禍根を残した。
 あなたは後妻さんを殺した真犯人を捜すのを拒否した。事件を事故死として処理し、目立たぬよう塗り潰したのです。どうしても憎む対象が欲しくなると山荘の設計者をありもしない階段の欠陥で槍玉にあげた。
 今この部屋にいる全員をごらんなさい。七年前の後妻さんの事件のとき、何人がここにいましたか。あなたと息子さんがたは全員いたはずだ。それだけではない。蟹さんも乙女さんもその時から勤務していましたね。残りの蠍くん、山羊さん、射手さんに至っては全員ここで死んだ二人の関係者だ」
 水瓶の確信的な言葉に、一同のなかで射手が目を見開いた。
「射手さん、あなたはいつもロケットつきのペンダントを持っていましたね。そこに写っているのはあなたと牡牛さんの後妻さんじゃありませんか」
「参ったな。見られてた?」
「随分歳若かった。恋人か血縁関係だったのでは?」
「恋人だったよ。学生時代の話だけどね」
 軽い口調で明かす射手の顔を牡牛と乙女が見やった。射手はこの家にうずまいていた暗い霧を暴きに単身やってきたのだった。遭難しかけたバックパッカーというのは口実で、実際にはかなり前に山荘の近くに辿り着いていたと射手はその場で明かした。
「この事件は七年前からの因縁がもたらした、忌まわしい清算劇だったのです。もっと早く、こうなる前に全てを正しく清算するチャンスはいくらでもあったはずだ。
 失われた五人の方々の命が、僕には悔やまれてなりません」



 窓からの風はようやくゆるやかになっていった。雪が消えて晴れやかになってゆく外の空気に、沈んだ人々の中で射手がつぶやいた。
「謎がすっかり解けて安心したよ。あいつもあの世で安心してるだろうな。
 ……雪もどうやら止んだようだ。それで、これからどうするね? そいつをふんじばって皆で下山するかい?」
 家族や内輪だけでは思うように進まなかったであろう話を射手が外から牽引する。水瓶はうなずきながら何かロープになるものはないかと辺りを見回した。
「ちょっと待て」
 乙女の怜悧な言葉が横から飛んだ。水瓶の体が固まる。
「ひとつ訂正させてもらおう。双子を殺したのはそこのガキじゃない。私だ。ただマスターキーを使って、寝込みを襲って毒を無理やり飲ませただけだ。そこのガキに人を殺す度胸はない」
「乙女……」
「終わりだ。これ以上申し送ることはない」

 乙女は静かな手つきで胸元に手を差し入れると、胸元から薄手のスキットルを取り出した。みなが止める暇もなく栓を開け、中に入っていた透明な液体を部屋のベッドの上にたたまれていた毛布にふりまく。
 ガソリンの強烈な刺激臭が鼻をついた。虚をつかれた水瓶が一瞬足をすくませている間に乙女はポケットからオイルライターを取り出し、火をつけて毛布の上に落とす。
 一気に毛布の上に燃え広がった炎の赤い光が乙女の顔を下から照らした。
「乙女さん……!」
 乙女はもう返事をしなかった。鬼の入り混じった目で炎のついた毛布を掴み、そのまま全員を追い出す勢いで振り乱す。毛布から布団へ、壁紙へ、カーテンへ、木製の家具へ……本能的に逃げ出した他の九人の前で火は一気に周囲へと燃え広がっていった。


 牡羊の部屋から廊下へ、さらに階下へと逃げ惑う。何度も振り向きながら後ずさる人々を乙女は無言のまま炎のついた毛布を振って追い立てた。二階の廊下から天井へ、ドアへ、壁へ、みるみる点状に火がついて燃え広がり、業火が面をなしてゆく。
「乙女さん! 死ぬ気か!」
 集団の一番末尾で叫ぶ水瓶に乙女は答えなかった。後ろで燃え盛る火からの熱気が、その黒髪をゆっくりと凪ぎ揺らしていた。
 山荘が上から燃えてゆく。駆け足で階下へ降りた人々が玄関前のホールにばらけ、ドアノブを掴んだ天秤ががたがたと言うことをきかぬ外へのドアに息をのんだ。
「ドアが開かない」
 外からの積雪が窓やドアの外を半ば埋めていた。乙女は炎を片手に一歩また一歩と階段を下りてくる。パニックになりかけた天秤の手を山羊が引き、他の人間に向けて叫びながら玄関脇の乾燥室へのドアを開けた。
「みなさん、こっちへ」
 乾燥室から床の扉を開け、さらに床下の物置に入ってそのまた床にある重い鉄の扉を上げる。扉の下から湿気を含んだ地下通路があらわれた。山羊が急いで地下通路に他の人間を通すあいだ、水瓶は呆然とホールに立ち尽くしている魚の手を引いていた。
「魚くん、こっちへ来るんだ」
「……いやだ」
「いいから! 早く!」
 魚の顔は吸い込まれるように階段に立つ乙女を見つめ、蒼白になっていた。乙女はそれ以上人々を追わない。炎の燃え広がる二階を背に、眼鏡の向こうから覚悟をきめた目で魚の姿を見下ろしていた。
 魚の口が何か言おうと揺れるのを、水瓶が無理やり腕を引っ張って乾燥室へ引きずりこむ。
「ここの地下通路なら近くの小屋まで抜けられます。早く入って」
「……山羊さん、扉閉めるの? 閉めないで」
「通路に火が入ったら煙でみんな死んでしまう。乙女さんのことは諦めるんだ」
 泣き出しそうになっている魚を水瓶と山羊が力づくで地下へと連れこんだ。山羊は壁のスイッチを探って通路の電気をつけると自ら重い鉄の扉を閉め、全員で通路の先へと走る。



 山荘に火が燃え広がっていく。
 乙女は他の人間が地下通路へ逃げのびたのを見届けると、階段の手すりにも火を移しながらゆっくり一階へと降りていった。一階に下りた時点で毛布を壁際へ投げ捨てた。壁際の毛布から壁紙へ、一階のホールの周辺をも火が伝ってゆく。
 煙が下まで充満するのにはこの館は広すぎた。乙女は炎が放つ熱気の中でホールに立ち尽くすと、みずから走馬灯をつくるように館の中をながめた。



 七年前、乙女は階段の下にいた。何かが階段から転げ落ちる音を聞きつけ、駆けつけてみると牡牛の後妻が胸に果物ナイフが刺さった状態ではいずっていた。階段の上に手を伸ばし、何者かに呪詛の言葉をもらしながら。
 階段の上を見上げると、十歳の少年が真っ青になってその淵に棒立ちになっていた。四男坊の魚坊ちゃん。自分と後妻のあやまちを一番見せたくなかった子ども。

 ──ぼく、本当はあの新しいお義母さんきらいだ。あの人のせいでお母さんは病気で死んじゃった。それに、ぼくから大好きな乙女をとった。だからきらい。

 乙女は後妻に脅され、彼女の浮気の相手をさせられていた。自分の相手をしなければ自分が同性愛者であると周囲にいいふらすと言われて。事実だった。使用人の身でそんなことを社交界に広く暴き立てられては生きてゆけなかった。それでもせめてこの家の子どもたちには知られたくないと心を殺して生きてきたのに。
 乙女の足元で後妻は鬼の顔をしていた。血を吐き、血走った目で階上の魚をねめつけている。

「ころしてやる。このクソガキ……どうなるかわかっているの」

 乙女にはその絞り出すような声が聞こえた。魚は階上で立ちすくんだまま泣き出しそうになっている。やがて後妻はくるりと白目を剥き、頭を床に落とした。
 床には後妻の持っていたらしい林檎が籠と一緒に散らばっている。時が止まったかと思うほど長い時間のなかで、乙女は彼女が死んだことをほとんど確信した。女がおそろしく、そしてただただ少年が哀れだった。
 人を殺した未来を背負うには、少年はまだあまりに幼すぎると思った。
 乙女は覚悟した。後妻の近くに歩み寄るとその息を確かめ、胸元に突き刺さっていたナイフを握り、力をこめてさらに深く押しこんだ。刃が肉を突き抜けて背中にまで達そうかという勢いで。なまぬるい感触が手の中を走った。
 後妻の体は二度と動かなくなった。
 息を整える。乙女はそこから、階上を見上げて魚にできる限り優しい声で告げた。
「坊っちゃん。あなたはここにいなかった。いいですね」
 魚は乙女を見下ろしてがたがたと震えたままだった。
「行きなさい。お部屋に戻っていつものお人形を持って、ベッドに入っているんです。あなたはずっとお昼寝をしていた。何も見ていなかった。何もしていない。いいですね」
 もう一度念を押して、ようやくうなずいた。魚は立ち上がると幽霊のように奥へ歩いていき、そのまま自分の部屋へ入ってそっとドアを閉めた。
 乙女は一部始終を見届けると時間を置き、持っていたハンカチでナイフについた指紋を拭き取る。立ち上がると血のにおいがした。背筋が氷を落としたように冷たい。それでもこの重荷をあの少年に抱かせるぐらいなら、自分がやるべきだ。
「誰か! 誰か来てくれ!」
 わざとらしく大声をあげる。手がまだ血に粘っている気がする。もう後戻りはできなかった。



 地下通路を走る人々の中で、少年の足が止まる。
 水瓶が振り向いたのを機に、何人かが後ろを振り向いた。魚は泣き出しそうな顔で皆から離れて後じさる。引きとめようとする人々に彼はすまなそうな声を出した。
「みんな、行って」
「魚」
「お父さん。獅子兄さん。天秤兄さん。蟹さん。みなさん。ごめんなさい。
 愛してた。今も、愛してる」
 人々に背を向けて走る。何人かが魚の名を呼びながら後を追ってきた。獅子と天秤の足が特に早かった──魚は二人の兄に肉迫されながら、もう一度山荘への鉄の扉を開け乾燥室へと舞い戻った。
「魚!!
 鉄の扉を叩きつけるように閉めて兄たちの悲痛な叫びを断ち切る。すぐに近くの荷物を上に崩して出入り口を塞いでしまった。鉄の扉の下では獅子と天秤が扉を叩きながら喉が擦り切れるような絶叫をあげていた。
「魚ーっ!!
 魚は乾燥室から玄関ホールへと戻り、獅子と天秤は地下通路に残った他の人間たちによって泣きながら引き剥がされてゆく。
 水瓶は絶叫する獅子と天秤を無我夢中で引っ張って地下通路の出口を目指した。たった数十メートルの長すぎる道のりを生きる一心で踏破する。非常灯が連綿と続く通路の向こうについに自然光が見え、地下通路の出口を抜けると雪の残る森の中の小屋に出た。
 小屋を出た先で遠景に何かが光っているのが見えた。巨大な業火に包まれ天へと煙を吐く山荘。絶句する。一行は小屋の出口から、山荘がキャンプファイヤーのように崩れ落ちていく一部始終を見守ることしかできなかった。



 建物内の壁を嘗め尽くした炎の中で、乙女が末期の顔で立っている。全てを呑みこんでいく炎の勢いが凄絶で美しかった。罪人には自ら死を選び取る末路がふさわしい。乙女はただ立っている。あとは死を待つ。
 決して誰も戻ってこないであろうと思われたホールにもう一人人影が現れた。乙女は人影に気づくと瞠目し、相手を認識して言葉を失った。
 魚は息を弾ませながら乙女の前へ駆け寄ってくる。何を言っていいかわからず、夢中で彼の袖を掴んだ。まるで彼に遊んでもらっていた少年時代のように。

「ごめんね」

 泣きながら笑う。乙女は枯れていた瞳に束の間潤みを取り戻した。潤みはすぐに炎の熱気にまかれ、すすを巻き込んで乾いてしまう。
「帰りなさい、坊っちゃん」
「いやです。あなたのそばにいる。……それに、もう子どもじゃない。少なくともあなたに愛してもらえる歳にはなったでしょう?」
 乙女は初めて魚が何を望んでいたか知った。遅すぎたタイミングで。それでも、生きているうちに彼に応えられる時間を数分でも得られたのは幸運だったのかもしれない。
 炎が迫ってくる。乙女は泣き笑う魚の目を見つめると、睦言のように低くつぶやいた。
「ばかなことを」

 少年の体を強く腕の中に抱きしめる。魚がその顔に恍惚の表情を浮かべた。
 焔の粉が落ちて轟音が鳴る。梁が焼け崩れ、天井から燃え落ちた炎の塊が一瞬で抱き合う二人を押し潰していった。



 山荘が瓦解し、天へと炎を立てる。後から後からのぼる炎と火の粉が何者かを弔っているように見えて、水瓶はふと、ようやく館にのこしてきた友人のことを思い出した。
 川田も、双子も、──牡羊も、みんなあの山荘に残したままここまで来てしまった。彼らは今あの中で灰にかわっていっている。痛みも寒さ熱さも感じることなく、弔われて天へと上ってゆくのだろう。
 これでよかったのだろうかと思った。寂しくないのだろうか。おまえだけでなく弟の魚くんもそっちへ行くよと心の中で語りかける。牡羊は水瓶の中で、たぶん、ようやく死んだ。安らかにだ。もう彼に苦しみは訪れないと信じたかった。
 ぼんやりしていると視界がにじんで、横からハンカチを差し出された。射手だった。
「泣いてる。大丈夫か」
 水瓶は頬を濡らしているものが何か、まだよくわからない。ハンカチを受け取って顔を拭きながら、目を閉じている時間を惜しく感じた。
「大丈夫です。何でもありません」
 水瓶はハンカチを持ったまま遠くを仰ぎ、山荘の最期を見つめ続けていた。雪がやんだ空からは雲がちぎれ、山々にはしだいに真白い陽光が振り注ぎつつある。


 - fin -

作品データ

初出:2008/1/20
同人誌『雪の山荘殺人事件/Android』収録
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